修証義(しゅしょうぎ)

修証義(しゅしょうぎ)
SHUSHOGI


曹洞宗でよまれるお経のひとつに修証義があります。 開祖道元禅師の主著「正法眼蔵」を中心に引用し、明治23年に編纂されたものです。 経典は、全5章3704文字から成り立ち、日本語によるわかりやすい経典であります。


第五章(行持報恩)

此(この)発菩提心(ほつぼだいしん)、多くは南閻浮(なんえんぶ)の人身(にんしん)に発心すべきなり、
この仏心は、人間の身心を受けて此の世に生まれてきた、このすがたに於てこそ、起きて来る勝れたこころである。苦しみのあって楽しみのないすがた、 楽しみのあって苦しみのないすがた、そういうすがたをうけたものの中からは、この仏心は起きてこない。
今是(かく)の如くの因縁あり、
思えば今、過去世より重々無尽の因と縁とによって、
願生此(し)娑婆(しゃば)国土し来(きた)れり、
長い長い間の願いがかなってこの娑婆の世界に生を受けることが出来た喜び、
見(けん)釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。
そして又この娑婆世界の釈迦牟尼世尊にあい奉る喜び、この勝れたる喜びは、比べるものなき喜びである。
静かに憶(おも)うべし、正法(しょうぼう)世に流布せざらん時は、
さらに又、思いを深めて考えて見ると、正しいみ教えに従って、そのみ教えの中に身を投げ入れて、己の見解を捨て去って、 教えのままに行じていこうと思っても、その正しいみ教えが、この世に行われていないならば、
身命を正法の為に拠捨(ほうしゃ)せんことを願うとも値(お)うべからず、
いかほどその願いが強くても、如何ともすることができない。
正法に逢う今日(こんにち)の吾等を願うべし、
幸いにして、今は正しいみ教えに逢い奉る喜びを思うべきであり、
見ずや、仏の言(のたま)わく、
釈迦牟尼世尊の御示しをあきらかにしっかりとうけよう。
無上菩提を演説する師に値(あ)わんには、
無上の道を演べ説き給う師に値う時には、
種姓(しゅしょう)を観ずること莫れ、
その人の人種や膚の色などによって偏見を以って観てはならない。
容顔を見ること莫れ、
又顔や容姿によって判断してはならない。
非を嫌うこと莫れ、
更にその人の欠点を拾い上げたり、
行(おこない)を考うること莫れ、
その行いの是非を論じてはならない。それは批評したり論じたりするのは、批評したり論じたりする人間の尺度によることであって、
但(ただ)般若を尊重(そんじゅう)するが故に、
どのようなすがた形をしているものの中にも、どのようにつまらぬと思われる行いをしている者の中にも、きらめくような仏性のすがたがあり、智慧の輝きがあるから、その尊さにひれ伏して、
日日三時に礼拝(らいはい)し、恭敬(くぎょう)して、
日々朝夕に礼拝して、
更に患悩(げんのう)の心を生ぜしむること莫れと。
余計なことは思い患うことはない。
今の見仏聞法(けんぶつもんぽう)は仏祖面面の行持より来(きた)れる慈恩なり、
礼拝が行ぜられるところに教が実になるのである。現に釈迦牟尼世尊の間違いなきみ教えに値い奉り、
仏祖若し単伝(たんでん)せずば、奈何(いか)にしてか今日(こんにち)に至らん、
そのみ教えを聞くことができるのは歴代のみ仏さまお祖師さま方が、 身を以って行じ心を以って伝え給うことによって頂くことであるから、
一句の恩尚(な)お報謝すべし、一法の恩尚お報謝すべし、
一句、一法の中に深く示されているご恩を知りご恩に報いなくてはならない。一句一法ということは全句全法のことである。
況(いわん)や正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)無上大法の大恩これを報謝せざらんや、
更に又、天地一杯に漲っているこのいのち、凡てのものが、そこに生き、そこに死するところ、 そこより外に行くところのない大いなるいのちに気づかせて頂いたそのご恩は、何よりも有り難く、ご恩に報いなければならぬ。
病雀尚お恩を忘れず三府(さんぷ)の環(かん)能く報謝あり、
後漢の揚宝が傷ついた小雀を助けてやった為に、その小雀がご恩返しをして四代に亘って政府の高官となったこと、
窮亀(きゅうき)尚お恩を忘れず、
又漁夫に捕らえられた亀を救ってやった人が、その亀のご恩報謝の為に餘不亭侯となった話など、
余不(よふ)の印(いん)能く報謝あり、畜類尚お恩を報ず、
その例話は多くあるように、畜類でもよく恩を知り恩を報ずるのであるから、
人類争(いかで)か恩を知らざらん。
人間として生を受けたものは、ご恩報謝をせずにはおれないのである。
其(その)報謝は余外(よげ)の法は中(あた)るべからず、
そのご恩報謝はどのように致すべきか。それは、次に述べるようなすがたがご恩報謝の正道であって、その外のやり方では真実の報恩とはならぬのである。
唯当(まさ)に日日(にちにち)の行持、其報謝の正道なるべし、
何か特別にそのやり方があるのではなくて、日々の生活の上に自然と行ぜられていくやり方である。
謂ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、
