Search

このウェブログのライセンス: Creative Commons License.
Powered by
Movable Type 5.12
カテゴリー:雑学
今年の干支は辰。
十二支の中で唯一想像上の動物です。
実は、龍はお寺、特に禅宗の寺院には切っても切れない関係にあります。
お寺をお参りされたときに、本堂に入って、天井を見上げると見事な龍の絵が描かれていたり、境内のあちこちに龍を見ることが多いはずです。
貞昌院でも龍が祀られています。
左は本堂正面に掲げられている欄間の龍。
右は本堂向拝の龍です。
明治時代の火災の際に、近隣の檀家さんに運び出していただき火難を免れました。
このようにお寺に龍が祀られているのは、龍が仏法を守る「神将」として位置づけられ重んじられているからです。
例えば法華経の一節に(1)天(2)龍(3)夜叉(やしゃ)(4)乾闥婆(げんだつば)(5)阿修羅(あしゅら)(6)迦楼羅(かるら)(7)緊那羅(きんなら)(8)摩睺羅伽(まごらが)・・・・という八部衆が出てきます。
特に、本堂(法堂)は仏教の教えを説く場として重要な建物ですから、龍は伽藍を守る大切な役割を果たしています。
上写真欄間の龍を見ると、波のように水を操りその上から龍が睨みつけています。
龍は水を操り、雲を呼び、雨を降らせる力を持ちます。
本堂に法雨(教えの雨)を降らせ、また木造建築を火災から守るという役割も果たしています。
------------------
これまで、このブログで紹介して来たいくつかの寺院の「龍」を並べてみました。
曹洞宗大梁山大慈寺(熊本県)佛殿の天井絵
大梁山 大慈寺
臨済宗円覚寺 白雲庵本堂天井画 雲龍 (画:入江正巳画伯)
道元禅師降誕の日と鎌倉歴史散歩
臨済宗聖福寺(福岡県)仏殿 天井画
福岡沖玄界地震に思う
浅草寺 大提灯
訪日外国人数、回復基調に
臨済宗泊船軒(荒川区)法堂天井画
仏教ホスピスの会いのちの集い
藤沢市に伝わる野辺送りの龍頭
野辺送り
-------------------
ここにご紹介しきれなかったものも沢山あります。
是非見ておくべき龍の天井絵もたくさんあります。
以下に、龍の天井画が有名な寺院を列記いたします。
円覚寺(仏殿)守屋多々志筆 鎌倉市
建長寺(法堂)小泉淳作筆 鎌倉市
向嶽寺(法堂) 山梨県
永源寺(開山堂) 滋賀県
国泰寺(本堂) 富山県
妙心寺(法堂)狩野探幽筆 京都府
南禅寺(法堂)今尾景年筆 京都府
東福寺(本堂)堂本印象筆 京都府
天龍寺(法堂)加山又造筆 京都府
相国寺(法堂)狩野光信筆 京都府
大徳寺(法堂)狩野探幽筆 京都府
建仁寺(方丈襖絵)小泉淳作筆 京都府
佛通寺(法堂)管南山筆 広島県
辰年の一年、さまざまな龍をお参りしてみては如何でしょうか。
末筆となりますが、建長寺や建仁寺の龍を描かれた小泉淳作氏が今年1月9日にお亡くなりになりました。
心より弔意を表します。
京急の線路、落札しました!!! ということで、折角落札したレールですからそれに関連して、京急の歴史を辿ってみました。
落札したレールは、大師線に設置されていたレールです。
現在の京浜急行電鉄は、川崎大師への参拝路線としての旧大師電気鉄道(日本で3番目、関東では最初の電気鉄道会社)がその嚆矢でありました。
つまり、京急で一番古い路線が大師線。
大師線は京浜急行電鉄のルーツである。当初は川崎大師への参詣路線として建設され(1) 、1899年に開業した。
営業運転を行う鉄道としては日本で初めて標準軌を採用し、また電車による運行は関東で初めてのものである。
人力車組合の反対で遅れていた現在の京急川崎駅への乗り入れは、開業から3年後の1902年に果たした。
なお、大師駅から先、総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)まで当初京浜電気鉄道(当時)自ら建設する予定であったが、別会社で建設されることになり、子会社の海岸電気軌道の手で1925年10月16日に大師 - 総持寺間が全通した。(2)
海岸電気軌道は鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)に買収された上に1937年12月1日に廃止となった。海岸電気軌道線の大師 - 大師河原間は現在の川崎大師駅 - 産業道路駅間とほぼ一致しているが、産業道路駅からは産業道路に並行して総持寺へ向かっていた。同駅の手前から産業道路横浜方面へ伸びる細い道が海岸電気軌道線の跡である。
同線の開通以降川崎大師へは毎年各地からの参詣客で大いに賑わうこととなり、それまで初詣といえば地元の神社仏閣へ参拝するのが習慣であったものを、各地の有名社寺まで電車に乗って初詣をするという習慣に変えた歴史的にも意義のある路線である。(3)
開業後、会社の予想を大幅に超える収益を上げたことから京浜間に路線網を拡大する基礎を築くとともに、各地の電気軌道計画に影響を与えることとなった。
(ウィキペディア「京急大師線」項より一部引用)
海岸電気軌道(かいがんでんききどう)は、神奈川県横浜市の総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)から川崎市の大師駅までを結んでいた軌道線(路面電車)(4) 、およびそれを運営していた京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄)の子会社の名称である。
臨海地区の工業地帯の通勤輸送を目的に1925年に開業。しかし世界恐慌の影響で利用客数が伸び悩み、1930年にJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道に譲渡されたが、鶴見臨港鉄道が本線で旅客営業を始めた影響を受け、産業道路建設を機に1937年に全線が廃止された。
その後、戦時下の1944年に大師 - 出来野付近(現在の産業道路)間の線路跡を利用して、現在の京急大師線(当時は東急大師線)が延長された。(5)
(ウィキペディア「海岸電気軌道」項より引用)
このことから分るように
(1)京浜急行の嚆矢は、川崎大師への参拝のための鉄道であった。
(2)(4)京浜地区の大寺院、「川崎大師」と曹洞宗の大本山「總持寺」が、京急の子会社、海岸電気軌道によって結ばれた。
(3)京急、および海岸電気軌道は、地元の寺社だけでなく、少し足を伸ばして大きな仏閣に初詣をするという習慣を作り上げた路線である。
(5)現在の大師線は、大師電気鉄道の路線(川崎ー大師)と、海岸電気軌道の路線(大師ー小島新田間)の部分から成っている。
ということになります。
京急(特に大師線)とお寺とは想像以上に密接な関係があったのでした。
左は、京急レッドトレインガーデンに展示されていた路線図。
右は、總持寺にあった2つの駅でご紹介した路線図。
どちらも昭和10年代のものと思われますが、沿線に「川崎大師」も「總持寺」も大きく描かれています。
寺社への参拝、初詣などが鉄道の輸送の中で大きな役割を果たしていたことが、この路線図からも伺えます。
さて、大正14(1925)年~昭和12(1937)年の間に営業され、「川崎大師」と「總持寺」を結んでいた海岸電気軌道(昭和5年より鶴見臨港鉄道)は
設置駅: 総持寺 - 鶴見川 - 下野谷 - 潮田 - 入船 - 寛政 - 下新田 - 富士電機前 - 田辺新田 - 田島 - 浅野セメント前 - 池上新田 - 塩浜 - (仮)競馬場前 - 出来野 - 大師河原 - 大師
運行本数: 川崎大師方面:総持寺発5時13分 - 22時30分まで10-20分間隔、総持寺方面:川崎大師発5時37分 - 22時56分まで10-20分間隔
所要時間:総持寺 - 川崎大師間24分
ということで、電車の速度はかなり遅いながらも、相当の本数が運行されていたようです。
↑昭和7年の地形図から、鉄道路線をトレースしてみました。
大正14(1925)年に開業した海岸電気軌道は、昭和5年にJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道に譲渡され、昭和12(1937)年には廃線となってしまいます。
戦後にあった川崎市電との環状線構想も夢のまま終わりました。
なお、蛇足ですが、東日本で初めて土地造成分譲事業を行った鉄道会社も京急電鉄(当時は京浜電気鉄道)でした。
その土地分譲により掘削されたのが、上図の黄色で示した部分にあった「川崎運河」です。現在の横浜市と川崎市の境界にあたる場所です。
大正7(1918)年に土地買収が完了、京浜電気鉄道が川崎運河を掘削し、大正11(1922)年には運河の工事と工業用地の造成が完了、土地の分譲がはじまります。
当初は、川崎運河に沿って鉄道を敷設する計画もあったようですが、関東大震災などの影響もあり結局実現しませんでした。
その後川崎運河は1950年代から80年代にかけて徐々に埋戻され、現在の京町小学校、住宅地、緑道などになっています。
話を戻します。
昭和初期の「總持寺」駅を撮影した貴重な写真はこちらです。
(『京急の駅 今昔・昭和の面影』(JTBキャンブックス)より引用)
ということで、京急の歴史とともに歩み、日本の近代産業を支え、仏閣参拝に大きな役割を果たしてきた大師線のレールや枕木が貞昌院にやってくることになったのことも、何かのご縁なのかもしれません。
※なお、落札したレールは1989年製、枕木は1987年製で、昨年まで使用されていたものだそうです。
■関連ブログ記事
總持寺にあった2つの駅
でいだらぼっち 野庭(のば)
現在は、団地や家が建ちならび、昔のおもかげはありませんが、天谷大橋のふきんは、四、五十年前までは、田んぼや畑でした。
ふつう田んぼは、川を中心にして、一面に続くのですが、野庭の田んぼは、ところどころに、ポツンポツンとあったので、めずらしい「飛び田」と呼ばれていました。どうして、こんな飛び田ができたのかというと。むかし、むかし、まだ、でいだらぼっちという人のいたころのこと。
ある時、このでいだらぼっちが野庭へ遊びに来たんだと。
でいだらぼっちは、力持ちの大きな男なんだが、とても気持ちのやさしい男でのー。村の家々をふまないようにと、つま先で立って歩いていたんだと。
馬洗川の近くまで来た時のことだ。川で水を飲んでいた馬が、でいだらぼっちに驚いてとつぜんあばれだしたものだから、静かに静かに歩いていたでいだらぼっちも驚いた。
思わずつま先立ちの指に力がはいって、土の中に指がめり込んだんだと。そのくぼんだ所に、水がたまつてできたのが「飛び田」なんだと。
まだまだ話のつづきがあるんだ。でいだらぼっちに驚いた馬というのは、北条政子という信心深い人が、鎌倉から、弘明寺観音へ、馬に乗っておまいりに通われたそうだが、その時の馬でのー。ちょうど天谷あたりの川原で馬に水を飲ませるために、一休みなさっていたんだと。
この人はエライ人でのー、「尼将軍」と呼ばれた人だけれどね。でいだらぼっちは驚いて飛び田を作ってしまったけど、たまげた馬は、かわいそうに、川におっこって、ついでに顔を洗ったのでこの川は、「馬洗川」と呼ばれるようになってね、「馬洗橋」の前の山を"糞山"というんだ。
それで、後の人たちが、いつとはなく、田んぼに出て仕事をしながら、こんな唄をうたうようになったんだと。
馬洗川と天谷大橋(てんやおおはし)
野庭はよいとこ 雨あがり
美人はいないか
ぬき足 さし足
尼さんの馬に追われて
でいだらぼっちが
"ふん"をした
メールで問合せいただいた内容を元に、今日のブログを記載しています。
冒頭のお話は、永谷に伝わる民話です。
この中のいくつかを航空写真から検証してみましょう。
写真は 1949/02/28 に米軍により撮影された空中写真です。
国土変遷アーカイブより引用しました。
このうち、永谷川上流部の田んぼと思われる部分(畑と思われる部分を除く)をざっと赤く着色しています。
(もう少し丁寧に塗れば良いと思うのですが、雰囲気だけでも)
川沿いに広がる田んぼ、そのうち民話にあるようにぽつぽつと飛んでいるように見える田んぼもあります。これが飛び田なのでしょう。
昔の人は、この飛び田を、つまさき立ちで歩いた でいだらぼっちの足跡と考え、馬洗橋の右下にある(もしくは左下にあった丸山のことか?)こんもりした山を、でいだらぼっちの「糞」と考えました。
なお、天谷大橋は写真中段やや左よりの位置にある谷に掛かる橋です。
面白い発想ですね。
この巨人伝説は、ほかにも関東近郊に広く見られるようです。
でいだらぼっちとは、神奈川県を中心に、関東近郊の富士山を望む地域に広く伝えられている巨人伝説で、イメージ的にはこのようなものなのでしょう。
Wikiペディア ダイダラボッチ 項には、でいだらぼっち(だいだらぼっち)の残した「跡」についての様々な事例が纏めらられています。
■山を作る・運ぶ
・富士山を作るため、甲州の土をとって土盛りした。そのため甲州は盆地になった。
・上州の榛名富士を土盛りして作った。掘った後は榛名湖となった。榛名富士が富士山より低いのは、もう少し土を運ぼうとしたが夜が明け、途中でやめたためである。
・浅間山が、自分より背の高い妹の富士山に嫉妬し、土を自分にわけろといった。富士山は了解し、だいだらぼっちが自分の前掛けで土を運んだ。しかし浅間山は土の量が足りないと怒り、彼を叩いた。その際にこぼれた土が前掛山となった。怒りだした浅間山はついに噴火してしまった。
・ 西の富士、東の筑波と呼ばれる関東の名山の重さを量ろうとし天秤棒に2つの山を結わえつけ持ち上げると、筑波山のほうは持ち上がったが富士山は持ち上がらない。そのうちに結わえていたつるが切れ、筑波山が地上に落ちてしまった。その衝撃でもともと1つの峰だった筑波山は、2峰になってしまったという。
■足あと・手のあとを残す
・上州の赤城山に腰掛けて踏ん張ったときに窪んで出来た足跡が水たまりになった。木部の赤沼がそれである。
・長野県大町市北部の青木湖、中綱湖、木崎湖の仁科三湖はダイダラボッチの足あとである。
・茨城県水戸市中央部の千波湖は、かなり大きいがダイダラボッチ(この地方ではダイダラボウ)の足跡である。
・遠州の山奥に住んでいた巨人ダイダラボッチが、子供たちを手にのせて歩いている時に、腰くらいの高さの山をまたいだ拍子に子供たちを手から投げ出してしまった。びっくりした子供たちとダイダラボッチは泣き出してしまい、手をついてできた窪みに涙が流れ込んで浜名湖となった。
・現在、東京都世田谷区にある地名「代田」(だいた)やさいたま市の「太田窪」(だいたくぼ)はダイタラボッチの足跡である。
・静岡市のだいらぼう山頂には全長150mほどの窪みがあるが、ダイダラボッチが左足を置いた跡と伝えられている。琵琶湖から富士山へ土を運ぶ途中に遺したものであるという。
・相模原市の伝説ではデイラボッチと呼ばれ、富士山を持ち上げ違う場所に運ぶ途中、疲れたので、富士山に乗っかり休んだところそこにまた根が生えてしまいもちあげようとするが、持ち上がらずそのときふんばった所が今の鹿沼公園であるという。
・小便をしようと飯野山(香川県中部)に足をかけた際に山頂付近に足跡が付いた(現在もその跡であるという伝説の足跡が残っているが非常に小さい)。なお、その小便の際に出来たのが大束川といわれる。
・愛知県東海市の南側に加木屋町陀々法師(だだほうし)という地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったとして伝説が残っている。名古屋鉄道八幡新田駅西側にあったが2000年(平成12年)頃に埋め立てられて現在はその形跡はない。
■休む・洗う・食べる
・榛名山に腰掛けて、利根川で脛を洗った(ふんどしを洗ったという説もある)。
・羽黒山 (栃木県)には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川で足を洗ったという言い伝えがある。
・長野県塩尻市の高ボッチ高原はダイダラボッチが腰を下ろして一休みした場所であるという。
・「常陸国風土記」によると、茨城県水戸市東部にある大串貝塚は、ダイダラボッチが貝を食べて、その貝殻を捨てた場所だと言われている。その言い伝えから、近くにダイダラボッチの巨大な石造が創られている。
■人間を助ける
・ 秋田県の横手盆地が湖であったので干拓事業を行った際、だいだらぼっちが現れて水をかき、泥を掬ったため工事がはかどった。このだいだらぼっちは秋田市の太平山三吉神社の化身と考えられる。
日本のいたるところで親しまれている巨人なのですね。
カタストロフィー(或いはカタストロフ)とは、1972年にフランスの数学者ルネ・トムが独創的に展開した数学の分野です。
この理論は、社会的事象や環境の変化などに応用することが出来るために一般的に知られる用語となりました。
ごく大雑把に簡単に図に描くと
(この図はポテンシャル関数の局所的最大化という極めて単純な図式です)
この図を元に、仮に社会や環境の「構造」を図の青い線で表現してみます。
世の中のさまざまな事象は、
明中に当って暗あり、暗相をもって遇うことなかれ、
暗中に当って明あり、明相をもって覩ることなかれ、
明暗おのおの相対して、比するに前後の歩みのごとし
『参同契(さんどうかい)』
にあるように、「明」と「暗」が一歩一歩の歩みの如く次々とやってきます。
明をプラスの方向、暗をマイナスの方向と考えると、その動きに従って、赤い玉が前後に揺さぶられます。
大抵の場合は、前後に揺さぶられても、あたかもお椀の中でビー玉を転がすがごとく、直ぐに底に戻ってきます。
安定領域の範囲であれば、そのようになります。
例えば、猛暑であったり、冷夏であったりしても、ある程度の範囲であれば何事も無いように直ぐに平時の状態に戻ります。
しかし、そのプラス・マイナスの触れ幅がある程度大きくなった場合はどうでしょうか。
つまり、安定領域から、回復可能領域の部分に逸脱した場合です。
この場合、安定領域に戻るためには若干のエネルギーが必要です。
さらに振れ幅が大きくなると、回復可能領域を超えて、淵から落ちてしまいます。
こうなると、もはや元の安定領域に戻すことは不可能です。
これが不可逆領域の部分です。
例えば明治維新、東京大空襲、横浜大空襲、原爆投下、終戦、バブル崩壊、大規模住宅開発、大震災、大津波・・・・大きな社会的事象が起きると、局所的あるいはある程度広範囲に歴史的な不連続面が生じてしまいます。
横浜大空襲では、空襲を受けた範囲では街の殆どが焼き尽くされ、建物も資料も失われてしまいました。
この事例では、大空襲を受けた範囲を局所的に見るに、不可逆領域に達してしまったのかも知れません。
しかし、日本全体的に見ると、終戦に至っても回復可能領域の範囲内に留まったていたと考えて良いのではないでしょうか。
このあたりが日本の「懐の深さ(=図の青い線の谷の深さ)」を表しています。
世界的に見ても、一つの国がこれほど長く継続的に続いている例は稀といえます。
現在、日本は東日本大震災、そして世界的な経済危機、円高の波に曝されています。
きっと回復可能領域を行ったりきたりしている状態なのでしょう。
けれども、世界の人々も、日本の人々も、戦後見事に復活した日本の底力を信じています。
補足ですが、局所的に不連続となった地域の「不連続面を繋ぎとめる役割」を寺院が大いに担うものと考えています。
なぜならば、その地域に「ずっとそこにあり」、「資料が代々きちんと受継がれ管理されている」という機能を寺院が有しているからです。
言い換えれば、不連続となった街の記憶を呼び戻す機能を、寺院が持っているということです。
その意味で、歴史的不連続の局面で寺院の存在意義、役割が問われることとなります。
<このあたりは追記していきます>
■関連ブログ記事
毫釐も差あれば天地懸に隔たり
実態からかけ離れてしまった経済
教区の施食会(おせがき)も終盤を迎えました。
各寺院を回るなかで、S寺様の控室に次のような色紙が置かれていました。
その中で出た話題です。
![]()
何気なく見過ごしてしまいがちですが、左側の字に注目してみましょう。
瑩山と書かれている「瑩」の字がちょっと違いますね。
なお、瑩山は「けいざん」と読みます。
曹洞宗の大本山は永平寺と總持寺が両大本山であり、道元禅師(どうげんぜんじ)と瑩山禅師(けいざんぜんじ)が両祖様であります。
さて、漢和辞典に記載されている「瑩」の字は次のようなものです。
(玉の部10 15画)
たいていの仏教書、曹洞宗で出版されているものも含めて、瑩山禅師はほぼ例外なく上記の字で記述されています。
ところが、色紙では次のようになっています。
では、瑩山禅師ご自身ではどのように書かれたかを見てみると、私のホームページの中にに丁度資料がありました。
⇒總持寺の国重要文化財・市指定文化財
大本山總持寺に保存されている『観音堂縁起』です。
この『観音堂縁起』は、『諸岳観音堂之記』『瑞夢記』とも称され、瑩山禅師が瑞夢により寺領などを譲り受けて寺院を創設することになった経緯をご自身で書かれたものです。
数少ない瑩山禅師自筆文書です。
文末の部分を拡大してみましょう。
やはり下の部分は「宝」となっていますね。
