雨は嫌い?雨は好き?

風の道・・・つれづれに・・・



第23回 雨は嫌い?雨は好き?

 雨はきらい?それとも好き?

 こう聞かれた時、みなさんはどうお答えになるだろうか。私の場合、両方の感情が存在するようだ。

 まず、きらいという方だが、外でずぶぬれになったときである。これは、無条件にみなさんも同意するところだろう。私たちの体は、水分がないと生存できないようになっているが、そのくせ外側がぬれると大変に不快感をおぼえる生理構造になっているようである。また、雨の日は太陽の光にお目にかかれないということもある。雨の日の印象は、暗く冷たい。

 私はよく、ふと思いたって、一人で旅に出るのだが、その時に雨だった旅先の印象は、やはりくぐもった灰色というイメージである。北海道に出かけたときは、旅程中ほとんど雨だった。北海道の雄大な大地は、さんさんと陽光のふりそそぐ、晴れの日が似つかわしい。例外というものもある。長崎に行ったときも雨だったが、これはあの歌謡曲のせいでもないのだが、とても雨の似合う町だと思った。唯一、稲佐山からの長崎の夜景を見ることができなかったのが残念だったのではあるが。

 今度は、好きという方。これは、一人、部屋の中で雨音を聴いているときである。できれば、灯りはついていないほうがいい。椅子に凭れながら、雨が屋根を叩く微かな音を、聴くともなく聴く。すると、やがてとても落ち着いた心持ちになってきて、気がつくと眠っていたりする。深いやすらぎを感じるのである。

 どうしてこんな気分になるのだろうか、と考えたことがある。そこで思いついたことは、部屋の中で雨音を聴いている状態というのは、きっと胎児の頃にいた、子宮の中によく似ているのではないだろうか、というものだった。私たちはその時、自分の故郷に帰った気分になるのではないか。大きくなってからは忘れてしまっている、羊水に包まれたあのやすらぎを、ふと思い出すのではないだろうか。

 考えてみれば、生命の源は海である。海という広大な水の中で、生命は誕生し、はぐくまれた。私たちが、それを懐かしく感じるのが当然ではないか。

 では、なぜその一方で、私たちは雨に嫌悪を感じるときがあるのだろうか。

 それは、生命が海から陸にあがったということに求められるのではないか。

 海は、生命にとってとても居心地のよいものだったろう。生まれた場所であり、育った場所なのだから。その居心地のいい場所から、どうしてあえて飛び出したのか、という理由はわからない。しかしともかく、生命は陸に上がった。陸で生きていくことを選んだ。だが、生命が陸の環境に順応するまでは、過酷な闘いが行われただろう。海へのホームシックに何度も苛まされたに違いない。

 海に帰ろうと思ったに違いない。でも、帰らなかった。自らを陸の環境に適応させ、海から離れていった。そこには、「故郷との訣別の痛み」というものが、きっとあった。

 私たちが感じる雨への嫌悪というのは、その「故郷との訣別の痛み」の古い記憶なのではないだろうか。陸上の環境に完全に順応した生命は、そのあまりに強い訣別の意志の故に、水に、そして雨に、軽い嫌悪を感じるにいたったのではないか。同時に強烈な郷愁を感じながら。

 やわらかな雨の降る春の一日、お気に入りの傘をさして外に出てみよう。春雨のやさしさは、嫌悪と郷愁のあわいを、どちらに片寄るでもなく、心地よく漂わせてくれそうである。


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