No.34

同事というは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり
『修証義』「発願利生」

 ここ数年の間に、日本では青少年層を中心に、ささいなことで人を傷つける悲惨な事件が大変増えてきました。皆さんも新聞紙上等で目にしたり、テレビで報道されたりして心を痛めることが多いと思います。

 これらの現象の一因として、情報社会の発達の中で家に籠りがちとなり、自然を含めた社会全体と一体となって生きてゆくことを忘れてしまったことが上げられています。つまり、人とのコミュニケーションを取ることが少なくなり、相手の身になって考えるとか人の痛みを知るというような、他を思いやる心が欠け、自分さえよければそれで良いと思う人が増えてきたからと考えられています。また、これらの現象の背景として、家庭・学校・職場などさまざまな場で、一人ひとりの個性を受けとめるべき親子関係や友人関係が稀薄になっていることも問題となっています。

 人を思いやるということは、一見簡単そうに考えられますが、なかなかできることではありません。人間は、自分が他の人より優れていると思われたいですし、又、他の人より楽をしたいと思うのが常であります。まして、自分自身の事よりも相手の立場を優先して考えるなど、煩わしいと思う人さえいます。

 私の知っている言葉で次のようなものがあります。

 よろこべば
 よろこびごとが
 よろこんで
 よろこび集めて
 よろこび来る

 この「よろこべば」は、たとえ他人の事でも自分の事として喜べばという意味で、その事が全体の喜びとなり、それに関わる全ての人が幸せになるという言葉であります。結果的には、自分と他人を区別せずに、相手の立場になって物事を考え、思いやることができるのです。

 これは、まさに冒頭に掲げた「同事」ということに他なりません。同事とは、本来、菩薩が相手の立場に同化して様々な実践を行う意味の仏教の言葉です。人が互いにこのような気持ちで接し合うならば、人々の心は豊かになり、幸福になって行くことでしょう。私達は、互いに自他の境を越え、相手の気持ちや立場に接することを日々心掛け、助け合い・励まし合いながら精進努力していきたいものです。


解説
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