私が總持寺に安居していた時代には学科講義の中でこの話題に触れられたこともあり、また冒頭の色紙のように字を忠実に再現している事例もありますので、知っている方にとっては自明の知識でしょう。
しかし、反面、意外に知られていないトリビアでもあります。
宗門人としては知っておくべき知識でありましょう。
この 「瑩」の字について、N先生により学術的考察と提起がなされ発表される予定のようです。
ご成果を楽しみにしております。
■関連ブログ記事
夜空に奔(わし)る道元禅師・瑩山禅師
洞谷山永光寺
教区(近隣の曹洞宗グループ寺院21か寺)で順番に厳修している大施食会(おせがき)も折り返し。
後半の日程に入っています。
大施食会では、本堂正面、本尊様に相対して棚を設けます。
これを施食棚(せじきだな)、あるいは施餓鬼棚(せがきだな)と呼びます。
檀信徒各家のご先祖様、初盆の諸精霊、有無三界の萬霊をお迎えして食事を施すために山海の美味しいものが並べられます。
餓鬼のために生米と刻んだ茄子、胡瓜を混ぜた「水のこ」をお供えしたりもします。
あまねく「み魂」に施しをする日本の良き習慣です。
また、お盆の時期には各家庭で仏壇の前に棚を設けます。
この棚を盆棚といい、意味合いは施食棚と同じであります。
![]()
施食棚や盆棚には「精霊棚」という共通の別名があります。
この「精霊棚」は、「しょうりょうだな」と呼ぶのが普通です。
しょう‐りょう【精霊/聖霊】 1 死者の霊魂。みたま。 2 「精霊祭り」の略。《季 秋》「―に戻り合せつ十年ぶり/丈草」
『大辞泉』(小学館)
けれども、意外に「しょうろうだな」と呼ぶ方も多いことに気がつきました。
霊は、呉音で「りょう」とは読みますが、「ろう」とは読みません。
、
れい【霊〔靈〕】 [常用漢字] [音]レイ(漢) リョウ(リャウ)(呉) [訓]たま たましい
1 不思議な力や働きをもつ存在。万物に宿る精気。「山霊・神霊・精霊(せいれい)」
2 肉体に宿ってその活動をつかさどる精神的実体。たましい。「霊肉・霊魂不滅/心霊・全身全霊」
3 死者のたましい。「霊園・霊前・霊安室/慰霊・英霊・祖霊・亡霊・幽霊」
4 不思議な力をもつ。人知で測り知れない。「霊感・霊気・霊験(れいげん)・霊獣・霊峰・霊妙・霊薬・霊長類」
〈リョウ〉たましい。死者のたましい。「悪霊・生霊(いきりょう)・怨霊(おんりょう)・死霊・精霊(しょうりょう)」
〈たま(だま)〉「霊屋(たまや)/言霊(ことだま)」
それにも関らず「しょうろうたな」という呼び方が増えた理由は、恐らく グレープのヒット曲『精霊流し』の影響ではないかと推測します。
長崎の精霊流しは「しょうろうながし」です。
その語源の由来を見ると、「ろう」と読むことの理由が見えてきます。
精霊船の由来
寛政時代の記録に、「昔は聖霊を流すに船をつくるということもなく」とあります。「精霊」は「聖霊」とも書いていたらしく、読み方も「しょうろう」ではなく昔風には「しょうりょう」だそうです。享保(1716-1735)のころ、盧草拙(ろそうせつ)をいう儒者が市民が精霊物を菰包みで流しているのを、これではあまりにも霊に対し失礼だということで藁で小船を作ってこれに乗せて流した、という記録があります。精霊船の由来は、様々な説があり、今日まだ定説はないようですが、長崎の場合は、港という地理的条件と国際貿易都市としての独自の環境性が影響して、今日の精霊船の原型が生み出されたと考えられます。
『長崎事典(風俗文化編)』(長崎文献社)
しょうろうの「ろう」は、盧草拙の「ろう」という説です。
「しょうろう」でも「しょうりょう」でも、供養のこころは同じ。
頭の片隅においておいても良い豆知識です。
先日の 親子で学ぼう地域の歴史 の最後質疑応答の中で、横浜駅西口の砂利置場に関する話題が出ました。
丁度よい機会ですので、各資料を元に時系列に整理してみましょう。
相鉄のホームページ「相鉄瓦版」に次にような記述があります。
横浜駅前が砂利置場だったのを知ってる?
相鉄ジョイナスに高島屋、横浜ベイシェラトン ホテル&タワーズやザ・ダイヤモンドなど、多くのショッピングセンターなどが並び、毎日たくさんの買い物客でにぎわう横浜駅西口。全国有数の繁華街である横浜駅西口ですが、かつては砂利や材木が置いてあるだけのがらんとした広場でした。
もともと石油会社の所有地だった西口は大正12年の関東大震災で焼け野原となり、その後は資材置き場として放置されていました。太平洋戦争中は海軍の、戦後は米軍の資材置き場として使われましたが、一般市民の使える商店などはほとんどなかったのです。
その横浜駅西口に槌(つち)音が響いたのは昭和30年。相模鉄道が土地を買収し、開発に着手しました。ただの原っぱにすぎない当時の西口駅前を見て、大手百貨店や東京の有名商店が出店を断ってきたことさえありましたが、今から約50年前の昭和31年4月、アーケード街「横浜駅名品街」、現在の横浜高島屋の前身である「高島屋ストア」、「相鉄映画劇場」などが華々しく開業しました。オープン日には入場制限をするほど多数のお客様が詰め掛けたそうです。
その後、高島屋やダイヤモンド地下街(現ザ・ダイヤモンド)などが開業、現在の横浜駅西口の姿が整っていきます。昭和48年開業の相鉄ジョイナスの建設は、当時相模鉄道社内で相鉄いずみ野線(昭和51年開業)建設と並ぶ「二大事業」と呼ばれました。横浜駅西口は、まさに相鉄の歴史とともに発展してきた街なのです。
(相鉄瓦版より引用)
横浜駅周辺は、明治維新以降大きな変化を遂げました。
地図でその推移を見ると・・・
(迅速測図 1880-85年)
明治維新直後の横浜駅周辺は、神奈川宿から関内方面に湾をまたぐ街道がみえます。
日本最初の鉄道は、ここに敷設されます。
地図からもわかるように、現在の横浜駅の辺りは、東口は海、西口側は沼(平沼)でした。
旧街道(東海道)の様子もよく分かりますね。
明治時代後半までは、初代横浜駅は現在の桜木町にあり、東海道本線はスイッチバックで運行していました。
スイッチバックをしないですむバイパス線が引かれた頃の地図です。
ただし、スイッチバックしないということは、横浜駅を通らないということを意味します。
これでは困りますね。
そこで、1915年(大正4) 東海道線バイパス線による横浜「スルー」を避けるため、現在の高島町のあたりに二代目の横浜駅が開業しました。
明治後半から行われていた平沼(現在の横浜駅西口)の埋立ては、大正12年に完了します。平沼にはスタンダード・バキューム・オイル・カンパニーの貯油タンクがありました。
1917年(大正6)に、神中鉄道が創立。神中鉄道は、相模鉄道の前身です。
鉄道輸送の主要な目的は砂利採取・販売のための砂利輸送でした。
1923年(大正12)関東大震災で二代目の横浜駅(上記地図の横浜駅)は倒壊してしまいます。さらに、平沼の貯油タンク爆発炎上。被害甚大となります。
⇒このあたり、貞昌院先代住職が記録に残しています。
大正12年9月1日 正午を過ぎて間もなく、横浜市街地上空は黒煙濠々渦巻いて空高く立ち込め、物凄い光景が当地区から見られる。時折大爆音を耳にす。横浜港沖合に富士火山系に亀裂を生じ大噴火を成しつつありと流言が飛ぶ。後に、石油、ガスタンクの爆破と分る。(先人の教えに学ぶ地震の教訓)
大正末期から昭和初期にかけて、関東大震災の復旧復興や横浜市浄水場の建設など、砂利の需要、輸送量はかなり多かったようです。
上の地図を見ると、現在の横浜駅の位置に三代目の横浜駅が出来ています。
このあたりから戦争の色が濃くなり、1943年(昭和18)、神中鉄道は相模鉄道に吸収合併。
1945年(昭和20年)5月29日横浜大空襲、8月15日終戦を迎えます。
11月には横浜駅に進駐軍輸送指揮所が開設され、横浜駅前にテント村が並ぶようになります。
そして、横浜駅西口広場が進駐軍の資材置場(砂利など)となりました。
戦後焼け野原であった街が、少しづつ復興していく様子がわかります。
横浜駅西口は、終戦直後は「裏口」と呼ばれ、ただの資材置場でした。
商業ビルが並ぶようになった契機は、1952年(昭和27)に相模鉄道が横浜駅西口24,688㎡ををスタンダード・バキューム・オイル・カンパニーから買収したことによります。
さらに、1955年(昭和30)国民体育大会を機に西口周辺道路が整備され、翌年には横浜駅名店街、映画館、高島屋ストア営業開始・・・・
以降高度経済成長期の波に乗り、横浜駅西口は大きく発展していきます。
■関連ブログ記事
東日本大震災では、地震の揺れによって発生する「液状化現象」のために、地中から土砂が噴き出し、地盤の沈降により建物が傾いてしまったり、道路に亀裂が走り段差が生じるなど、過去最大規模の甚大な被害となりました。
地盤工学会の第一次調査速報では、液状化の被害が東京都湾岸部(お台場付近から千葉市)、埼玉県久喜市、千葉県我孫子市、印西市、茨城県潮来市、鹿島市などに及んでいることが判ります。
特に埋立地や川や湖沼沿いの地域に被害の分布が見られることが特徴です。
また、ガス、水道、下水道などのライフラインは地下に埋設されておりますので、液状化現象が発生した地域では断水やガス、下水道の不通が続き、長期に亘り生活支障が生じました。
液状化現象は、埋立地や川や湖沼沿いの地域に被害の分布が見られます。
ということは、その場所の過去の歴史を知ることによって、液状化現象の危険度をある程度予め知ることができるということです。
いくつか、自衛策を纏めてみました。
■自分の住んでいる場所の危険度を知る
国や地方自治体では、ハザードマップを作成しています。
例えば、横浜市消防局のサイトでは、様々な想定地震による液状化の危険度を予測して公表しています。
(左図)関東大震災の再来型である「南関東地震」
(中図)地震発生の切迫性が高い「東海地震」
(右図)市域直下を震源とする「横浜市直下の地震」
危険度マップを参考に、自分の住んでいる地域がどれだけの危険度があるかを把握しておくことは大切でしょう。
■自分の住んでいる場所が、過去どのような場所であったかを知る
地図で過去に遡って調べていくと、どのような場所であったかがわかります。
特に、過去に川であったり、水田、池、沼、海岸などであった場所を埋立てたり、谷を埋めて盛土をして造成をした場所は危険性が高いといえます。
また、地盤が砂のように透水性が高かったり、地下水位が高い場所も危険性が高くなります。
例えば、歴史に学ぶ港南台の会勉強会では、昭和30年代後半に大規模に開発された港南台の開発について、過去の地図や写真を元に学びました。
なだらかで一様な平面となっている住宅地も、50年ほど前は山や谷戸、川のある場所でした。それを切土したり盛土したりして平らにしているのです。
自分の住んでいる場所が、谷戸を埋立てて出来た土地であることを初めて知った方もいらっしゃいました。
自分の場所がどのような場所であったのかを知ることは、防災の意味でも大切なことです。
■危険度の高い場所では、地盤を強くし、発生を抑える対策を取る
危険度の高い場所でも、適切な対策を取ることによって、危険度を下げることができます。
最も有効な方法は、地盤改良です。
東京ディズニーランドでは、テーマパーク内では液状化現象が発生せず、建物に被害はありませんでした。
この理由として、「サンドコンパクション・パイル工法」や「ドレーンパイプ工法」などの地盤改良が行われていて、液状化現象の発生を防いだことが功を奏したと考えられています。
以前、ブログ記事で紹介した、羽田空港拡張工事における地盤改良工法も、ドレーンパイプ工法の一種です。
とはいっても、一般住宅で取ることのできる対策は、経済的な側面から言って限定的ですから、安く、効率的な方法を選択する必要があります。
危険度の高そうな場所にこれから建物を建てる場合には、地面から2m程度の深さまで地盤を締固めたり、液状化しにくい土に置き換えることが有効です。
また、家の形を地震に対して強い形(矩形など)にすることも重要です。
既に家が建ってしまった場合には、水抜き管(多数の小さい穴があいているパイプ)などを等間隔で地盤中に埋め込む「ドレーンパイプ工法」が被害軽減策の一つとして有効と考えられます。
地震の揺れによって行き場を失った土中の水分を素早く地表に排出させることが、被害軽減のためのポイントとなります。
■最後に
今日のブログ記事では、液状化現象とその対策について考えてみました。
液状化現象は、発生する危険が高い場所と、ほとんど発生の恐れが無い場所というようにはっきり分かれます。
また、液状化対策に限らず、どのような災害対策も、絶対確実、万能ということはありえません。
費用対効果を充分に検討した上で、どの程度費用をかけて、どの程度リスクを軽減するのかをよくよく考えていくことが必要でしょう。
いずれにしても、災害を軽減するための予備知識を持っておくことは大切です。
東日本大震災以降、電波時計の時刻が狂う現象がおこっています。
この原因は、福島第一原子力発電所の事故以降出された20km圏内避難指示を受けたことに伴い、東日本の電波時計に日本標準時を送っている「おおたかどや山標準電波送信所」からも職員が退避せざるを得ず、送信が出来なくなっているからです。
地図で確認すると、福島第一原子力発電所からの直線距離は僅か17km程しかありません。
より大きな地図で おおたかどや を表示
避難勧告は当分解除されそうにありませんから、この問題は長引きそうですね。
日本標準時電波が受信できない状態では、水晶=クォーツ時計と同等の精度になりますから、月差数十秒の誤差が生じます。
したがって、時々は手動で時刻を合せていかなければなりません。
電波時計を使っている場合は、その示している時刻が必ずしも正しくないということを意識しておく必要があります。
さて、ここで改めて時間・時刻について考えてみましょう。
そもそも一秒ってどのように定義されているのでしょうか。
地球が1回転する時間を1日として、それを24等分して1時間、さらに60等分して1分、さらに60等分して1秒なのかというと、それは違います。
なぜなら、地球の回転は微妙に速くなったり遅くなったり一定ではないからです。 地震でも地球の回転速度は変化します。
いつでもどこでも同じ時間を定義する必要から、現在は「セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9,192,631,770倍に等しい時間」と定められています。
(※セシウム133は自然界に存在する安定的な物質です。原子力発電所の事故で放出されるセシウム137とは異なります)
そして、日本標準時は、「明石」ではなく、「東京都小金井市」で作られ決められています。
意外に知られていないことだと思います。
小金井市NICTの新世代ネットワーク研究センターにあるセシウム原子時計18台と、水素メーザ4台を組み合わせ、その誤差の平均を取り(原子時計により若干の誤差が生じるのでそれを埋めます)、「協定世界標準時」(UTC)が作られます。
さらに、世界各国にある「協定世界標準時」の時刻をそれぞれ比較調整し、「世界時(UT)」が決められています。
では、なぜ、こんなに厳密に時間を決めないといけないのかというと、「時間」が基本的な単位系の元となっているからです。
例えば、長さの標準「1m」は「真空中で1秒の299 792 458分の1の時間に光が進む行程の長さ」と定められています。
時間がアバウトでは長さもアバウトになってしまうのです。
その意味で、おおたかどや山標準電波送信所の存在は重要です。
単に電波時計を正確に動作させるためだけに標準電波送信所があるわけではなく、様々な企業、研究機関に影響が生じます。
蛇足ですが、時間を正確に定義できると、物理量(光速、プランク定数、素電荷、万有引力定数、微細構造定数・・・・)の測定も正確にでき、ミクロ・マクロの領域における物理学の研究がより進むことが期待できます。
実用化の一歩手前にある「ストロンチウム光格子時計」は、セシウム原子時計の1000倍、実に「300億年に1秒」という驚異的な精度です。
これにより物理量を16桁以上の精度で測定することが可能になります。
たかが時間、されど時間。
知れば知るほど奥が深い世界です。
しかし、原子力発電所の事故により、原子時計による標準電波の送信が止まってしまっているというのは、なんとも皮肉なことですね。
一刻も早い標準電波送信所の復旧を願います。
独立行政法人の情報通信研究機構の発表によると、4月21日午後に職員10人が防護服を着て送信所に入り、機械のスイッチを入れ稼働を再開したそうです。
その後、職員は直ちに避難し、しばらくは無人のまま運転を続けるようです。
取りあえず一安心ですが、翌22日からは「警戒区域」に指定されてしまいましたので、今後のメンテナンスができるか心配です。
化学を少しでも齧った人には、化学実験の中に少なからず面白さや冒険心、化学の真実の美を見出したこともあるはずです。
そのワクワク感を再度愉しむことが出来るサイトをご紹介します。
いきなり紹介されている実験が「Making Salt the Hard Way(危険すぎる製塩法)」。 
実験の目的はポップコーンに塩味を付けるという至って平和的なものですが、その方法は・・・網で吊る下げたポップコーンの下でナトリウムと塩素を反応させるというものです。
元素周期表では、左端の第一族、右にある第17族元素は不安定なものが多いという傾向があります。
最も不安定な金属の一つであるナトリウム、そして毒ガス兵器としても使用される塩素を反応させるとどうなるのでしょう。
ナトリウムが何故不安定なのかというと、電子配列で電子が満杯の状態から一つ余った電子を手放しやすい元素であるから。
逆に塩素は満杯の電子配列にあと一つ電子が足りない元素です。
その2つが出会うと、もう大変。
ナトリウムの余剰電子が塩素の電子殻に移動し、猛烈なエネルギーを放出しながら反応します。
ナトリウムは、電子を1個手放すことでプラスイオンに、塩素は電子1個受取る事でマイナスイオンとなります。
プラスイオンとマイナスイオンがイオン結合により結びつき、塩化ナトリウムという安定した化合物が出来上がるのです。
実験は、というと猛烈な反応によって火花が飛び散り、その数秒後には、ポップコーンを吊るした網が解けて反応の起こっているボウルに落下、液体ナトリウムの火の玉が実験室中に拡散してしまいました。
結局目的は達せられなかったようですけど・・・・危険な実験ほど美しい煌きを放つのでしょう。
そのほか、恐怖の太陽を作る方法、グラスの中の量子力学、水銀モーター、自家製チタン、肉眼で素粒子を見る、小さな町全体を賄うほどの電力設備を使ってコインを半分に圧縮するなど。
物質の性質への理解を深めたり、未来の化学者を育てるためには化学式を暗記するだけではなく、このような実践事例に触れることも大切でしょう。
危険とも思える実験も、きちんとした知識と準備の上では(安全に)行うことが出来ます。
決行するには躊躇するような実験を代行してくれて、その美しい瞬間を紹介してくれています。
もう一つ、この中から実験を紹介します。
「石炭と水と空気から作られ、鋼鉄よりも強く、クモの糸より細い」というナイロン繊維の合成です。
Stir Up Some Nylon 
1935年、デュポン社のウォーレス・カロザースが合成に成功したナイロンは繊維化学史上最も重要な発明の一つとされています。
一から作り上げた最初の材料であって、当時欧米の女性に欠かすことの出来なかった絹のストッキングの「高価」であり、「伝染しやすい」という欠点を克服した夢の素材でした。
発売当時のアメリカではナイロン製のストッキングを求める群衆で店先が埋め尽くされたほどであり、さらに日本の重要な輸出産業の一つであった絹が大幅に落ち込んだのもナイロンのせいであるといっても過言ではないでしょう。
ナイロンは、ジアミンとカルボン酸の「縮合」結合により合成されます。
しかし、それでは製造に時間がかかるため、工業的には別の方法が取られます。
カルボン酸の代わりに、酸クロリドを用いるのです。
そうすると、ジアミンと酸クロリドが触れた瞬間にナイロンが合成されるので、それを上に引き上げることで次々と繊維状のナイロンが出来上がっていきます。
ウォーレス・カロザースが合成に成功したナイロンは6,6ナイロンで、「ヘキサメチレンジアミン」と「アジピン酸ジクロリド」を使いました。
『Mad Science』では「アジピン酸ジクロリド」ではなく「セバシン酸ジクロリド」を使っていますから、合成されるナイロンは6,10ナイロンですね。
『Mad Science』のこだわりは、化学実験をエレガントに、そして「例え危険な実験でも美しく安全に」というところにあります。
ですから、ビーカーではなくワイングラスを用います。
ワイングラスの中に「ヘキサメチレンジアミン」をまず注ぎ、そこに「セバシン酸ジクロリド」を静かに注ぎます。
両薬品は比重の関係で層を成すはずですが、うまく層状にならない場合には、バーテンダーに手伝ってもらうよう(笑)アドバイスされています。
そして、ピンセットで二液の層を掴んで引き上げる!
