心のフィルム

風の道・・・つれづれに・・・



 第4回 心のフィルム

 去年今年 貫く棒の ごときもの

 これは、高浜虚子が年頭の感を述べた句である。この句は、私たちがいかに暦という、人類が季節の周期を発見しそこに枠をあてはめた形式に影響されているか、ということに気付かせてくれる。

 私たちが時間を思うとき、すでに脳裏にはカレンダーが存在している。毎日毎日同じ大きさで区切られており、大晦日が来て年が開ければ新しい時間が到来する。しかしそこには、貫く棒のようなもの、つまり昨日から今日、そして明日へと続く時間が流れているのだと虚子は言うのである。

 カレンダーで規則的に区切られているように時間は一定に流れるわけではない。例えば、どうしようもないほど退屈な授業は果てしなく統くような気がするし、趣味に没頭しているときはあっと言う間に時間は過ぎていく。

 尾道を旅した時のことである。尾道は瀬戸内海に面した坂の多い町だ。尾道水道を挟んだ市街地の向い側には、その名も向島という島があって、その島と市街地を船が行き来し人や物を運んでいる。

薄暮の時、その光景を僕は岸壁で見ていた。ぽんぽんと船の機関の音が遠く近くに聞こえる。船に灯りがともり薄闇の中を右に左に通り過ぎていく。船体の白がほのかに浮かんで見える。5分くらい経ったかなと、ふと時計を見たら20分が過ぎていた。  時間は、その人の心の有り様で伸びたり縮んだりするのだなと、その時僕は思った。暖かいそして美しい風景に没頭していた僕の心は、時間を短いものとして感じたのだ。

 それからしばらくして、僕はあるテレビドラマに出会う。「息子よ」という5回シリースの番組だった。

 息子とその両親の物語である。

 息子の病が見つかる。白血病である。初め両親は、小学生である息子に病の名を告げなかった。その小さな胸は事実の重さに耐えることができないだろうと思ったからである。しかし、父は決意する。

 都市部の家を引き払い、長野の山間部に転居する。その家は家族3人の手作りで建てるんだ、と父は妻と息子に告げる。一つ一つの材木に丁寧に鉋をかけていく。その作業の合間に父は息子に病の名が記された医学辞典を読ませ、自分の病と向かい合わせたのである。

 息子は、美しい長野の風景の中で急速にさまざまなことを学んでいった。生きるということ、死ぬということ、自然の偉大さについて、世界の美しさについて。本を通し、両親を通し、そして眼前に拡がる美しい自然を通して感じ取っていった。

 父と母は苦悩し、いさかいをし、泣きながら、息子の残された生の時間を豊かなものにしようと互いに支えあった。

 父と母は大学時代登山部で知り合い、恋をして、結ばれた。父は雪の中、息子を背中に背負い、その頃のことを話して聞かせる。母さんがどんなに可憂かったか、おそらくは恋を知らすに旅立っていく息子にはちきれるような切なさを感じながら語り、北アルプスの山頂から展望する偉大な山々の風景を熱っぽく伝えた。

 息子はその直後父に「ぼくもその風景を見たい」と言った。父は息子に山の風景を見せようと思った。しかし母は反対する。季節は冬、冬山の厳しさはおそらく息子の残り時間を短くするであろう。

しかし相談してみた医師の答えは「ご両親の判断にお任せします」であった。その言葉に息子の残り時間を感じた母は一転、登山を積極的に計画していく。

 父は息子を背負い、母はその後に続さ、深い雪の中を進んでいく。

何度も息を切らし止まりそうになる父を息子は気遣って「父さん、もうここでいいよ」と言葉をかける。しかし父はそれを遮り歩き始める。そして山頂。

 そこに拡がる光景は、荘厳であった。自らの存在の小ささを思い知らされる、しかし美しい世界がそこに存在していた。

 息子は目をつむる。気を失ったかと顔を覗き込む母に、「今、ぼくはこの風景を、僕のフイルムに焼き付けているんだ」と咳く。そうして3人で同じ風景を見ていた。

 息子はしかし再び北アルプスの風景を見ることはなかった。2月のある朝、静かに息をひきとる。  彼は12年しか生きることができなかった。短い時間である。しかし本当に短いと言えるのだろうか。  例えば、山頂から北アルプスの山々を見たその瞬間は、彼にとって永遠に近い時間だったのではないだろうか。

 彼は自分の病を知ってから密かにノートに一年分の力レンターを書き、一日一日過ぎるごとに、カレンダーの日付を鉛筆で黒く塗り潰していった。それは何と孤独な営みであったろう。

 彼は生と死を見つめ続けた。いのちを凝視しつづけた。その営みを通して、彼の感じる時間は「長さ」ではなく「深さ」という次元に移行していったのではないか。山頂で目をつむり風景を焼き付けた彼の心のフイルムは、無限大の「深さ」という感度を持っていたのだ。

 彼は、12年という平行的な時間感覚を超え、「深さ」という次元で時を生きた。

 私たちの心のフイルムはどうだろうか。時間の「深さ」を感じているだろうか。ドラマだといって軽んじてはいけない。
 尊い足跡がそこに示されている。  


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