それはこれがご恩報謝であると意識して行ずるようなことでなく、鳥の空を行き、魚の水に住むように、鳥と空と相識ることなく、魚と水と相識ることなく、 しかも空に涯なく、水に限りなく悠々たるようにあることが、恩を知り恩を報ずることの端的であり至極のすがたである。
私に費やさざらんと行持するなり。
私共の日々のいのちを大切にして、私ごとに、恣意に費やさないように行ずることである。 それは、鳥と空、魚と水のようになっているとき、自然とそのように行ぜられていることになっている。
光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、
月日の過ぎゆくはまことに速やかであり、それは矢よりも早い。
身命は露よりも脆(もろ)し
この月日の流れの中に生きていく私共のいのちは草の葉にやどる露よりもはかない。
何れの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか過ぎにし一日を復び環(かえ)し得たる、
どのようなよき手だてを用いて見ても、過ぎ去りし日を呼びもどすことは出来ぬ。
徒(いたず)らに百歳生けらんは恨むべき日月(じつげつ)なり、
かくて意味もなく百年の年月を生きても、それは只はかなき生のいとなみのみというべく、無駄な年月であり、
悲むべき形骸(けいがい)なり、
つまらぬ形骸(むくろ)というべきである。
設(たと)い百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬび)と馳走すとも、
されど、そのように物の世界の中を走りまわったような百歳であっても、
其(その)中一日の行持を行取(ぎょうしゅ)せば一生の百歳を行取するのみに非ず、
その中で一日でも、真実の道理に従った生活ができたならば、その一日の行持の功徳は、あまねく一生の全体を蓋うだけでなく、
百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり、
更に又そのようなすばらしい百年のいのちをもう一度過ごしたのと同じ徳があることになる。
此(この)一日の身命は尊ぶべき身命なり、
この一日のいのちは尊ぶべきいのちであり、
尊ぶべき形骸なり、
尊ぶべき身体である。
此(この)行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、
真実の道理に従った一日の行持、それは特別の一日でなく、極めて平凡な一日であっても、それが輝ける仏の御手の中の 一挙手一投足であることに気がつき、仏の御手を使い、仏の御足を歩むことであることに気づく。無量寿の仏の御いのちを歩むことであると気づかせて頂く。 そう気がついて見ると、いままでいたずらに過ごして来たと思っていた年月全部が、それがそのままに仏の御いのちの中のいとなみであったことに気づく。 このような行持を保ち得て、仏の御いのちをいのちとして生かされるこの自らのいのち、それは今までいたずらなるものと思っていたが、実は心より敬愛すべき身心である。
我等が行持に依りて諸仏の行持見成(げんじょう)し、
このような無常の風のまにまに流れていくような我々の上に仏のすがたは現成する。
諸仏の大道通達(つうだつ)するなり、
その一日の行持より諸仏が生まれる。
然(しか)あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子(しゅし)なり、諸仏の行持なり。
されば一日の行持は、諸仏の種子であり、諸仏の行持そのものとなる。
謂(いわ)ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、
数多くの仏様方の中でこの世に出現ましました仏様は釈迦牟尼世尊である。私共はこの釈迦牟尼世尊を通して三世十方の仏様を仰ぐのである。
釈迦牟尼仏是れ即心是仏(そくしんぜぶつ)なり、
その釈迦牟尼世尊は即心是仏の仏様である。そのまま仏様という意味あいであるが、そっくりそのままというのではなくて 行仏のすがたが現じなくてはならない。無限清浄の行を行じて行く身心を行仏という。
過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、
釈迦牟尼世尊は、発心、修行、菩提、涅槃の仏様である。三世十方の仏様もこの仏様である。 仏様は釈迦牟尼世尊に帰一せらる。
是れ即心是仏なり、
私共が戒法をうけ、発菩提心して仏心に住し菩薩道を行じていくとき、私共が即心是仏そのものである。それがとりもなおさず報恩の行となる。
即心是仏というは誰(たれ)というぞと審細(しんさい)に参究すべし、
そこには無限に連続して行く仏行がある。遠く彼方に仰ぐ仏様が、よくよく深く考えて見れば我が脚下に否私共自身の上に顕現していたことである。
正に仏恩を報ずるにてあらん。
尊きかな、あめつちの中に限りなく続くほとけの御いのち。それは断ゆることなし。


解説は、曹洞宗宗務庁版に依りました。


第1章 総序(そうじょ)
第2章 懺悔滅罪(さんげめつざい)
第3章 受戒入位(じゅかいにゅうい)
第4章 発願利生(ほつがんりしょう)
第5章 行持報恩(ぎょうじほうおん)

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