その美しい光景を是非ご覧ください。
■関連リンク
美しき元素の世界! The Elements
■関連ブログ記事
元素周期表
ノーベル物理学賞日本の3氏に、化学賞も
眼に見える世界は蝋燭の炎の形
先日出かけた資料館で資料を複写する機会がありました。
そのコピー機を利用する手続きが煩雑。
住所氏名を帳面に記載しなければ複写できませんでした。
何故住所氏名が必要かというと、どうやら領収書発行のためのようです。
個人的なものなので領収書は要らないとお伝えしたのですが、決まりなのでの一点張りで、5分ほど待たされていただいたのがこの領収書でした。
たかが10円、されど10円。
律儀なものです。
人件費が無駄・・・などという野暮なことはここでは言いません。
私も幾つかの団体に属しており、領収書を発行する機会も多いので、折角の機会ですから改めて領収書の意味と必要な記載要件について考えてみたいと思います。
そもそも領収書は「税法上経費であることの証明資料」としても使われます。
証明資料としての証拠能力を持たせるためには「お金を受領した側」により作成され、年月日・相手・内容・対価を明記することが最低条件となりましょう。
それが記載されているがゆえに客観性と証拠能力を見い出すことができます。
しかし、実際には「所得税法」や「法人税法」などには、領収書の書式に関する規定は存在しません。
あえて法律上で関連する規定があるとすると、
■民法第486条(受取証書の交付請求権)
弁済者ハ弁済受領者ニ対シテ受取証書ノ交付ヲ請求スルコトヲ得■消費税法第30条 第9項
第7項に規定する請求書等とは、次に掲げる書類をいう。
1.事業者に対し課税資産の譲渡等(第7条第1項、第8条第1項その他の法律又は条約の規定により消費税が免除されるものを除く。以下この号において同じ。)を行う他の事業者(当該課税資産の譲渡等が卸売市場においてせり売又は入札の方法により行われるものその他の媒介又は取次ぎに係る業務を行う者を介して行われるものである場合には、当該媒介又は取次ぎに係る業務を行う者)が、当該課税資産の譲渡等につき当該事業者に交付する請求書、納品書その他これらに類する書類で次に掲げる事項(当該課税資産の譲渡等が小売業その他の政令で定める事業に係るものである場合には、イからニまでに掲げる事項)が記載されているもの
イ 書類の作成者の氏名又は名称
ロ 課税資産の譲渡等を行つた年月日(課税期間の範囲内で一定の期間内に行つた課税資産の譲渡等につきまとめて当該書類を作成する場合には、当該一定の期間)
ハ 課税資産の譲渡等に係る資産又は役務の内容
ニ 課税資産の譲渡等の対価の額(当該課税資産の譲渡等に係る消費税額及び地方消費税額に相当する額がある場合には、当該相当する額を含む。)
ホ 書類の交付を受ける当該事業者の氏名又は名称
<以下略>
といったところでしょうか。
よく、領収書には受取者の住所や電話番号、印鑑が無いといけないと仰る方が居ますが、法律上は住所、電話番号、印鑑は必須ではなく、「誰が領収書を作成したのか」が特定できさえすればOKなのです。
極端な話、受取者のサインで良いでしょう。
領収書には最低限記載すべき事項をまとめると
(1)この書類が「領収書」であるということを明記
(2)受領金額
(3)誰から受領したか
(4)受領日
(5)受取者の名称(誰が領収書を作成したか特定できる手法で記載)
(6)但し書き(必須では無いがあれば尚可)
これだけの記載があれば良いでしょう。
このことから分かるとおり、印刷して団体のゴム印が押されている領収書は「一見」立派ですが、むしろこの場合、誰にでも領収書を「作成」することができますので、有効性が損なわれるといってよいでしょう。
印刷の領収書の場合には、証拠能力が足りないので、それを補うために団体の(印刷やゴム印ではない)正式な印章を併用することが求められます。(「商法中署名すべき場合に関する法律」)
正式な印章を併用することにより、はじめて署名と同等の能力が発効します。
つまり、見かけは悪いですが、印刷した領収書よりは、一片の紙に全て手書きで書かれた領収書の方が、実は法的証拠能力はずっと高いのです。
営利を目的とした会社の場合のほかに、特に僧侶が関る団体は「営利を目的としない団体」が多いわけで、営業に関しない受取書に基づく領収書が発行されることになります。
関連法令である印法別表一の十七、印基通別表第一第17文書の21~26、32を見てみます。
No.7125 営業に関しない受取書
[平成22年4月1日現在法令等]第17号文書の金銭又は有価証券の受取書であっても、受け取った金銭などがその受取人にとって営業に関しないものである場合には、非課税となります。
営業というのは、一般に、営利を目的として同種の行為を反復継続して行うこととされており、おおむね次のように取り扱っています。(1) 株式会社などの営利法人の行為は、その営利法人が直接作成する株式払込金領収書などを除いて営業になります。
(2) 財団法人などの公益法人の行為は、すべて営業になりません。
(3) 協同組合など会社以外の法人の行為は、次のようになっています。
法令の規定などにより利益金又は剰余金の分配などをすることができることになっている法人の場合に、出資者以外の者との行為は営業になり、出資者との行為は営業になりません。
(4) 人格のない社団の行為は、次のようになっています。
公益及び会員相互間の親睦等の非営利事業を目的として設立されている場合には、営業になりません。
その他の人格のない社団が作成する受取書で、収益事業に関して作成するものは、営業になります。
(5) 個人の場合、「商人」としての行為は営業になり、事業を離れた私的日常生活に関するものは営業になりません。
なお、店舗などの設備がない農業、林業又は漁業を行っている者が自分の生産物を販売する行為や医師、歯科医師、弁護士、公認会計士などのいわゆる自由職業者の行為は、一般に営業に当たらないとされていますので、これらの行為に関して作成される受取書は営業に関しない受取書として取り扱われます。(印法別表一の十七、印基通別表第一第17文書の21~26、32)
ということで、冒頭の財団法人や、宗教法人(非営利の部分)、SOTO禅インターナショナルや神奈川県第二宗務所のような「人格なき非営利団体」の発行する領収書については上記の内容を加味しておけばよいでしょう。
さて、以上を踏まえて、改めて冒頭の領収書を検証してみましょう。
・・・・あれ?いつ支払ったんだっけ???
娑羅双樹について考えてみます。
お釈迦様の入滅の様子は涅槃経で記述されていますが、例えば曹洞宗でよく読まれる『仏垂般涅槃略説教誡教』(遺教経)では次のようになっています。
応に度すべき所の者は、皆已に度し訖って、沙羅双樹の間に於いて、将に涅槃に入りたまわんとす。
『仏垂般涅槃略説教誡教』
この表現から受けるイメージはどういう感じでしょうか。
「双樹の間」という表現から、頭と足先に一本づつ、2本の木の間でお釈迦様は横になられたと感じるかもしれませんね。
実際に曹洞宗の公式サイトでは、曹洞宗の年中行事>涅槃会 の項目に
お釈迦さまは2本のサーラ樹の間に用意された床で、頭を北に、顔を西に向け、右手を枕にされて寝ておられます。
(曹洞宗公式サイトより一部引用)
と説明されています。
しかし、同じページにある涅槃図には8本の娑羅双樹が描かれています。
なぜこのようなことが起きるのかを考えてみましょう。
娑羅双樹は、仏教の三大聖樹
(1)無憂樹 (マメ科):釈尊降誕の場所にあった木
(2)印度菩提樹 (クワ科):釈尊成道の場所にあった木
(3)娑羅双樹 (フタバガキ科):釈尊入滅の所にあった木
のうちの一です。
サラノキは釈尊入滅の場所の東西南北に各々2株のこの木があったので沙羅双樹といわれる。
『標準原色図鑑全集・樹木』(保育社・昭和41年)
などをみると「東西南北に各々2株」の様子から漢字の双樹をあてたと説明されています。
したがって、涅槃図の娑羅双樹は2対4組の8本であるし、一本の娑羅双樹の木でも娑羅「双樹」ということになります。
日本最古とされる平安時代の涅槃図でも8本の娑羅双樹が描かれています。
先の、曹洞宗公式サイトでの説明は、
お釈迦さまは2組8本の娑羅双樹の間に用意された床で、頭を北に、顔を西に向け、右手を枕にされて寝ておられます。
としたほうが判りやすいように感じます。
補足
※日本ではナツツバキ(夏椿、学名:Stewartia pseudocamellia)が娑羅双樹の代わりにされていますがフタバガキ科のサラソウジュ(沙羅双樹、娑羅双樹、さらそうじゅ、しゃらそうじゅ、学名:Shorea robusta)とは全く別の木です。
※今日の記事タイトルの「デシマル」は40数年前にヨーロッパに禅を伝えた弟子丸老師のことではありません。
ここのところドイツの方とメールでやり取りする中で
Flugkosten 50.000EUR
などという表記があったりします。
これは航空券代金が50ユーロということではなく、5万ユーロということを表しています。
このように、ドイツ、フランスなど、英語圏以外のヨーロッパでは3桁ごとの位取りに"."ドットを使うことが普通に行われています。
また、小数点には","(カンマ)が使われることが普通で、日本の表記方法とは逆となります。
12.345 という数字は日本では じゅうにてんさんよんご。ドイツでは「いちまんにせんさんびゃくよんじゅうご」と捉えてしまいます。
わかっていても、馴れないと数字の大小についてピンとこないですね。
ただ、日本でも小数点をカンマで表記する事例があります。
例えば、これは 横濱市復興局 昭和22年6月製版仮製三千分一 地形図「上永谷」の一部です。 ![]()
標高表記で 73,0 というように小数点が","(カンマ)になっていますね。
恐らく地図の技術をフランスやドイツから導入した名残りではないでしょうか。
そういえば、0.1のことを「ぜろ”こんま”いち」と言ったりしますね。
これも何かの名残りでしょう。
小数点をどう表すかは
百二十三万四千五百六十七点八九の各国における表記は、次の通りである。
日本では 1,234,567.89 または 1234567.89 縦書きは 百二十三万四千五百六十七・八九
イギリス、アメリカでは 1,234,567.89 または 1,234,567·89
フランス、南アフリカでは 1 234 567,89
ドイツでは 1.234.567,89
インドでは 12,34,567.89
アラビアでは ١٬٢٣٤٬٥٦٧٫٨٩
■小数点にドットを使う国=日本、オーストラリア、ボツワナ、カナダ(英語話者)、中国、コスタリカ、ドミニカ共和国、エルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラス、香港、インド、アイルランド、イスラエル、韓国、北朝鮮、マレーシア、マカオ(中国語を使う場合)、メキシコ、ニカラグア、パナマ、フィリピン、プエルトリコ、サウジアラビア、シンガポール、タイ、台湾、英国、米国
■小数点にカンマを使う国= アンドラ、アルゼンチン、オーストリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、カナダ(フランス語話者)、クロアチア、キューバ、チリ、コロンビア、チェコ、デンマーク、エクアドル、エストニア、フェロー諸島、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシア、グリーンランド、ハンガリー、インドネシア、アイスランド、イタリア、ラトビア、リトアニア、ルクセンブルク、マカオ(ポルトガル語を使う場合)、マケドニア共和国、オランダ、ノルウェー、パラグアイ、ペルー、ポルトガル、ポーランド、ルーマニア、スロヴァキア、セルビア、スロベニア、スペイン、南アフリカ、スウェーデン、スイス、ウクライナ、ウルグアイ、ベネズエラ、ジンバブエ、モンゴル
■小数点がMomayyezとなる国= バーレーン、イラン、イラク、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビア、シリア、UAE
(ウィキペディア「小数点」項より引用)
きれいに分かれてしまっています。
これでは問題があるとして、第22回国際度量衡会議において次のように議論され、国際単位系(SI)の結論が出されました。
Symbol for the decimal marker
The 22nd General Conference, considering thata principal purpose of the International System of Units (SI) is to enable values of quantities to be expressed in a manner that can be readily understood throughout the world,
the value of a quantity is normally expressed as a number times a unit,
often the number in the expression of the value of a quantity contains multiple digits with an integral part and a decimal part,
in Resolution 7 of the 9th General Conference, 1948, it is stated that "In numbers, the comma (French practice) or the dot (British practice) is used only to separate the integral part of numbers from the decimal part",
following a decision of the International Committee made at its 86th meeting (1997), the International Bureau of Weights and Measures now uses the dot (point on the line) as the decimal marker in all the English language versions of its publications, including the English text of the SI Brochure (the definitive international reference on the SI), with the comma (on the line) remaining the decimal marker in all of its French language publications,
however, some international bodies use the comma on the line as the decimal marker in their English language documents,
furthermore, some international bodies, including some international standards organizations, specify the decimal marker to be the comma on the line in all languages,
the prescription of the comma on the line as the decimal marker is in many languages in conflict with the customary usage of the point on the line as the decimal marker in those languages,
in some languages that are native to more than one country, either the point on the line or the comma on the line is used as the decimal marker depending on the country, while in some countries with more than one native language, either the point on the line or comma on the line is used depending on the language,
declares that the symbol for the decimal marker shall be either the point on the line or the comma on the line,reaffirms that "Numbers may be divided in groups of three in order to facilitate reading; neither dots nor commas are ever inserted in the spaces between groups", as stated in Resolution 7 of the 9th CGPM, 1948.
