永野郷土史 塚の古址

三、塚の古址

 

 野庭町(上野庭)三谷町2634番地の峰に〝塚の古址″という石碑が建てられています。碑は昭和27年1月に建てられたもので、次のような内容文のものです。
 「小田原北条氏は家訓を定め善政し、関東の鎮守であったが、天正年代豊臣軍の攻略は遂に北条氏を降した。小田原開城により旧居氏(旧姓青木)の遠祖は当時武臣 として降ることを快とせず、東走鎌倉古道の野庭里に定着するようになった。朝夕この峰にのぼり西望の小田原を追慕、再興の念願むなしく世を却った。遺志によりこの峰に柩を西に向け埋葬したところという。今を去る三百六十年、このところを塚の古址という。ここに略記し遠祖の霊を慰めたい。」と記されています。

 古址がある場所は永野で最高峰の海抜九六メートルばかりあり、晴れた日は小田原の海が見えるといわれています。旧姓吉本氏は、野庭に土着するようになって先住の旧居姓を名乗るようなったと伝えられています。

 すでに天下人となった豊臣氏に最後までなびかなかったかって関八州の覇者として君臨した小田原北条も豊臣、徳川軍によって五十余の支城をつきづきに失ない頼みの粟船(大船)玉縄城は、本城が落ちる以前に城主氏勝は下降してしまいました。本拠である小田原城も世にいう「小田原評定」 で知られている篭城戦となり、豊徳勢30余万の大軍に包囲されました。小田原城は中国の城郭を模して築城されたといわれた都市城郭で、前には相模灘をひかえ、背後は箱根山にまもられた難攻不落を誇った名城でした。しかし頼む支援は断たれ、孤立した本城は数か月の篭城戦に力つき、氏直の進言により父氏政らの助命を条件に開城を余儀なくされました。ときは天正18年7月5日、氏政は自害し、氏直は追放となっ た。

 支城の玉縄城は小机城とともに東国の要として鎌倉およびその周辺を把捉していました。この玉龍城の前衛としていくつかの砦が築かれていたようです。野庭の関城、丸山の笹山城もその一つと憶測されます。関城はすでに鎌倉時代に存在していたことが知られ、当時幕府の要職にあった和田義盛らによって幕府の実権をもりかえそうと乱を起し、執権北条義時によって滅ぼされました。この乱(1213年)に敗北した和田派が関城に立てこもり、一戦を交えて敗れ却りました。野庭に現永住の和田氏は、当時の和田一族の末裔といわれています。笹山城は限日地蔵の南にある送電塔あたりで、城跡には古井戸もあり、最近の開発によって炭火した御蔵米が出土したといわれています。野庭皆川氏は、玉縄衆だろうか、嘉作氏の遠祖は当時惣領であったと伝えられ、神祇職も兼ね、屋号は笹山と呼んでいますので笹山城との因縁がありそうです。

 斎藤氏一族も伊豆島田の住と伝えられ、小田原衆にまつわる説があり、斎藤正八氏の屋号は出身地の島田をもとにしていると伝えられています。小田原北条氏の敗北によって小田原衆や玉縄衆の多くが安住を求めて野庭里に定着し、〝塚の古址〃というような古址をのこしています。


四、首塚

 いまは廃寺となっている光照院明遍寺の裏山(下永谷町209番地)にある直径10メートル、高さ1.8メートルほどの円墳状の塚は、戦国のころ北条氏直がこの地に旅館を建て、軍勢を駐屯させ、敵の首級を軍門にさらし、その首級を集めて埋め、塚にしたことから首塚とよばれています。のちに後見をしていた雄巻上人の門弟が修業中、塚の霊が成仏しきれず、悲しみの声をあげておさまらないので僧霊厳上人を仰ぎ、法要を営んだところ哀傷の声がようやくおさまったと伝えられています。

 元和八年(1611年)に雄誉上人が塚の供養に一院 (光照院)を建て開山しています。その後寛永年間に霊厳上人が再建していますが、さらに享保17年に大津氏が修造しています。そのときの棟札にこれらの由来が記されています。

 光照院の造営を郷士大津氏が行なっているのは、もと小田原北条氏と主従関係にあったことに起縁しています。氏直は小田原城五代目の城主で、後に豊臣軍によって滅ぼされる運命にある人です。棟札に「北条家氏直起旅館於当地」とあり、さらに「軍勢云屯」記されていますので、旅館というよりむしろ陣屋に等しい館であったろうと思われます。小田原北条氏と大津氏のつながりは、元禄四年の、古碑と古文書に記されており、鎌倉の東慶寺(かけこみ尼寺)寺主井上禅定氏の翻訳によりますと、もと大津氏は三浦大津の住人で、北条氏に仕えるようになって伊豆韮山に移っています。

 大津妾南政継は北条氏康の近従で、その子玄蕃允政久は韮山で生まれ、永禄四年四月(1561年)上杉憲政の招きで長尾景虎(上杉謙信)は鎌倉におもむき、鶴岡八幡宮に参詣し、このとき景虎と政久が同伴しています。ことがあってか、上杉憲政に見込まれ、政久は主君(氏政か)の命により憲政のもとで勤従するようになり、老後勤番を免じられていまの永谷(山之内荘永谷郷永谷村)居を構えるようになり、天正五年に政久は亡したとあります。


五、富士塚

 庶民信仰で山岳信仰に類するものも多く、中でも富士山の信仰は講員によって、富士にみたてた塚を構築し、浅間神社を祀り、信仰していたことが知られています。
 富士塚または浅間塚、藤塚とよばれ、これが地名になっているところもあります。富士塚の由来は室町末期あたりからあらわれ、江戸末期にさかんになり、各地に富士塚が現存し、おもに富士浅間神社を招き、主神に木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、大山祇尊(おおやまずみのみこと)を祀っています。

 富士塚は丘陵上の富士山のよく望まれるところに築かれ、本塚に登ったことによって富士登山の目的を果したと信ずることによるものです。
 上永谷町深田4987番地(天谷丘陵上)にある浅間社もこの富士塚で、塚の径は25メートル、高さ5メートル余あって頂部はやや平坦をした東側に、浅間社(一説には大山祇尊)を祖る屋蓋の同がたち、右手に上永谷講中による石燈寵が一基たっていて、上永谷中、昭和7年5月と刻まれています。毎年5月6日には講中による祭礼が行なわれ、早朝より参道を整備し、舞楽を催し、こどもには供物が配ばられたようです。

 この富士塚は単に富士信仰のみでなく、山神としても五穀豊穣を願う農村信仰のつながりが強いようです。
 これは近時の信仰であって、塚が築かれた当時には少なくとも神道派もしくはそれに類する宗派の信仰対象とも考えられ、塚の構築年代はあきらかでないが、江戸末期の隆盛期からみて、その近い時期に築かれたものでしょう。

 

 











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