結論は、
小数点は"."ドット、","(カンマ)どちらを使っても構わない。
位取りには3桁ごとにスペースを空けても良いが"."ドットや","(カンマ)は用いないこと。
でした。
国際単位系(SI)スタイルでは 1 234 567.89 または 1 234 567,89 ということですね。
ですから、冒頭の表記は Flugkosten 50 000EUR としたほうが良いし、12,500円は 12 500円と書いた方が好ましいということになります。
蛇足ですが、小数に関して興味深い文化の分類方法があります。
それは「分数文化圏」「小数文化圏」という区分です。
分数文化圏はヨーロッパ、アメリカ合衆国、エジプトなど
小数文化圏は日本、中国、インド、アラビアなど
そういえば、欧米圏はやたらと分数を使いますね。
貨幣では1/4ドル(クォーター)、紙幣で20ドル札が良く使われるというのは分数文化圏であるからでしょう。
逆に日本では四分の百円玉や2千円札は使われない(使わない)ですね。
文化の違いが顕著に現れている例といえます。
お釈迦様成道の日を迎え、貞昌院定例坐禅会では坐禅終了後に五味粥をいただきました。
■五味粥(貞昌院2010年版)のレシピ
・昆布で取っただし
・サツマイモ(貞昌院産)
・栗(貞昌院産)
・はちみつ
・刻み柚子(貞昌院産)
・胡麻
五味粥は普段のプレーン粥に比べて滋養のあるお粥です。
お釈迦様がブッダガヤの地に至ってスジャータ村の娘から乳粥の施しを受けた後、菩提樹の下に坐し臘月(12月)八日の朝に悟りを開かれた故事になぞらえたものです。
酒粕や味噌を加えたり、大豆や小豆、胡桃を加えたり寺院によって差異があります。
中国では、日常から「朝食にお粥」という習慣があり、体調によりお粥のレシピを変えて体調を整えています。
特に、この時期、臘月八日の臘八粥の時期になると、スーパーの店先には臘八粥の材料が山のように並ぶそうです。
材料は胡桃、落花生、栗、小豆、松の実、棗、蓮の実などなど。
臘八粥は薬膳として体力をつけ、風邪を予防する源とも成りうるものです。
禅寺では、夕食のことを薬石と言いますが、まさに食事は薬を服するが如く身を支える源となる大切なものです。
薬膳に基づいた臘八粥の作り方が『きれいになれるお粥レシピ』(成美堂出版編集部)に掲載されていました。
一部引用させていただきます。
■体を養う様々な食材
(1)「腎」を補う
老化による様々な体の衰えを緩やかにし、生命力を高める
くるみ・ぎんなん・栗・ごま・くこの実(2)「血」を補う
美肌・脳の働きを良くする・精神安定
レーズン・小豆・黒豆・落花生・松の実・なつめ(3)「気」を補う
疲労回復・胃腸機能改善
もち米・うるち米・きび・山芋・さつまいも・かぼちゃ・蜂蜜・蓮の実
これを参考に、自らの体調に鑑み、五味粥を作ってみては如何でしょうか。
■関連ブログ記事
五味粥
今年は 元日の月食⇒パール富士 からスタートしました。
それはそれは見事な光景でしたが、今年を締めくくるにふさわしい光景が(晴れれば)年末に見ることができます。
12月21日夕方に見られる皆既月食です。
今回の月食は、月が登る前からスタートしており、日本では半影食が始まってから月が昇ってきます。
2010年12月21日
14時27.7分 半影食はじまる。日本全域で月の出以前
15時32.3分 月食はじまる。 ※北海道東部の一部を除く日本の大部分の地域で月の出以前
16時40.4分 皆既月食はじまる。 ※近畿地方以西では月の出以前
17時17.0分 食の最大
17時53.6分 皆既月食がおわる
19時01.7分 月食がおわる
20時06.1分 半影食がおわる
月が低い高度の時に皆既月食となるということは、ある意味チャンスです。
なぜなら、景色と併せて観察しやすいからです。
どうせなら、ということで富士山頂から登る皆既月食が観察できるポイントを探してみました。
比較的良さそうなポイントは静岡県富士宮市の国道139号線、横手沢の近辺です。
カシミール3Dでシミュレートしてみると、丁度富士山の山頂から皆既月食が終わる直前の月が昇ります。
実際にどんな風に見えるだろうかということをカシミール画像と皆既月食の写真で作成してみました。
皆既月食の終わりの時刻には月の左下部分から明るくなってくるはずですので、こんな感じでしょう。
なんと幻想的な光景でしょう。
見ようによっては鏡餅の上のダイダイにも見えますね。めでたい。
このまま年賀状素材として使いたい気分です。
私はこの冬から新たに始まった仕事の関係で見ることは難しいかもしれませんが・・・なんとか見てみたいなぁ~と心の隅で思っています。
いずれにせよ、月食自体は日本全国で見ることが出来るので晴れることを願いたいものです。
今日は成道会。
お釈迦様はブッダガヤの菩提樹の下で明けの明星を眺めながら悟りを開かれたとされています。
金星探査機「あかつき」は周回軌道に乗ることが叶わなかったという発表が、成道会の朝に行われました。
こちらは残念なニュースでした。
しかしながら7年後の2016年再び地球が金星に接近する機に再挑戦できる可能性もあります。
失敗を生かして次なるステップを期待します。
ここのところ雨天が続いておりましたが、久し振りに星空を望むことができました。
今、丁度約6.5年周期の楕円軌道をもつハートレー彗星(103P/Hartley)が見ごろを迎えています。
夜半から明け方にかけて南天の見やすい位置にありますので、少し大きめの双眼鏡があれば、ぼんやりと緑色に光る彗星を比較的簡単に見つけることができるでしょう。
今日(11月2日)の午前4時には、ふたご座といっかくじゅう座の間にあって、ちょうどクリスマスツリー星団(NGC2264:写真の15MONの直ぐ傍)との競演が楽しめました。
(2010 11 02 4:25a.m. CanonEOSkissX3+Tamron90mm f3.5 6sec ISO400 貞昌院にて)
カメラを固定してテキトーに撮影た写真ですので少し判りづらいかもしれませんが、ぼんやりと滲んでいるのが彗星です。
だんだん地球から遠ざかりつつあり、見ごろはあと一週間くらいでしょうか。
彗星の見つけ方はアストロアーツのサイトをご参照ください。
■彗星関連の主なブログ記事
羽田空港(東京国際空港)で、いよいよ国際定期便の本格運行が再開されました。
1978年の成田空港(新東京国際空港)開港以来、実に32年ぶりとなります。
24時間対応のハブ空港として稼動していますので、空の便は格段に便利になることでしょう。
地図を元に羽田空港の歴史を振り返ってみます。
(地形図 明治39年測図)
大正6(1917)年、日本飛行大学校「羽田飛行場」飛行訓練施設設置。
付近に羽田運動場、羽田海水浴場、沖には羽田競馬場がありました。
大正11年の地形図に羽田運動場、羽田競馬場が記載されています。
(地形図 大正11年修正)
東京飛行場(羽田飛行場)が日本初の国営民間航空専用空港として開港したのは昭和6(1931)年です。
面積53ha、全長300m 幅15mの滑走路が1本での運用でした。
大阪・福岡・台北・京城などへの国内線のみならず、満州国や中華民国、タイ、フランス領インドシナへの国際線ハブ空港としての運航も活発化しています。
(地形図 昭和7年要修)
第二次世界大戦開戦により羽田空港は軍用飛行場に転換されます。
国内線や同盟国の満州国やタイ王国の他に、香港やジャカルタ、マニラやシンガポールなどイギリスやアメリカ、オランダの植民地を日本軍が占領した東南アジア各都市へ向けて、陸軍による定期便が運行していました。
(地形図 昭和20年部修)
第二次世界大戦終戦後、日本を占領したアメリカ軍は、ハネダ・アーミー・エアベースとして沖合に拡張工事を計画。
このため、昭和20(1945)年9月21日に、羽田町鈴木新田周辺住人に対し48時間以内に強制退去の命令が出されます。
羽田地区は昭和20年に激変しました。現在の羽田空港の礎は、アメリカ軍によって築かれたのです。
(地形図 昭和41年改測)
1964年の海外旅行自由化以降、航空機の利用客・便数が急増したため、1984年から羽田沖の海面を埋立て、空港施設を移設・拡張するという沖合展開事業が始まりました。
(地形図 昭和51年ニ改)
1993年には、新国内線ターミナルビル(ビッグバード 第1ターミナルビル)が完成、2004年12月には、第2旅客ターミナルビルが供用開始となりました。
(地形図 平成13年修正)
多摩川河口付近海上に世界初の人工島+桟橋構造のハイブリッド滑走路として、D滑走路が完成。
国内線・国際線ターミナル、整備センターがあった区域に新国際線旅客ターミナルビルが完成。
そして、本日国際定期便の本格運行が再開されました。
| 世代 | 徳翁寺歴代住職 | 開山となる寺院 (開山年) | 備考 |
| 徳翁1世 | 如幻宗吾大和尚 | 徳翁寺(1503) | 總持寺第704世 |
| 徳翁2世 | 興山舜養大和尚 | 永明寺(1542) | |
| 徳翁3世 | 在天孝舜大和尚 | 長源寺 | |
| 徳翁4世 | 明堂文龍大和尚 | 西照寺(1574)・萬福寺・貞昌院(1582) | |
| 徳翁5世 | 乾室厳隆大和尚 | 安楽寺・雲林寺 | |
| 徳翁6世 | 快応孝頓大和尚 | 観音寺(1615) | |
| 徳翁7世 | 揚山宗播大和尚 | 全龍寺(1638)・龍光寺 |
こういう夢のある話題はいいですね。
ニューヨークに住む小学生マックス君が、父親と一緒に作成したヘリウム風船につけた自作観測機器にビデオカメラとiPhoneを装着し、放出から上空10万ft(=約30km:成層圏の世界)に達し、再び地上に落下するまでの様子の撮影に成功しました。
観測機器を断熱材で保護したり、ホッカイロを入れたり、厳しい環境下でも耐えられるような工夫が随所になされています。
まずは、その映像を。
Homemade Spacecraft from Luke Geissbuhler on Vimeo.
回収のためにiPhoneのGPS機能をフル活用し、木に引っかかっていた観測機器を無事回収。
実に生々しい映像ですね。
このヘリウム風船は、世界中で、日本でも気象庁により毎日数回全国16か所の気象台から打上げられている気象観測用ゾンデ(ラジオゾンデ)と同じものです。
ラジオゾンデで用いられる600gのゴムを使用したヘリウム風船の場合、約90分で上空30kmくらいに達し、風船は膨張が限界に達して破裂し、ラジオゾンデの観測は終了します。
マックス君の風船も、ほぼ同じ飛行高度まで飛んだ訳ですね。
ゴム風船が上空でどのように破裂するかという状況も良くわかる動画です。
[豆知識]
これより上が外気圏
熱圏(Thermosphere) 高度80-800km
中間圏(Mesosphere) 高度50-80km
成層圏(Stratosphere) 高度11-50km
対流圏(Troposphere) 高度0-11km
ちなみに、スペースシャトルの飛行軌道高度はだいたい200~500kmです。
■関連ブログ記事
飛んでいった風船はどうなるの
■関連リンク
Brooklyn Space Program
ドリームビジョン(日本テレビ番組の同様な企画)
踊念仏で知られる時宗の開祖一遍上人は、法然の弟子西山義の証空の弟子、聖達を師とし、法然上人からは法系上曾孫にあたります。
まずは『一遍聖繪』より第五の部分を引用いたします。弘安5(1282)年春に一遍上人の一行が奥州江刺の祖父河野通信の墓に参った後、松島小泉、常陸より武蔵国石濱を経て鎌倉向かう部分です。
武蔵国石濱にて。時衆四五人病ふしたりけるを見給いて。
のこりゐて むかしを今と かたるへき こころのはてを しるひとそなき
弘安五年の春。鎌倉にいりたまふとて。ながさごという所に三日とどまり給う。
聖の給はく。鎌倉入の作法にて。仮益の有無を定べし。利益たゆべきならば。是を最後とおもふべき由。
時衆に示して。三月一日小袋坂よりいりたまふに。今日は大守山内へ出給ふ事あり。此の道よりはあしかるべき由人申しければ。聖思ふやうありとてなを入りたまふ。
武士むかひて制止をくはふといへども。しひて通りたまふに。
小舍人をもて時宗を打擲して。聖はいづくにあるぞと尋ねければ。聖爰にありとて出むかひ給ふに。武士いはく。御前にてかくのごときの狼藉をいたすべきやうやある。なんぢ徒衆を引具する事。偏に名聞の為なり。制止にかかへられず。乱入すること心得がたし云々。
『時宗聖典』巻下2(時宗宗学林編)「一遍聖繪」第五 より一部引用
引用文中、下線を引いた「ながさご」について、長後(ちょうご・古くは長郷)と推定するものが多く(例:えのしま・ふじさわポータルサイト:藤沢市運営) 、「長後説」が有力となっています。
ところが、様々な資料を付き合わせると、長後ではなく、永谷の永作(ながさく)と考えるほうが自然であるという見方もできそうです。
文中の武蔵国石濱は、現在の石濱浜神社(上地図の右上端)です。
鎌倉時代には、現在より約2メートルほど海水面が高く、海岸線や川幅がだいぶ違いました。
(上図参照)
参考までに、時宗の元本山「当麻無量光寺」は 嘉元元(1303)年、二代他阿真教により念仏道場として開山。現本山の 「清浄光寺(遊行寺)」は 正中2(1325)年、四代呑海上人による開山ですので、弘安5(1282)年にはまだ両堂宇はありません。
一遍上人一行の石濱から鎌倉までのルートは、海岸沿いに南下し、多摩川を渡ったあと、
(1)三ツ沢~和田~岩間宿~石名坂~弘明寺~餅井坂~永谷~舞岡~小袋坂~鎌倉
(2)三ツ沢~和田~保土ヶ谷宿~境木~柏尾~舞岡~小袋坂~鎌倉
のどちらかのルートを通って鎌倉入りを試みたと考えられます。
⇒大畠洋一著作集さんのサイト 保土ヶ谷宿の成立と交通路の変遷 がとても参考になります。
なお、(2)よりも(1)の方が古くから成立していた道(鎌倉古道下之道:鎌倉初期)であると推定されます。
そうであれば武蔵国石濱から鎌倉への当時の街道を考慮すると、『一遍聖繪』に記載される「ながさご」は餅井坂と舞岡の間にある「永作(ながさく)」と考えるほうが自然です。
さらに言えば、一遍上人が3日間留まったのが永作であったのならば、当時永作にあった貞昌院の前身の天性寺上之坊であった可能性もあります。
天神社別当貞昌院、天神山と号す、曹洞宗(後山田村徳翁寺未)。旧は上之坊下之坊と号せし台家の供僧二宇在りし が共に廃亡せしを天正十年に至り、其廃跡を開き、当院を起立す、開祖は文龍(天正十九年四月十六日寂す)と云ふ、本尊は十一面観音(長八寸行基作)。神明宮二、羽黒社、浅間社、以上貞昌院持
「注」上の坊は上永谷町5358番地附近(永作公園)一帯、現、田辺氏宅東方地域、下之坊は上永谷町3400番地附近一帯、現、鈴木氏宅西方の山腹、故に鈴木家を寺下と呼称す、両坊共に七堂伽藍を具備せしと。
『新編相模風土記』永野項より引用、下線と「注」はkamenoが付記
永谷郷の永作に逗留した一遍上人一行は、3月1日、鎌倉での踊り念仏の布教が成功するかしないかに自分の教えの当否を掛け、鎌倉に向かいます。
しかし、鎌倉に入ろうとした際に、丁度落慶に向けて工事の進む円覚寺に居た北条時宗により警固の武士に行く手を遮られてしまいます。
(北条時宗は念仏を鎌倉から追放する政策をとっていました)
鎌倉入りを拒まれた一遍上人の一行は、小袋坂から鎌倉に入ることを止め、片瀬の浜に回り、そこで舞踊台を作り踊り念仏を行いました。
周囲に多くの人びとが集まっていますね。
自らの教えの当否を掛けた舞台の答えが、明確に現れています。
今日の記事は檀家さんとの雑談の中で出た話を元に検証を加えて作成してみました。
「ながさご」は果たして長後なのか、永作なのか。
検証が進みましたら、また追記します。
松ヶ崎古墳群の現状については港南歴史協議会でも度々話題になっており、一度詳しく見てみたいと思っていましたが、なかなか 現地に赴くことが出来ず、昨日になってようやく叶いました。
まずは、松ヶ崎古墳に関する2つの調査報告をまとめてみます。
両者の記述に差異がみられます。
その原因は周辺の土地開発や道路拡張、自然環境の変化による古墳の崩落のほか、かなり草木が生い茂っている場所であるために見つけることができなかったということがあるのではないでしょうか。
下の写真は、昨日撮影した前述の報告書と同じ場所(松ヶ崎古墳全景)です。
高圧電線の鉄塔の形の変化や周辺の住宅の様子に約40年もの時代の変遷を感じます。
それでも、古墳群は県立港南台高校(現在は県立立野高校が管理)敷地にあるために開発から逃れることができました。舌状地形の輪郭もかつての形を残しています。
![]()
GoogleMapの航空写真で『港南の歴史』に記載されている1~5の横穴をプロットしてみました。
【下の航空写真参照】
右下の矢印は、松ヶ崎横穴古墳群全景を撮影した場所です。
なお、①②③④⑤がそれぞれ『港南の歴史』に記載されている1号~5号の横穴です。
『港南の歴史』によれば、①②が単式、③④⑤が複式とのことですが、③④⑤は草に覆われていたためか、既に失われてしまっているか、発見できませんでした。
しかし、⑤は本文にあるように相当大きな複式横穴墓とのことですから、草が無くなる冬の時期に丹念に調べればきっと見つかるでしょう。
直ぐに見つけることができたのは↑こちら。
航空写真でいう②の位置です。位置口が狭く半ば埋まっていたので良くわかりませんが、単式羽子板状のように見えます。
2番目に見つけた横穴は、①の横穴墓の直ぐ右横にある横穴墓です。航空写真でいう②の位置です。
位置関係と状況から判断して『神奈川県埋蔵文化財調査報告』にある「下段に横列する5穴のうち、その中央部にある1穴 」は、この横穴墓と見て良さそうです。
『神奈川県埋蔵文化財調査報告』『港南の歴史』によると、これよりさらに右側に3つの横穴墓がありそうですが、びっしりとヤブカラシなどの草に覆われていて、とても入ることはできません。
草の無くなる時期に、立野高校の許可を取った上で丹念に調べてみたいものです。
---------------------------------------------
以下は『港南の歴史』では記載の無い横穴墓です。
下写真の横穴墓は①の横穴墓の直ぐ西側にあり、航空写真では⑥と記載しました。この⑥が昨日見た中で一番大きなものでした。
なぜ、港南の歴史編集委員と笹下中学校社会研究部員による調査でこれだけ大きな横穴墓が見逃されていたのか不思議です。
前室の奥壁中央にはアーチ型の入口があり、遺骸を納めたと思われる奥室もきちんと残されています。
保存状態も良く、前室天井の鑿岩模様も、奥室入口の淵取模様もはっきりしています。
⑥の直ぐ西には、↓崩壊し埋没している横穴=航空写真の⑦=がありました。
ということで、この日見つけることが出来たのは4穴=航空写真でいうところの①②⑥⑦でした。
松ヶ崎横穴古墳群は、運良く開発から逃れて現状保存されてかつての姿を残していますが、今後適切な保存が為されないと失われてしまうでしょう。
今日から彼岸です。
お墓参りをされるかたも多いと存じますので、今日はお墓に関する記事を書いてみます。
港南区には幾つかの古墳が確認されています。
その多くは開発などにより失われてしまいましたが、唯一残されている古墳が(旧)港南台高校敷地内の舌状台地南斜面に位置する松ヶ崎横穴古墳群です。
(図は『港南の歴史』昭和54年 港南の歴史発行実行委員会編 P53より引用)
古墳時代(畿内では3世紀後半から7世紀)にかけては、弥生時代から発生した稲作などの農耕生活により生じた貧富の差や階層分化が生まれはじまりました。
また、鉄器の普及により耕地は拡張され、経済力の上昇により国家としての統治形態が整い始め、発生した支配階級がより明確になりました。
地域共同体の司祭的な首長がその地位を確固たるものとするために、土を盛り上げて作る前方後円墳や前方後方墳などの古墳が多く作られたため古墳時代と名づけられています。
首長よりも地位が低位の人びとや一般庶民は山の斜面に横穴を設けて埋葬していたようです。
その一つである松ヶ崎横穴古墳群の付近は武相国境の分水嶺に位置し、北東へ流れる川は日野川・大岡川を経て東京湾に注ぎ、南西に流れる川は稲荷川・鼬川・柏尾川となり相模湾に注ぎます。
この分水嶺の西側、現在の鍛冶ヶ谷付近には「たたら場」の遺構が数多く点在し、また現在の港南環境センター付近の一帯には港南台遺跡として縄文時代中期以降の住居跡が発掘調査されています。
(なお、港南台遺跡住居群は港南台開発のために既に失われてしまっています)
集落があるということは埋葬する場所があるということで、先に述べたように港南台周辺には松ヶ崎古墳群(横穴式古墳群)が形成されていったのです。
この松ヶ崎横穴古墳群は、武相国境分水嶺の舌状台地南斜面につくられていますので、見晴らしがとてもよく、真西には富士山を望むことができます。
秋彼岸入りの頃には、夕日は富士山の山頂に沈みます。ダイヤモンド富士です。
今年の彼岸入りの日(9月20日)にこの松ヶ崎古墳群近辺から見られるであろうダイヤモンド富士をシミュレーションしてみました。
なお、昨年はこのように美しいダイヤモンド富士を望むことができました。
松ヶ崎古墳群がこの位置に作られたということは、彼岸の入りにこのような光景を望むことができる場所であるということと少なからず関係があるように思えます。
港南区で一番と言っても過言ではないほど見事な光景が見られるのです。
お墓参りの後、もしも天気が良さそうでしたら、是非足を運び古来の方々に手を合わせていただくことをおすすめします。振り返ると見事なダイヤモンド富士が見られるかもしれません。
(ただし古墳群の中に無断で立ち入ったり付近の住民に迷惑となる行為は慎みたいものです)
追記
港南区で唯一残されている松ヶ崎古墳群も、残念なことに徐々に崩れはじめてしまっています。
このままでは遠くない将来に完全に消滅してしまうことでしょう。
その価値を認め、適切な保存管理がなされることを望みます。
古来より朝露は儚いもののたとえとされてきました。
この朝露は、空気中に含まれている水蒸気が放射冷却などの影響で植物の葉や建物の外壁などで水滴となったものです。
ここのところ一ヶ月ほど雨らしい雨は降っていませんが、それでも早朝の本堂の銅瓦もこのように朝露でびっしりと覆われています。
境内を散歩すると、足元が濡れてしまうほど水に満ち溢れています。
なぜ葉の表面に朝露がつきやすいのかはブログ記事 ロータス効果 でも書いたとおり、葉の表面が撥水効果をもつ性質があるからです。
この朝露、特に今年の夏から秋にかけてのように降雨が無い時には生物たちにとっては貴重な水資源となります。
自然の朝露を利用した栽培方法を「露地栽培」と呼びますね。
蛇足ですが、寺院境内建物でも露地と呼ばれる部分があります。
茶室にも露地があります。
原典は『妙法蓮華経 譬喩品』のようです。
爭出火宅 是時長者見諸子等安隱得出 皆於四衢道中 露地而坐 無復障碍 其心泰然 歓喜踊躍・・・・・
雨が無く暑い毎日が続いているなかでも虫たちが元気に生き続けているのは、朝に一日分のエネルギーを蓄え、暑い日中は草の陰でひっそりと過ごすという自然の智慧を実践しているからでしょう。
水滴を纏った虫たちの煌きを下記のサイトで見ることが出来ます。(虫嫌いな人は注意)
The stunning pictures of sleeping insects covered in water droplets
陽が昇っていくにしたがって朝露はたちまち消えてしまいます。
このように儚い朝露ですが、重要な役割を果たしているのです。
コンピューターの性能を誇示するために円周率を何桁まで計算できたかで表すことがあります。
従ってコンピューターの進歩とともに記録は更新されていくものであり、現在世界最高桁数計算の記録を持つコンピューターはさぞかし高性能のスーパーコンピューターなのかと思いきや、ごく一般のパソコンでも「時間さえかければ」世界中のスーパーコンピューター以上の結果を出すことが可能であるというニュースです。
円周率計算2兆5769億8037万桁! 筑波大が世界記録樹立、ギネス申請
(産経新聞 2009/08/17)
という一年前の報道がまだ記憶に新しい中での大幅記録更新です。
円周率5兆けた、PCで計算 長野の会社員、3カ月かけ
(朝日新聞 2010/08/05)
記録は長野県飯田市の会社員近藤茂さんと米国のアレクサンダー・J・イーさんによる小数点以下5兆桁!です。
計算に90日間、検証に64時間を要し、2010年8月2日に記録が達成されました。
その時に使用されたコンピューターは
CPU 2 x Intel Xeon X5680 @ 3.33 GHz
メモリ 96 GB DDR3 @ 1066 MHz
HDD 16 x 2 TB
さすがに計算結果を保存するために膨大な記憶容量が必要となりますが、百万円程度あれば組み立てられるレベルのパソコンです。
ソースサイトに記録を達成した円周率計算ソフトも公開されています。
⇒こちら
折角計算ソフトが公開されているのでさっそく私のパソコンで計算してみました。
決して高性能とはいえないパソコン
Processor(s): Intel(R) Core(TM)2 Duo CPU E8400 @ 3.00GHz
Logical Cores: 2
Physical Memory: 2,145,705,984 bytes ( 2.00 GB )
CPU Frequency: 2,999,674,784 Hz
に、このブログ記事を書きながらというマルチタスクを強いる過酷な条件のもとで・・・・・
2千5百万桁までは1分もかからずに計算されました。
円周率 5千万桁目は「2」のようです。
もう少し時間をかけて・・・・・
ちょうどブログ記事が書き終わる頃、278秒ほどかかって1億桁(100,000,000桁)まで計算できました。
9948682556 3967530560 3352869667 7734610718 4471868529 : ~ 99,999,950桁目
7572203175 2074898161 1683139375 1497058112 0187751592 : ~100,000,000桁目
どうやら、円周率 1億桁目も「2」みたいですよ。
■補足
円周率の計算といえば、ドイツの数学者ルドルフ・ファン・コイレン(1596-1610)年が一生涯をかけて、正32212254720 (=60×229) 角形の辺の長さを元に手計算により円周率を35桁目まで計算した逸話を思い出します。彼はこの結果を大変誇りとし、自身の墓石に計算結果を刻みました。数学者の熱意ですね。
暑い日が続きます。
貞昌院駐車場のノウゼンカズラは太陽の光をいっぱいに浴びて元気に育っています。
もう花のピークは終わりましたが、残りの花が鮮やかに輝いています。
空も抜けるような青さですね。
(なぜ空が青く見えるのか、その理由も今日の記事と関連性があります)
太陽光のエネルギーはとても大きく、地表に降り注ぐ光エネルギーを電気に換算すると1m2当たり約1kwになります。 実に大きなエネルギーですね。
掲示板に張っておいた印刷物も1か月でご覧のとおり。駐車場に設置している屋外トイレの表示板もすっかり赤の部分が退色してしまっています。
ここで、改めて「赤色」は退色しやすいということを実感します。
黒や青は残っていても、赤は消えやすい傾向にあります。
それには理由があります。
太陽が放出しているエネルギーは、波長と粒子両方の性質で構成される電磁波です。
その波長は下図のような連続スペクトルの構成となっていてこのうち、人間の目に見える領域(波長380nm~780nm)が可視光線領域と呼ばれる部分です。
可視光線領域は波長の長い順(下図の右から左方向)に赤・橙・黄・緑・青・藍・青紫となり、青紫よりも波長が短い領域が紫外線(UV)、波長が長い領域が赤外線となります。
私たちが物を視覚的に認知するということは、(それ自身が光っているものを除いて)物体に光が当たって、その反射される光を認知するということになります。
物の性質によって反射される光の周波数が異なりますから様々な色調に見える訳です。
「赤く」見えるということは、その物体が赤い色を反射し、それ以外の波長、例えば紫や青の光を吸収する傾向にあるということです。
また、光は波長が短いほどエネルギーが大きくなります。
紫外線が強いエネルギーを持つというのはそのような理由です。逆に赤い光は波長が長くエネルギーが低い電磁波(光)です。
赤い物体は、エネルギーの低い電磁波を反射し、エネルギーの高い紫や青の電磁波を吸収する性質にあるために、その強いエネルギーのために分子構造が壊されてしまい、色が抜けてしまうというわけです。
赤が退色しやすいというのはそのような理由です。
オランダの国旗は、元来オランダのユニオンカラーである「オレンジ色」が使われていましたが、退色しやすく、日光に弱いためにより濃い赤に変更されました。
それだけシビアな問題なのです。
■蛇足ですが日本の国旗の「赤い丸」は過酷な環境でも比較的退色しにくいアゾ色素が利用されています。
CD-RやDVD-Rにもアゾ色素が使われていますね。
赤い色を使う際には、退色の影響を受けやすいということを考慮して用いることが必要となります。
■さらに蛇足
長く保存したい赤(朱色)といえば、印鑑の印影がありますね。
最近は染料インキをスポンジに染込ませたもので印鑑を押すことが多くなっていますが、今日の記事のとおり日光に曝すと印影が消えてしまうことがあります。
重要な書類などの場合は大問題です。
従って重要な書類や落款などには「朱肉」を用いるべきです。
朱肉の原料、辰砂は硫化水銀(HgS)からなる鉱物で、丹砂、朱砂、水銀朱などがあります。「丹(に)」とも呼ばれます。
古来は天然の辰砂を使っていましたが、現在では水銀と硫黄から合成した硫化水銀に松脂、櫨蠟、 ひまし油などを混合して朱肉が作られます。
朱肉の印影は重厚な味わいがあり、何万年もの経年変化も殆ど無い安定した性質があり、偽造される危険性も少なくなります。
■関連ブログ記事
大船駅西口にほど近い丘の上から街を見まもる大船観音は、大船の街の至るところから拝むことが出来ます。
街の至るところ・・・
では具体的にどの範囲から大船観音を望むことができるのでしょうか。
逆に考えると、これは 大船の街をみまもる観音様 の記事で作成した 大船観音・白衣観音様頭上からの360度パノラマ でどこまで展望できるかということでもあります。
フリーソフト、カシミール3Dには「可視マップ」機能がありますので実際に計算してみました。
大船観音の場所は日本高密メッシュ標高データによると標高43m。
これに観音像の高さ25mをプラスして、68mのポイントがどの範囲から見えるかを計算します。
つまり、大船観音の頭の一部でも見える範囲です。
赤い部分が大船観音が見える範囲として計算できました。
大船駅の周辺は柏尾川に刻まれた起伏に富んだ地形ではありますが、かなり広い範囲で見えていることが判ります。
計算範囲をさらに広げていくと、富士山の山頂や東斜面はもとより、
何と何と中禅寺湖の北側や、南アルプスからからも理論上大船観音の頭を望めることがわかりました。
北側の可視限界は、高薙山山頂(標高2180m):大船観音より北に165km
西側の可視限界は、東岳(悪沢岳・標高3141m):大船観音より西北西に123km
であります。
■見通し判定
尤も、観音様は多くの人々の救済を求める「声を観て」救済に赴く訳でありますから、人間の目線での「可視」「不可視」などは意味のないものかも知れませんね。
「認知症の理解と援助」という内容の研修会に参加してきました。
【用語の定義】
認知症とは
「一度獲得した知的機能(記憶・認識・判断・学習など)の低下により、自己や周囲の状況把握、判断が不正確になり、自立した生活が困難になっている人の状態」
■認知症をよく理解するための9大法則・1原則
(1)記憶生涯
記銘力低下=話したことも見たことも直後に忘れるほどの物忘れ。同じことを繰り返す
全体記憶の障害=経験したこと全体を忘れる
記憶の逆行性喪失=現在から過去に遡り忘れていく
(2)症状の出現強度
身近な人に対して認知の症状が出る
(3)自己有利
自分に不利なことは認めない
(4)まだら症状
正常な部分と認知症の部分が混在する
(5)感情残像
理性の世界から感情の世界へ
(6)こだわり
説得や否定はこだわりを強めるのみ
(7)作用・反作用
強く反応すると強く反ってくる
(8)認知症症状の了解可能性
老年期の知的機能低下の特性から全ての認知症の症状が理解、説明できる
(9)衰弱の進行
認知症の人の廊下速度は非常に速い
以上の法則を踏まえ、認知症の人の形成している世界を理解し、大切にする。その世界とのギャップを感じさせないようにするという原則を実践することが大切。
例えば(5)の法則を踏まえて、相手を褒める、感謝する、話の中で相槌をうつ、共感「よかったね」を付け加える、謝る、事実でなくても認める
(2)(6)の法則を踏まえて、こだわりの原因をみつけて対応する、そのまま放っておく、第三者に登場してもらう、 場面転換をする、地域の協力理解を得る、一手だけ先手を打つ、本人の過去を知る、長期間は続かないと割り切る・・・・
などなど、具体的な事例を元に研修は進んでいきました。
認知症の問題は、高齢者だけではなく、若年記に発症する事例も少なくありません。援助する側からいつ援助される側になるかも判りません。
認知症への正しい理解と対処、そして早期診断が大切であるということでした。
近年、平均寿命の急速な伸びによりライフサイクルの変化が顕著になっています。
例えば子育て後の期間(末子独立後、親は何年生きるか) をみると
■大正 男性 6.4年 女性10.6年
■現在 男性 24.3年 女性32.4年
ひとり世帯、夫婦ふたり世帯の増加、精神や身体に特に障害をもたず、元気で活動できる高齢者が増加しています。
また、要介護認定者の2人に1人、居宅にいる要介護認定者の3人に1人、施設に入る要介護認定者の8割は認知症が見られるということです。
「何らかの介護、支援を必要とする認知症がある高齢者(認知症自立度II以上)」は
2005年 169万人
2015年 250万人
2025年 323万人
となるという報告(『高齢者介護研究会報告』2003.6.26)もあります。
高齢化社会が幸福な社会をもたらす源になりますよう、心から願います。
今日の記事は 横浜刑務所とテニアン北飛行場 の続報記事です。
港南区役所に隣接する横浜刑務所敷地に「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」が祀られています。
これは、太平洋戦争直前、日本統治下のテニアン島などに飛行場建設を行なった所謂「囚人部隊」の慰霊碑です。 しかし、石碑の裏側には看守・職員11人の名が刻まれているものの、受刑者については全く触れられていませんでした。
それでは受刑者たちは何処に祀られているのか。
その場所を港南歴史協議会の皆様と訪ねてみました。
場所は日野公園墓地(横浜市港南区日野中央)に隣接した横浜刑務所受刑者合葬墓地区画です。
横浜刑務所受刑者合葬墓地区画へは、日野公園墓地の区画から斜面を下った先にあります。
鬱蒼とした杉木立の合間に墓石が並んでいます。
表面「(獄?)中死者之墓」
裏面「大正11年10月 神奈川縣監獄吏建立」
この翌年に関東大震災が発生します。
全体的に大きなひび割れを補修した形跡がありますので、大震災で壊れてしまったのでしょうか。
区画前の灯篭(灯篭は戦後建立)には
「世話人 大本山総持寺副監院 教誨師 海津良彦」 とあります。
新潟県楞厳寺の住職様でもあります。当時の横浜刑務所担当教誨師でいらしたのでしょう。
区画内にある「南方殉難者之碑」
表面「南方殉難者之霊」
太平洋戦争中重要ナ国策ヲ遂行スルタメ図南報告隊トシテ トラック諸島モエン島(舊名 春島)ニ於ケル構外作業ニ従事シ 絶大ナ功績ヲ残シツツ不幸中道ニシテ空襲ノ弾火ニ倒レ或ハ疫病ニ冒サレ異郷ニ散華セルモ南漠ノ地ニ假葬ノママ故国ニ葬ムルノ術ナカリシガ昭和四十七年十月漸ク遺骨収集団ノ派遣ヲ得テ遺骨ヲ千鳥ケ淵戦没者墓苑ニオサメ ソノ分骨ヲ此ノ地ニ埋ム 祖国ノ繁栄ヲ祈願シツツ孤島ニ殉ゼシ諸霊ノ苦難ヲ偲ビ其ノ冥福ヲ祈念ス
昭和四十八年十月六日 横浜刑務所長 倉見慶記
裏面
昭和十七年7月ヨリ昭和二十年十月マデノ現地死亡者四百四十二名ヲ合葬ス
横浜において南方で殉職、殉死した受刑者の合同慰霊祭を、教誨師会にやっていただきました。このとき私は涙が出ました。というのは、神仏各宗派の教誨師さんが、全員慰霊祭のときに般若心経を合唱してくれたわけでございます。これは宗派の違いを超えてやっていただきました。そして収容者の分骨された遺骨を改造された教誨室に数ヶ月間安置いたしまして、その墓地を教誨師会に作っていただきました。本来は国が作るべき墓地を大部分の施設では教誨師会の力で作っていただいたわけでございます。(『第30回近畿教誨師研修会記録』昭和57年11月より)
港南歴史協議会の皆様と、建立当時と同じ般若心経を読経し慰霊法要を営ませていただきました。
横浜刑務所受刑者合葬墓地区画の場所を1947年と2007年の航空写真で見てみます。
○の位置が浜刑務所受刑者合葬墓地区画です。
当時から森の中にひっそりと建てられていたことが伺えます。受刑者の墓地であるからなのでしょうか。
隣接する日野公園墓地側の墓苑区画は昭和40年前後に開かれました。
横浜刑務所受刑者合葬墓地区画が日野公園墓地の区域外であることと、道路の状況から、おそらく当時は鎌倉街道方面から参拝されたと考えて良さそうです。
港南区役所に隣接する横浜刑務所敷地に「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」が祀られています。
太平洋戦争直前、日本統治下のテニアン島などに飛行場建設を行なった所謂「囚人部隊」の慰霊碑です。
しかし、石碑の裏側には看守・職員11人の名が刻まれているものの、受刑者については全く触れられていません。
ここに、横浜刑務所とテニアン北飛行場、横浜大空襲、広島長崎原爆の一連の流れをまとめてみました。
横浜刑務所は、根岸にあった刑務所が関東大震災で被害を受け、また周囲の都市化が進んだため、現在の上大岡周辺地元の誘致を受けて現在の地(港南区役所の隣)に昭和11年5月竣工した刑務所です。
竣工してまもなく、日本が戦争へと突入する情勢の中で、南方へ受刑者たちを派遣することが決定されます。
国のため…信じた囚人 北マリアナ・テニアン島広島、長崎に原爆を投下した米軍B29爆撃機の発進基地テニアン。太平洋戦争直前、その飛行場建設に網走や札幌、函館各刑務所はじめ全国から約千人の「囚人部隊」が動員された。日本の南洋進出を担った北マリアナの小島は米軍占領後、本土空襲の拠点に転じる皮肉な運命をたどった。
1939年(昭和14年)、対米開戦をにらみ飛行場建設を急ぐ海軍の要請で、司法省は前例のない受刑者二千人の南洋派遣を決めた。テニアン島と、マーシャル諸島ウオジェ島の二島に各1000人。
戦時中の刑事行政をまとめた「戦時行刑実録」(矯正協会編)によると、道内の刑務所は網走の136人を筆頭に札幌30人、函館22人、旭川(支所)19人の計207人を選抜。刑期の残りが1年半以上ある約300人の希望者の中から、50歳以下で猛暑の重労働に耐えられる頑健な者に絞り込んだ。
予想外に南洋希望者は多かった。「罪人でなく、一兵卒として国のために働くことに誇りを感じたと思う。任務を果たして仮釈放の期待もあっただろう」。元札幌刑務所看守長で、著書「北海道行刑史」にテニアン派遣を記述した重松一義さん(77)=東京都府中市、元中央学院大教授=は言う。
厳寒の北海道を出発、横浜港発の輸送船で40年2月、上陸した。炎熱下の密林で巨木を倒し、砕いたサンゴなどを敷いて舗装した。
網走勢は人数も多く、美幌飛行場建設の経験から手際の良さは群を抜いていたという。当時小学生の宜野座朝憲(ぎのざちょうけん)さん(77)=那覇市、沖縄テニアン会会長=は、遠くから受刑者を見た。「粗末な小屋が並び、網走の重罪人がいると父から聞いて子供心にどきどきした」
集団赤痢や腸チフスで24人の死者を出しながら、飛行場は真珠湾攻撃直前の41年10月、完成した。
(北海道新聞より)
昭和6年9月18日満州事変が勃発、上海事変、日華事変へと日本を取り巻く状況は戦時体制一色に染められてていきました。
横浜刑務所においても、他の刑務所と同様に軍服の肩章、暴雨外套、敷布、軍用石鹸等の軍需製品を主に海軍から受注して大量に生産していました。
また、構外作業として飛行場建設といった大規模なものが、全国から受刑者を集めて行なわれました。
横浜刑務所では、昭和13年7月から4ヶ月間北海道網走郡の飛行場建設作業に30人を派遣しています。
しかし、横浜刑務所の特筆すべきところは国内のみならず、南方の島に職員・受刑者を派遣しているということです。横須賀海軍鎮守府に近いということが理由です。
昭和14年10月、司法省は横浜刑務所を拠点として、全国から受刑者を集め、受刑者2000人の南方諸島・テニアン、ウオジェ両島飛行場等の建設作業への派遣出役を決定します。
派遣部隊は「南方赤誠隊」と命名されました。
全国からの受刑者の結集後、
昭和14年12月18日ウオジェ島へ先遣隊(職員9名・受刑者20名)
昭和14年12月22日テニアン島へ赤誠隊(職員56名・受刑者300名)
昭和14年12月22日ウオジェ島へ赤誠隊(職員43名・受刑者300名)
以降、両島にはそれぞれ約1000名が派遣されています。
両島における作業は南方の灼熱、繁茂する密林、高低差の激しい地形、数々の風土病といった悪条件下のものであり、その中で職員・受刑者を問わず赤誠隊一丸となっての突貫工事でした。
ウオジェ島は昭和16年1月16日に就業延人員284,180名をもって、テニアン島は昭和16年10月23日に就業延人員387,807名を持って全工事が竣工。両島の工事期間中に病気・事故等で職員10名、受刑者50名が犠牲となりました。
この犠牲者を弔うため昭和17年11月21日、横浜刑務所において赤誠隊及び図南報国隊の殉職者11名の合同慰霊碑が旧庁舎正門前に建立され、岩村司法大臣、中尾刑務所長の参列により序幕慰霊法要が営まれました。
それが冒頭の石碑です。
![]()
(左)炎天下、広大な飛行場用地を手作業で整地する「囚人部隊」=『日本行刑史散策』から
(中)テニアン北飛行場の現在。ジャングルの中に東西に貫く4本の滑走路が見えます。kameno撮影
(右)砂を敷詰めた2500m級の滑走路。エノラゲイはここから飛立ちました。kameno撮影
サイパン・ウオジェでの工事竣工後、トラック島への派遣要請により、トラック島春島図南報国隊と名を変えましたが、昭和16年に勃発した太平洋戦争の局面悪化で本国から次第に孤立し、凄惨な状況に追い込まれます。
昭和19年にはトラック島からの帰還船が米国の魚雷攻撃を受け撃沈、トラック島への大空襲により作り上げた滑走路、宿舎等は損壊、焼失。赤誠隊、図南報国隊員として南方に派遣され、その地に倒れた刑務官は40名、受刑者は442名にのぼり、その大半の遺骨はトラック島に仮埋葬されました。
日本の大きな誤算は、太平洋上での主力艦隊同士の一大決戦によって勝敗が決すると信じていたことであると思います。
従って、南洋の小島の防備が後手に回されてしまいました。
一方、連合軍は先ずは海兵隊を駆使して南洋の小島を制圧し、その飛行場拠点として日本本土に攻撃を行なう作戦を重点的に行ないます。
これにより、南洋群島では太平洋戦争後半において連合軍の上陸を許す結果となり、サイパン・テニアンの飛行場から日本各地への空襲の拠点となってしまいました。
![]()
B29が並ぶサイパン・アイズリー飛行場・CC:Wikiペディア
折りしも、あと数日で横浜大空襲の日、5月29日を迎えます。
横浜は日本各地に比べてかなり遅い時期に空襲が始まっています。
しかし、それは歓迎すべきことではなく、横浜が原子爆弾投下の候補地となっていたために空襲が行なわれなかったという、ただそれだけの理由に過ぎません。
1945(昭和20)年5月10日に行なわれた第2回目標選定委員会での原子爆弾の投下目標は下記の通りでした。
1.京都市:AA級目標
2.広島市:AA級目標
3.横浜市:A級目標
4.小倉市:A級目標
横浜大空襲は1945(昭和20)年5月29日に始まります。
理由はその前日に行なわれた第3回原爆投下目標標選定委員会で横浜が目標から外されたことによるものでした。
横浜大空襲も、1945(昭和20)年8月6日広島へ、8月9日長崎へ落とされた原子爆弾も横浜刑務所からの「赤誠隊」により建設された飛行場を拠点として行なわれました。
生き残った「赤誠隊」の方たちはどのような気持ちでこの報道に向かい合ったのでしょうか。
![]()
原子爆弾はテニアン島でB-29に搭載され、広島と長崎に投下されました。
・・・横浜刑務所の「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」は、敗戦後「戦争協力の責任を問われる可能性のある文書、証拠の物品」の一として連合軍の進駐を配慮し、砕かれ地中深く埋められてしまいました。
約20年の時を経て、昭和39年6月石碑は再び掘起こされ補修復元の上、再慰霊祭が行なわれました。
冒頭の石碑の写真随所に見られる大規模な補修跡、上部左が欠けた姿・・・・・砕かれ地中に埋められていたことを生々しく物語っています。
■関連ブログ記事
■サイパン
三代目の飛行場
教会の中の鳥居
タポチョ山とアスリート飛行場
バンザイクリフ
■テニアン
製糖の島テニアン
テニアンに残される戦跡
移ろいゆくもの変らないもの
■原爆関連
キャンドルナイトin大船開催報告
採火合宿@大船観音・貞昌院
原水爆禁止国民平和大行進@大船観音
平和の火でキャンドルナイトを開催しませんか?
キャンドルナイトin大船のお知らせ
「GATE」上映会及び講演会報告
Flame of the Atomic bomb in Ofna kannon
核兵器、廃絶だけに意味
キャンドルナイトが目指すこと
観音様胎内での演奏会
キャンドルナイト報告?笑顔が広がりますように
原爆投下は長崎を最後に
広がるねがいと平和の灯火
「広島原爆の火」の採火式を行います
神聖なる平和の灯火
広島原爆の日に
原爆投下の日に
蓮は仏教を象徴する植物として珍重されます。
蓮は泥より出でて泥に染まらず
植物は自分では自ら動いて汚れを拭い去ることが出来ないため、清浄を保つ様々な工夫をしています。
その工夫の一つが葉や花の表面に施されている微細構造です。
さらに表面の化学的な特性とが相俟って、降った雨は真ん丸な水滴となります。
水滴が花や葉の上で汚れを絡め取りながら転がっていくことにより表面を綺麗に掃除していくのです。
雨模様の境内を巡って、この大自然の智慧を写真に撮ってみました。
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
雨の日の植物たちは美しく映えます。
単に水の反射だけで光っているのではなく、汚れが流され本当に綺麗になっているのです。
綺麗になった表面に表面張力で真ん丸になった水玉が飾られキラキラと輝きます。
これをロータス効果といい、建物の屋根や車、衣料品などの撥水加工として応用されています。
太陽光発電パネルの表面を特に掃除しなくても、雨により汚れが流され発電効率が保たれるのも、このロータス効果の一つです。
![]()
(CG by William Thielicke・Wiki pediaより)
大自然の智慧に学ぶことは際限なくあります。
国が変れば仏教のスタイルも変ります。
例えばお釈迦様の誕生を祝う「釈尊降誕会(花まつり)」一つをとっても、行なわれる日付や法要の形態は同じ仏教とは思えないほどです。
北伝仏教の伝来した地方では、一般に釈迦の誕生日は中国暦4月8日とされているが、その典拠は必ずしも明らかではない。
インドと基本的に同系統の暦を用いる南伝仏教圏では、釈迦の誕生日はインド系太陽太陰暦第2月15日(ウェーサーカ祭)であるとされている。
インド暦の2月は中国暦の4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。また、法顕の仏国記には「建卯」月の8日または1日から15日にかけて、グプタ朝治下のインド各地で祝祭が行われていたとある。
中国語で「卯の月」とは春分を含む月であり、インド暦の正月祭(例えばタイにおけるソンクラーン)が起源である可能性もある。
現在においては、正月などの他の伝統行事と同じように、日本と日本以外の全ての東アジア圏や世界各地の華人社会とで日付の慣行が全く異なる。
日本では、グレゴリオ暦4月8日、または寺院によっては同5月8日(月遅れ)を灌仏会とするのが一般である。他方、日本以外の東アジア圏や華人社会ではこのようなグレゴリオ暦への読み替えという考え方は存在せず、従来通り中国暦4月8日をもって灌仏会とする
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
台湾での国定佛誕灌仏会は、「千僧万衆祝仏誕、一心十願報母恩」(千僧万衆が仏陀の生誕を祝い、10の心願にて母に報恩する)ということで、母の日と融合して行なわれています。
したがって、ウェーサーカとも建卯8日とも関係無く、5月第2日曜日開催となっているのです。
それにしても、凱達格蘭大道(全長400m両側10車線)を埋め尽くす僧侶と参列者・・・圧倒的な迫力ですね。
(国定佛誕灌仏会・浴佛節)での般若心経
世界各地での般若心経読経法は先日ブログ記事にしたとおりですが、この台湾での般若心経は、原文が日本と同じですから耳に馴染みます。
台湾の人口は約2300万、そのうち約1000万人が仏教信者と言われています。
仏教信者の数は、20年で倍増しました。
その要因としては
「中国の台頭などで先行き不安感も出ており、心の安寧を仏教に求めている」
「社会構造の変化や高齢化」
などがあるといいます。
法要の行い方、信徒がどのように参列されているのか、情報発信の仕方・・・・大いに学ぶところがありますね。
即心会研修-佛光山寺
台湾仏教を担う尼僧たち
世界を巡る般若心経
第11回ゆめ観音アジアフェスティバル報告(2)
ゆめ観音2007報告(2)
ブッダもキリストも誕生日は分からない
梅に疲労軽減効果 県が共同研究で実証和歌山県は26日、産学官の共同研究で、梅果実成分の肉体疲労軽減効果を実証したと発表した。梅由来のクエン酸と梅酢ポリフェノールの併用摂取で効果が高まることも分かった。県は「梅の効能を裏付けることで、売り上げ増につなげたい」と話している。
共同研究は文部科学省の補助事業。県工業技術センター(和歌山市)とサッポロ飲料(本社・東京)、近畿大学生物理工学部(紀の川市)で行っている。
実験は梅干し製造時に生成する梅酢から取り出したポリフェノール、クエン酸、その両方を含む飼料の3種を3週連続でマウスに与え、それぞれ遊泳時間の変化を調べた。
どの飼料でも1、2、3週すべての時点で、遊泳時間が通常のマウスを上回った。中でもポリフェノールとクエン酸併用摂取の効果が最も大きく、2週目で通常の1・2倍を超えた。
梅は古くから健康食品とされており、サッポロ飲料が2007年に行ったイメージ調査でも7割が「梅は健康に良い」と回答した。しかし、効能を数値化した例は少なく、今回の実証は意義が大きいという。
中でもこれまで廃棄対象だった梅酢は、安全性の高い新素材として活用が広がる可能性が高まった。県産業技術政策課は「新しい加工品への活用はもちろん、既存の梅干しや梅酒にも健康情報を付与することで、梅産業全体の活性化になる」と期待している。
サッポロ飲料は「30年以上、和歌山産梅果汁の飲料を販売している。直ちに新商品を投入できるわけではないが、共同研究を継続し、梅成分と疲労軽減のメカニズムを解明したい」と話している。
(紀伊民報 4月27日)
寺院の境内には梅がよく植えられています。
単に花を愛でるというだけではなく、その実が実用的であるという理由もあるでしょう。
遠くからお越しいただいたお客様をおもてなしするために「梅湯」をお出しします。
梅湯とは、蜜湯に、割り箸に挟んだ梅干を添えたものです。
単に飲み心地が良いというだけではなく、疲労を癒す効果があるということが実証されたようです。
永年培われた智慧でもありますね。
昨日GlyphWikiについてブログ記事を書きましたので、漢字の元素周期表を作成してみました。
マウスを文字に合わせると元素記号と名前が表示される仕組みにしています。
| 1A | 2A | 3A | 4A | 5A | 6A | 7A | 8 | 1B | 2B | 3B | 4B | 5B | 6B | 7B | 0 | |||
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | |
| 1 | |
|
||||||||||||||||
| 2 | |
|
|
|
|
|
|
|
||||||||||
| 3 | |
|
|
|
|
|
|
|
||||||||||
| 4 | |
|
|
|
|
|
![]() |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 5 | |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 6 | |
|
L |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
![]() |
|
|
|
| 7 | |
|
A |
|
|
|
|
|
|
|
|
![]() |
Uut |
Uuq |
Uup |
Uuh |
Uus |
Uuo |
| L | |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|||
| A | |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|||
金属には「金偏」、非金属には「石偏」
常温で気体の元素には「气」、
常温で液体となる元素には「水偏(さんずい)」や「水」がついています。
周期表を漢字で眺めてみると新たな発見もあります。
漢字は素晴らしいとつくづく感じます。
※原子番号 105番
? 108番
は、昨日のブログ記事で紹介した拡張文字コードを使用しないと表示されません。
※漢字の画像元はGlyphWik より引用しています。
※個人的感想ですが、原子番号 112番
は、漢字の要素に「水」を入れておくべきだったんじゃないかなぁ・・・
この春、『リコールを起こさないソフトウェアのつくり方』が技術評論社より出版されました。
出版元の技術評論者様より献本いただきました。
リコールを起こさないソフトウェアのつくり方
(組込みプレスSelection) (単行本(ソフトカバー))出版社: 技術評論社 (2010/3/19)
ISBN-13: 978-4774142166
内容紹介
さまざまな電子機器がソフトウェアで制御されるようになった昨今、トヨタのハイブリッド車プリウスのブレーキ問題をはじめソフトウェアが絡んだリコールが年々増加しています。ソフトウェアは見えないだけに、何がどのようにして問題を起こしているのか簡単には解明できません。
本書では大規模、複雑化したソフトウェアにどのようにして問題が入り込むのかを実例をもとに解き明かし、日本のソフトウェアプロジェクトにフィットしたマネージメント技術および、ソフトウェアの品質と開発効率向上の両立を実現するためのソフトウェアの資産化の技術を解説します。また、付録で「MISRA SA;MISRAソフトウェア安全解析ガイドライン」の概要を紹介しています。
『リコールを起こさないソフトウェアのつくり方』目次
Part1 ソフトウェアの危うさの本質を体感してみよう
Chapter 1 ソフトウェアの危うさを知ろう
Chapter 2 危ないソフトウェアのプログラム例とケーススタディ
Chapter 3 ソフトウェアはなぜ危ないのか
Chapter 4 ソフトウェアの品質を高く保持するために
coffee break アメリカ人と日本人
Part2 日本的ソフトウェアプロジェクトの管理はここから
Chapter 5 ソフトウェア開発の理想と現実
Chapter 6 日本のソフトウェアプロジェクトに求められる取り組み
Chapter 7 ソフトウェア構成管理
Chapter 8 ソフトウェア変更管理
Chapter 9 レビュー
coffee break 問題解決能力:自ら考え行動する力
Part3 ソフトウェア資産化の技術がリコール防止につながる
Chapter 10 ソフトウェア開発のプラットフォーム
Chapter 11 ソフトウェアシステムとソフトウェア搭載機器の価値
coffee break 3 ものづくり戦略とソフトウェア品質:品質=Qualityの話
Chapter 12 再利用資産を抽出するためのアプローチ
Chapter 13 再利用資産を抽出する手順
coffee break 4 UML導入のススメ
Chapter 14 再利用資産の抽出のケーススタディ
Chapter 15 再利用資産の抽出後のアプローチ
coffee break 5 テストカバレッジ
Chapter 16 安全性が求められるシステムに対するアプローチ
Chapter 17 安全アーキテクチャの検討
Chapter 18 ソフトウェアを資産化して品質と開発効率を高める
この本の中のChapter 17 「安全アーキテクチャの検討」で、当ブログの一部が引用されています。
どこで繋がりがあるかわかりませんね。
ところで、この本はトヨタ・プリウスのリコール問題をはじめ、最近話題となっているテーマについて技術的に掘り下げ纏め上げられている本です。
ソフトウエア開発にかかわる技術者のみならず、さまざまな分野で応用できる本だと感じます。
本屋さんにも並んでおりますので、是非お手にとって読んでみてください。
コーヒーブレイクとして「アメリカ人と日本人」
・・・日本の製品が欧米の製品より高品質なワケ・・・・・・
このような本の合間合間にあるコラムもとても面白いですよ。
貞昌院のライブカメラに使用しているMaxellのWS30が時々きまぐれな作風の画像を作り出しています。
しばらく調子が良かったのですが、ここ数日、また「きまぐれ」を起こすようになりました。
色数を大胆に落とし、色が変わる部分に墨線が入る技法を用いた画法をリーニュ・クレール様式という。 現代的な浮世絵とも解釈され、日本ではEIJIN、わたせせいぞうが有名である。
点の集合や非常に短いタッチで表現する画法を点描法という。 印象派による鮮やかな色の配列の視覚混合をフランスの画家、ジュルジュ・スーラがさらに追求し、点描主義(新印象派)を確立、ポール・シニャックやカミーユ・ピサロらを生み出した。 水墨画では、米芾や米友仁による、水墨の点を集合させて表現する米法山水が有名である。
緑と黄色から成る方形の「コンポジション」といえる。 この画風は抽象表現の実験が続く中でモンドリアンによって生み出された。水平と垂直の直線のみによって分割された青・赤・黄の原色を用いたモンドリアンの作品群が知られる。
■関連ブログ記事
今月10日に発売された『トイレの神様』がちょっとした反響を呼んでいます。
植村花菜さんの、小学生の頃おばあちゃんと暮らしていた実体験を元に実体験を元に書き下ろられた曲です。
おばあちゃんからプレゼントされた
トイレには それはそれはキレイな 女神様がいるんやで
という言葉が印象的です。
きっと、2010年を代表する曲の1つになるのではないでしょうか。
余談
お寺にも烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)という『トイレの神様』がいらっしゃいます。
インドの火の神アグニが元であるとされ、大威力烏枢瑟摩明王経などにも説かれています。
禅寺では、トイレのことを東司(とうす)といいます。
その東司を守護しているのが烏枢沙摩明王なのです。
曹洞宗の開祖、道元禅師の著された『正法眼蔵』にも東司で用を足す際の心得、作法が詳細に記されています。
両辺を汚すことなかれ 前後にそましむることなかれ 『正法眼蔵』「洗浄」
東司も修行道場・七堂伽藍の1つであり、ここを大切に使用し、清浄に保つことも修行であるのです。
次のような川柳を掲げているお寺様もありました。
急ぐとも 外にこぼすな 玉の露 吉野の花も散れば見苦し急ぐとも、心静かに手を添えて、外に漏らすな松茸の露 (詠み人知らず)
修行道場を訪ねた際には、是非『トイレの神様』を探してみてください。

昨年、山手線にチョコレート色の電車が走っていました。
これは品川駅でその電車に出会った際にケイタイで撮影したもの。
明治製菓と山手線100周年のコラボレーションだったようです。
山手線は「まあるい緑の山手線♪」というように、緑色というイメージが強いのですが、1909年から始まる歴史を Wikipedia などで調べてみると緑色の時代というのは意外と短いことがわかります。
山手線の色の変遷を右の図にまとめてみました。
歴史の半分以上がチョコレート色(正確には葡萄色)ですね。
このように昭和30年代まではチョコレート色が残っていたようです。
恐らくは東京オリンピック開催も決定し準次新型の電車に置き換えられていったのでしょう。
流石に昭和30年代のチョコレート色の山手線は見たことがありませんでしたが、私が小学生の頃は横浜線や南武線、鶴見線などにもまだまだ残されおりました。
冷房など無く、天井の扇風機が車内の空気をかき回していたり、走っているときのモーターの音が「ガガガガガッガガ?」と五月蝿いうなり声を上げたりして、その人間くささが好きで、電車待ちをしていてチョコレート色の電車が来ると内心とても嬉しかった記憶があります。
ということで、久し振りにチョコレート色の電車に出会って昔の思い出が蘇りました。
今の電車は性能はよいのでしょうけれど、乗ってワクワクするようなものってあまり無いような気がします。
涅槃会では、お釈迦様の入滅の様子を描いた「涅槃図」を掲げたりします。
このように、宗教的な物語のある絵画を「説話画」といい、その「説話的絵画」に描かれている内容を解き語ることを「絵解き」といいます。
2月15日の涅槃会に向けて、涅槃図を眼にする機会があると思います。
涅槃図は基本的な決まりごとがあり、その基本から派生した様々なバリエーションがあります。
いくつかの基本を押さえた上でご覧いただくとさまざまなことが見えてくると思います。
涅槃図は、お釈迦様が誕生されてから入滅されるまでの、いわゆる「八相」のうちの涅槃(入滅)を主題としています。
ブッダガヤの菩提樹の下、悟りを開かれ(成道)後45年間に亘る各地での説法を終え、いよいよ死期を迎えたお釈迦が沙羅双樹の下に牀座を設け、静かに臨終の時を迎る情景です。
■入滅されたのは旧暦2月15日とされますから、上空には満月が描かれます。
■空には忉利天から降下した釈尊の生母、摩耶夫人がお釈迦様をお迎えに表れます。
■牀座の周囲には八本の沙羅の木。これは八正道を表すとされています。
■沙羅の木は時期はずれの花を咲かせ入滅を悲しみます。項垂れている花が鶴ににていることから鶴林という語が生まれました。
■沙羅の木には釈尊の使用した鉢とも、水を入れた革袋とも言われる袋が掛けられています。
■沙羅双樹の向こう側にはクシナガラの熙連河が描かれます。
■釈尊の入滅を悲しむ弟子、菩薩、羅漢たち。釈迦の足に須跋陀羅(註)尊者が手を掛けます。気絶して倒れているのは阿難尊者。一比丘が水を注ぎます。
■動物たちや虫たちも集まり悲しみに暮れます。描かれる動物たちは時代により変化していきますが52種類(五十二衆)というのが基本となります。
描かれている動物たちの中で「猫」が描かれていないということがよく話題に上ります。
大抵の涅槃図には猫が居ません。
理由は諸説ありますが、室町時代以前は猫は魔物扱いされ、涅槃図に描かれる五十二衆の中に含まれることがありませんでした。
ただ、こういうものには必ず例外があるもので、室町時代初期の禅僧・吉山明兆の描く涅槃図には大抵猫が描かれています。涅槃図を仕上げている時に一匹の猫が近寄ってきて、涅槃図に猫が描かれないことを哀れんで、自らの筆による涅槃図には猫を描いたということです。
また、昨年の市仏連涅槃会の会場となった戸塚区R寺様の涅槃図にも猫が描かれています。
こちらは菱川師宣によるものだそうです。
⇒戸塚区R寺様のブログ「さんぜ通信」にリンク
涅槃図を見るにつけ、謎解ときを交えながら、その描かれた背景に思いを馳せることにより仏教への親しみも深まっていくのではないでしょうか。
いくつか謎を箇条書きにしてみます。
是非調べてみてください。
★お釈迦様は北枕であったのか。そうであれば何故か。
★沙羅双樹の沙羅の花ってどんな花か
★十大弟子(舎利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉、須菩提、富楼那弥多羅尼子、摩訶迦旃延、阿那律、優波離、羅睺羅、阿難 諸尊者)は何処にいらっしゃるか
★涅槃図には阿那律尊者が二重に描かれている。何故か。
★お釈迦様が入滅される原因となった、純陀がお釈迦様に供養した食べ物は何か。
★牀座に泣き伏しているのは誰か。
★気絶した阿難尊者を介抱しようとしているのは誰か。
★お釈迦様の足が汚れている理由は何か。
★老女と須跋陀羅尊者が似ているのは何故か(上記註)。
★菩薩、羅漢たちの種類は?
★動物たちがお釈迦様の元に到着した順番は?
★動物・虫の種類は時代により経典によりどのような違いがあるか。
などなど。
一つの絵から派生する興味は尽きないですね。
お釈迦様が入滅されて2500年。
肉体は滅びても、その教えは世界各地で受継がれて生かされています。
今日の定例坐禅会にも多くの参加をいただきました。
この時間、大分明るくなってきました。
日の出の時刻が段々早まっていることが実感できます。
■関連ブログリンク
みんな読んでるか?い? (つらつら日暮らし)
涅槃図 (tera日記) ※こちらにも涅槃図に猫が描かれています
今月末より貞昌院本堂室中に江戸時代この永谷の地に立てられた高札を展示しています。
この高札は、元々は下野庭にある旧家の物置にあったものですが、維持していくことが難しくなったため、貞昌院で保管展示を引き受けることになったものです。
古いものであるため、虫食いの穴が随所に見られます。
このような貴重な文化財は、家主が代替わりする度に散逸の危機にさらされます。
地域が一体となって文化財を保存を行なう取組みをしていかないと後で取り返しがつかないことになってしまうでしょう。
地域に伝わる文化財の大切さを啓発し次世代へ受継ぐために多くの方にご覧頂きたいと思います。
高札に書いてある内容は以下のとおりです。
大津御預役所高札近頃浪人ども水戸殿浪人 或は、新徴組などと唱え ところどころ身元よろしきものども 攘夷の儀を口実に無心もうしかけ、その余り公事出入り等に携わり かれこれ申しおどし、金子、差し出させ候たぐい これあり候ところ、おいおい増長におよびみだりに勅命などと申し触れ、在々農民を覚類に引入れ候たぐいもこれあるやにあい聞え 今般御上洛、仰せいださる折がら捨ておきがたくこれにより以来、御料、私領、村々申し合せおき、帯刀致しおり候とも浪人体にて怪しく見受け侯分は容赦無く召し捕りて、手向いいたし侯わば切り殺し 候とも打ち殺し候ともいたすべく旨 仰せいだされ候あいだ、悪事に携わざる者どもはそうそう旧主へ帰参の儀、あい願い神妙に奉行いたすべし、もし悪事に携わり或は子細これあり旧主へたち戻り難き分は、ありていに、訴いいずべく候とも始末に応じ罪を免し又は難儀相成らざる様、取りはからいつかわすべく候
万石以上、以下ども用向きこれある家来、旅行至させ候らわばその度々きっと道中奉行へあい達し先ぶれ差し出すべく、領分知行よりまかり出で候もの共も先ぶれ差し出しいずれもこの程、相触れ候とおり調印の書付をもって関所にて、相通すべく、万一先ぶれ差し出されず、旅行いたし或は旧主へ帰参もいたさず召し捕らわれ候せつに至り手向いいたし、切り殺され侯らわば、其の身の不念に候あいだ、其の旨存ずべく候右の通り
公儀より仰せいだされ侯あいだ村々取締らず、これ無き様堅くあい守るべく者也亥 大津
十二月 御預役所
この高札は、江戸時代独特の文体で書かれています。
内容は十四代将軍徳川家茂が将軍として229年振りに行った御上洛のため、街道筋の治安を強化するために出されたものと考えられます。
人々は旅行することを控え、村から勝手に移動してはいけない。
浪人の取締りを厳しくすること、もしも悪事などを行なって村に戻れない場合には役所に届ければ便宜を図る、などが書かれています。
三代将軍徳川家光以来十三代までの長い間、将軍が京都へ行くことはありませんでした。
当時の上洛とは将軍とともに重要書類全てを運び込み、幕府そのものが移動する程大変なことだったようです。
高札が建てられたのは1863(文久3・癸亥)年、御上洛が行なわれたのは1864(文久4)年ですから、御上洛の一年前から鎌倉の片田舎、現在の上永谷周辺にまで高札が立っていたということは、いかに御上洛の警戒が厳しかったかが良くわかります。
(参考文献『お母さんが伝えるふるさと下野庭』 昭和63年発行・しものば郷土史編集委員会編)
昨晩何気なくテレビを見ていたら、NHKの番組『爆笑問題のニッポンの教養』で三浦公亮先生が出演されていました。
三浦先生の考案したミウラ折りはさまざまな分野で応用されています。
例えば大きな紙に印刷されている地図は、どのように折りたたむかによって使い勝手が大きく変わってきます。
これを一瞬のうちにたたみ、使うときに開くことができる便利な折り方、それがミウラ折りです。
一瞬で開くことができ、畳むときも一瞬。そして、折り目を南北に合わせることもできますし、折り目が破れにくく構造上も安定しているので開いたときに読みやすい。
お守りの中に納められた経典のようなものにも応用できます。
チューハイの缶にもこの折り方が見られます。
この缶は単に持ちやすさのために折り目がつけられているのではなく、アルミ缶のもつ「ふにゃふにゃ感」を、構造的に補うという役目も果たしています。
缶を開ける前には炭酸の圧力で折り目が出ていませんが、缶を開けると圧力が抜けてミウラ折りの形に変化します。
地図の折り方や、チューハイの缶のほかに太陽系探査衛星「はるか」のアンテナ、スペースシャトルのソーラパネル、宇宙船の構造物(PCCPシェル)としても応用されています。
宇宙に運ぶロケットの中では小さく折りたたまれていて、宇宙空間でそれを広げるというわけです。
具体的な折り方は、太陽系探査衛星「はるか」のVSOP計画に携わっていた私の弟(亀野誠二)のサイトに詳しく紹介されています。
⇒地図をミウラ折りにしてみよう
是非紙を広げて試してみてください。
ミウラ折りに表れるパターンは、基本的に4つの平行四辺形が繰り返される「二重波形可展面」となります。
三浦先生は、円筒形の紙の筒の端を机にぐしゃりと押しつぶしたときに表れるパターンから研究を深め、ミウラ折りの原理に辿りつきました。

(c)NHK
潰れて、一見ぐしゃぐしゃになった状態から、構造的に安定するパターンを導きだしているところが素晴らしいですね。
誰でも日常的に見る何気ない現象の中から着想しそれを発展させるという発想力の賜物といえます。
しかし、当初はその有意性について気づくものはほとんどいなかったそうです。
20年以上の時を経て缶のデザインに応用され世に出されるきっかけとなったのも、開発していた東洋製罐の技術者が研究室に置かれていたミウラ折りの紙の筒をみたことによるものです。
試行錯誤を経て「ダイヤカット缶」として製品として世に出されることとなりました。
それにしても、日本の技術力は凄いものです。
一度作った折り目を再び折り返す伝統的な「折り紙」の手法を円筒形の缶に応用し、量産化することを実現したのですから。
チューハイの缶には、隠されたいくつかの数学的なトリビアもあります。
・缶につけられた菱形のパターンは一周いくつになっているか。それは何故か。
・缶を開けたときに折り目に沿って折りたたまれるが、印刷された模様が歪まないようになっている。どのような工夫がなされているか。
・缶を開けたときに折りたたまれるので、容積が小さくなるはずであるが、どの程度小さくなるか。
考えながらチューハイを飲むと、良い酒のつまみになるかもしれません。
それにしても、大自然の中では既に何億年も前からミウラ折りの原理が使われています。
木々の新芽の中に折りたたまれた若葉、昆虫の羽根・・・・・
このような智慧の一部に、私たちがようやく気づきはじめたというところでなのしょう。
![]()
(左)セミの羽化。貞昌院境内で撮影。羽がだいぶ伸びてきました
(右)太陽系探査衛星「はるか」。宇宙空間でアンテナを伸ばします
今月(2010年1月)は様々な天体現象が目白押しです。
主なものは
1月1日 部分月食
1月15日 金環日食(西日本では日没帯食)
1月25日 プレヤデス星団(すばる)食
1月30日 今月2度目の満月(大きな満月)
月は地球の周りを、地球は太陽の周りを回っています。
太陽?月?地球 となるときに新月
太陽?地球?月 となるときに満月
となるということを単純に考えると、新月のたびに日食、満月のたびに月食となりそうなものですが、実際にはそうなりません。
折角ですから、なぜそうならないかということの説明をワードで図として作ってみました。

月が地球の周りを回る軌道は、地球が太陽を回る軌道よりも約5度傾いています。
また、地球からの太陽・月の見かけの大きさは、約0.5度(10円玉を腕いっぱいに伸ばして眺めた程度)です。
日食、月食はそれぞれ3つの天体がほぼ一直線(例えば日食は見かけ上約0.5度の範囲内)に並ばないと起きませんから、新月ごとに日食にならず、満月ごとに月食にならないということになります。
地球から見た見かけの太陽の軌道を「黄道」
地球から見た見かけの月の軌道を「白道」
といい、これも当然約5度の軌道面の傾きがあり、それが交わる点を「昇交点」といいます。
日食、月食は「昇交点」付近で起こることになります。
上図でいえば「昇交点」は地球が公転軌道上「A」の位置関係に来たときですね。
このときに月が満月であれば月食が起こりますし、新月であれば日食が起こります。
すなわち、地球の公転と月の公転に関する数字の最小公倍数が、日食、月食周期に関係してきそうだということがわかります。
地球から見た太陽が昇交点から昇交点にもどる周期は 346.6201日 (これを1食年といいます)
新月から新月(あるいは満月から満月)までの周期は 29.530589日 (これを1朔望月といいます)
ですから、この2つの最小公倍数は、ほぼ食年の19倍、朔望月の223倍となります。
19 食年 = 6585.782日
223 朔望月 = 6585.3212日
6585.3212日 = 6585日+0.3212日 = 18年11日7時間42分32秒 (うるう年の関係で18年10日7時間?の場合あり)
この周期で日食、月食が起こることになります。
これをサロス周期といい、アッシリア時代には既に知られていた周期であります。
ここでポイントはサロス周期の約8時間(1/3日)のずれです。
地球上のある地点で日食(月食)が見られたとして、その18年11日後には約+8時間のずれのため地球の経度で約120度ずれたポイントに日食(月食)帯があらわれます。
3サロス周期経つと、同じ地点にもどってきますので、昨年の南西諸島一帯で見られた日食は1サロス周期後には経度120度ほど離れた場所で同様の日食が見られますし、3サロス周期後には2009年と同じ地点で同様の日食が起こることになります。
実際にはサロス周期は1つだけでなく、地球全体で日食・月食ともにおよそ40もの系が同時進行しています。
逆に考えれば、 1サロス周期の間に地球上のどこかで日食・月食が概ね40回程度起こるということです。
その確率として、1サロス周期あたり
日食:皆既日食は11?14回、金環日食11?15回、金環皆既食0?3回、部分日食11?17回
月食:皆既月食が13?17回、部分月食が9?15回、半影月食が13?17回
となります。
さて、今月のこれからの天文現象に話を戻します。
まずは1月25日の すばる(プレヤデス星団)食。
「風の中のす?ばる?」
冬の夜空でひときわ目立つおうし座の散開星団、すばる(プレアデス星団=M45)を月が隠します。
このように月が背後の星を隠す現象を恒星食といいますが、すばる食に関しては、数年前から度々起こっていました。
サロス周期の関係で、18?19年程の周期で起こりやすい時期が巡ってきます。
1月25日はその周期の最後のすばる食です。
今回を最後に、2024年まですばる食は見られません。
双眼鏡程度で充分楽しめますので晴れていれば冬の夜空を見上げてみることをお勧めします。
Stella teaterですばる食を観測地点横浜としてシミュレーションしてみました。
もう一つ、1月30日 今月2度目の満月です。
月は楕円軌道で回っていますので見かけ上の月の大きさは変わります。
1月30日は一年の中で再も地球に接近します。
また、地軸が傾いていることにより、冬の太陽は低く、その反対側にある満月は高い位置に来ます。
さらに冬晴れの天気となれば、夜空にひときわ大きく、明るく、高く輝く満月が望めること間違いありません。
特別な満月となります。
蛇足
逆に、低い満月(正確には満月ではない)を愛でるのが中秋の名月です。
■おすすめの本
『天体観測の教科書 星食・月食・日食観測編』―天文アマチュアのための (単行本)
広瀬 敏夫 (編集), 相馬 充
価格: ¥ 2,310
『Total Solar Eclipses and How to Observe Them』 (Astronomers' Observing Guides)
Martin Mobberley (著)
価格: ¥ 2,882
今年は元日早々から月食を見ることができました。
その次の新月の日、1月15日には今度は日食を見ることができます。
しかも、この日食は今世紀最大の継続時間をもつ金環食となります。
金環食を見ることができる範囲は中央アフリカからモルジブ、ミャンマー、中国の青島を通る地帯です。
日食の継続時間は実に最長11分8秒となります。
![]()
(インド洋におけるシミュレーション:Stella teaterにより作成)
日食帯の西端である青島では、金環日食が終了した状態で日が沈んでいきます。
残念ながら日本では西日本で部分日食をみることができるだけとなりますが、それでも一ヶ月の間に月食と日食が見られることになります。
さて、ここで次なる興味は、日本で何処までの範囲で部分日食を眺めることができるかということです。
日本付近の日食図をもう少し詳細に計算してみると・・・・・
![]()
(上図はパソコン上で行なった計算ですので多少の誤差はご了承ください)
関東地方西部が限界のようですね。
条件がそろえば、もしかしたら見ることができるかもしれません。
神奈川県での日食欠けはじめの時刻は16時48分ですから、この時刻に太陽を見ることができれば、部分日食を見ることができるということになります。
とりあえず、見ることができた場合の状況をシミュレーションにて
追記
昨年も東南アジア地域で1月に金環日食がありました。
しかも、旧暦の元日に日食となる特別な日食でした。
(今年の日食は旧暦では12月1日です)
追記2
再来年(2012年)には関東地方でも金環日食が見られます。
その時を楽しみにしていましょう。
『市史通信』第6号(2009/11/30 横浜市史資料室発行)に興味深い記事が出ていました。
「1935年神奈川県名勝・史蹟投票」です。
全文はこちらで見ることが出来ますので併せてご覧ください。
| 名勝史蹟四十五佳選 (1935年選出) | |||
| 位 | 名勝・史跡 | 場所 | 票数 |
| 1 | 石小屋 | 愛甲郡半原 | 284,726 |
| 2 | 妙香寺 | 横浜市北方町 | 275,770 |
| 3 | 峰の灸 | 横浜市峰町円海山 | 239,345 |
| 4 | 玉泉寺 | 横浜市中村町 | 218,220 |
| 5 | 八菅神社 | 愛甲郡中津町 | 168,880 |
| 6 | 早川城趾 | 高座郡綾瀬村 | 166,204 |
| 7 | 石老山 | 津久井郡内郷村 | 163,165 |
| 8 | 浅間神社 | 横浜市浅間町 | 146,967 |
| 9 | 八景ノ棚 | 高座郡麻溝村 | 146,393 |
| 10 | 宮ヶ瀬渓谷 | 愛甲郡宮ヶ瀬 | 131,222 |
| 11 | 道了尊御本地 | 中郡成瀬村 | 123,417 |
| 12 | ペルリ上陸記念碑 | 三浦郡久里浜 | 121,684 |
| 13 | 丹沢の大滝 | 津久井郡鳥屋村 | 116,718 |
| 14 | 金砂山子育観音 | 藤沢町 | 111,775 |
| 15 | 北向庚申神社 | 高座郡座間村 | 109,722 |
| 16 | 鬼子母神常照寺 | 横浜市南太田町 | 105,437 |
| 17 | 重国城趾天満宮 | 高座郡渋谷村 | 95,169 |
| 18 | 城山城趾 | 津久井郡内郷村 | 92,829 |
| 19 | 鮎の水郷田名 | 高座郡田名村 | 83,413 |
| 20 | 花水河口 | 平塚市 | 80,350 |
| 21 | 志田山朝日寺 | 津久井郡串川村 | 71,895 |
| 22 | 青柳寺 | 高座郡大野村 | 69,718 |
| 23 | 称名寺百観音 | 久良岐郡金沢町 | 64,114 |
| 24 | 三眼六足稲荷 | 高座郡東厚木 | 62,145 |
| 25 | 与瀬神社 | 津久井郡与瀬町 | 60,616 |
| 26 | 綱島温泉桃雲台 | 横浜市綱島町 | 59,374 |
| 27 | 永谷天満宮 | 鎌倉郡永野村 | 50,729 |
| 28 | 大ダルミ | 津久井郡千木良村 | 50,311 |
| 29 | 若雷神社 | 都筑郡新田村 | 46,799 |
| 30 | 三浦畠山地蔵尊 | 三浦郡葉山町 | 46,593 |
| 31 | 畠山重忠霊堂 | 都筑郡都岡村 | 44,142 |
| 32 | 波切不動の滝 | 都筑郡新治村 | 42,373 |
| 33 | 吾妻神社 | 中郡二宮町 | 41,461 |
| 34 | 宝泉寺 | 高座郡小出村 | 39,646 |
| 35 | 柏山稲荷 | 藤沢町大庭 | 39,607 |
| 36 | 金蔵院安産子育観音 | 横浜市磯子 | 39,270 |
| 37 | 広沢寺温泉 | 愛甲郡玉川村 | 38,481 |
| 38 | 金目観音 | 中郡金目村 | 38,196 |
| 39 | 円満寺白衣観音 | 横浜市久保町 | 38,100 |
| 40 | 座間神社 | 高座郡座間村 | 37,816 |
| 41 | 白滝不動尊 | 横浜市中区根岸町 | 37,666 |
| 42 | 龍源院弁財天 | 高座郡座間村 | 36,578 |
| 43 | 旧城寺 | 都筑郡新治村 | 36,252 |
| 44 | 日限地蔵尊 | 鎌倉郡永野村 | 35,638 |
| 45 | 滝出現見合不動尊 | 高座郡御所見村 | 34,837 |
1935(昭和10)年に横浜貿易新報社(現在の神奈川新聞社の前身)創立45周年記念事業として行なわれた、神奈川県内の45か所の「名勝・史蹟」を読者投票で選定する『名勝史蹟四十五佳選』のいきさつが詳細に書かれています。
選定のコンセプトは「新しくして古き歴史とともに拓かれて来た近代県神奈川」は「『武相の天地』が描く『風光の神奈川』」であるが、その存在は「宝の持ち腐れ」であり、名勝史蹟による土地の発展は著しいものがあるのに、「有名地も声なくしては忘れられてゆく」のであり、そこで「欲求するものは『世に出す機会』である」というものです。
地元では有名だけれども、外部にはあまり知られていない名勝・史跡を新しく発掘し、選定しようという意気込みが感じられます。
この投票は、選定された45か所の名勝・史跡に記念標の建立、10位までに扁額の進呈、紙面上での紹介や絵葉書・写真帳を作製して紹介宣伝することが謳われており、新聞紙上でも報道が繰り返されたこともあって相当盛り上がったようです。
総投票数は実に450?500万票にもなったそうです。凄まじい数ですね。
結果は左表の通り。
当時の「隠れた」人気スポットが良くわかります。
なお、「新しく発掘」という観点から、既に有名な場所の得票が少ないという点も特徴です。
確かに金沢八景・城ヶ島・江ノ島・杉田・箱根・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・寒川神社・建長寺・円覚寺・平間寺・總持寺などは入っていないですね。
ちなみに見事1位となった石小屋とは、中津川渓谷のことです。
着目すべきは現在の港南区エリアから3箇所が選定されているということ。
3位 峰の灸(横浜市峰町円海山・239,345票)
27位 永谷天満宮(鎌倉郡永野村・50,729票)
44位 日限地蔵尊(鎌倉郡永野村・35,638票)
凄いですね?
3位の峰の灸っていうのは、円海山にある護念寺です。
古典落語『強情灸』にも登場するほど、江戸時代から「お灸」が有名で、字名を取って「峰の灸」と呼ばれていました。
当時の地図を見ると、かねさわ道(現在の笹下釜利谷道路)田中付近から峰の灸へ尾根道を辿る参道が見られます。
現在は洋光台、港南台の大規模開発、横浜横須賀道路の工事などによって、この参道はほとんど原形をとどめておりません。

※参道を赤で着色しました。赤丸で囲った卍が護念寺です。
(1/20000地形図「戸塚」・大正10年測図)
27位 永谷天満宮は、まさに貞昌院が別当として護っていた貞昌院に隣接する神社で、当時から地元に限らず各方面からの参拝者を集めていたことを伺わせます。
往時の天神山は桜山で、伊勢佐木町あたりの芸者たちがこぞって花見に訪れたそうです。
44位 日限地蔵尊も相当有名だったようで、永野小学校付近から永谷天満宮の脇を通り、上永谷5丁目を抜けて日限山に続く参道は、4の付く縁日の日には参道を人が埋め尽くしていたそうです。沿道には茶店も並び、賑わっていました。
現在は車がやっとすれ違えることができる程の細い道です。

※参道を赤で着色してみました
(1/20000地形図「戸塚」・明治36年測図)
これらの場所が神奈川の『名勝史蹟四十五佳選』に選ばれたという歴史的経緯は誇るべきことでありましょう。
追記
歴史を紐解いていくことは面白いですね。
今日のNHK『ブラタモリ』は横浜をブラタモリ。象の鼻や中華街からのスタートでした!
■関連ブログ記事
高浜虚子一行の永谷村探勝
日限地蔵尊
民企画運営講座 第6回 こうなんの歴史が貞昌院で開催されます。
日時:2009年12月19日(土) 10時00分 ? 12時00分
会場:貞昌院 客殿
○ テ?マ: 港南区・明治創立の学舎のあゆみ
○ ナビゲータ : ワタクシが勤めさせていただきます。
(亀野哲也・ 貞昌院副住職)
○内容
?.港南区・明治創立の学舎のあゆみ
港南区には、明治時代に日野、永野、日下、桜岡 の 4小学校が開校しました。
その後、5番目の小学校開校は、実に昭和36年の南台小学校であります。
その時期から急速な人口増加と共に増え続け、平成20年には21校を数えました。
(現在は逆に1校減少し、21校となっています)また、日野、永野、日下、桜岡 の 4小学校開校以前には、地域の学舎の歴史もあります。
地域における学校の歴史を明治創立の4小学校の歩みから辿っていきます。貞昌院から見た永野村立尋常高等小学校(現在の永野小学校/大正12年)
田んぼがずっと広がっているあたりも、今は環状2号線が通り、すっかり様子が変わってしまっています。
※特別ゲストとして、地域を古くから知る平井さんにお越しいただく予定です。
これは、現在編集作業が進められている 『こうなんの写真アルバム』(仮題) ?明治創立の学舎に残された写真物語? のための基礎資料となります。
それぞれの時代ごとに近隣の寺院と大いに関係が有ったことがわかりますし、宅地開発、人口増加と共に校舎・分校が枝分かれしていく様子もよくわかります。港南区・明治創立の学舎のあゆみ (参考:横浜市港南区役所ふるさとこうなん、『港南の歴史』、各小学校のあゆみ)
<港南区の歴史> |
永野小学校 |
日野小学校 |
日下小学校 |
桜岡小学校 |
|
江戸時代 |
現在の港南区の地域は、武蔵国久良岐郡に属する上大岡・雑色・関・松本・最戸・久保・宮ヶ谷・宮下・金井・吉原の各村と、相模国鎌倉郡に属する永谷上・永谷中・上野庭・下野庭の各村からなる。 |
寺子屋 (天神社=貞昌院ほか) |
寺子屋 (洞雲閣ほか) |
寺子屋 (下大岡寺子屋ほか) |
|
明治初期 |
永谷上村と永谷中村が合併して永谷村に。 |
||||
1872年 |
雑色・関・松本の3か村が合併して笹下村に、宮ヶ谷・宮下・金井・吉原の4か村が合併して日野村に。 |
棲心庵学舎設置 (永谷村字八木2648番地) |
|||
1873年 |
第一大学第七中学区第五五番小学日野学舎 (字宮前2047) |
笹下東樹学舎設置 (関村の東樹院) |
|||
| 1874年 明治 7年 |
野庭学校設置 (正応寺を仮校舎とする) 棲心庵学舎は永谷学校と改称 |
最岡学舎設置 (来迎寺=現在の千手院) |
|||
1875年 |
日野学校と改称 |
最戸学校と改称 | |||
1877年 |
野庭学校新築 (永谷村字山田町1698番地) |
笹下学校と改称 |
|||
1878年 |
笹下の東樹院隣接地に久良岐郡役所を開設。 |
||||
1879年 |
水田の権田ケ谷戸に永谷学校新築。(永谷村字八木2690番地
勝海舟より「永谷学校」の書が贈られる。 |
||||
1880年 |
公立日野学校となる |
||||
1884年 |
関村の大火によって笹下小学校が焼失。 笹下学校、上笹下学校に分離 |
||||
1885年 |
村立日野学校となる |
||||
| 1887年 明治20年 |
最戸学校は最戸尋常小学校と改称 (大岡学校に尋常高等併置) |
||||
1889年 |
町村制が執行される。 笹下村と日野村が合併して日下村に、上大岡村・最戸村・久保村の3村が合併して大岡川村に、鎌倉郡の永谷、上野庭、下野庭の3村が合併して永野村に。 |
永谷学校と野庭学校が併合し、永野学校(本校)、野庭学校(分校)となる。 |
|||
| 1890年 明治23年 |
(大岡・井川・最戸学校が合併し大岡川学校と改称) ※現在の南区エリアのため( ) |
||||
1891年 |
小学校設備準則により永谷学校が現在の永野小学校の位置に移転。 |
||||
1892年 |
野庭学校が永谷学校の隣に村役場出張所の建物として移転。永野学校創立。 |
村立尋常日野小学校と改称 |
村立笹下尋常小学校 村立上笹下尋常小学校に改称 |
||
1893年 |
鎌倉郡永野村立尋常小学校と改称 |
||||
1901年 |
久良岐郡日下村立日野尋常高等小学校と改称。 |
||||
1903年 |
笹下・上笹下の2校を合併して久良岐郡日下村笹下に校舎を新築し、尋常日下小学校の開校式をあげる |
||||
1911年 |
大岡川村の一部が横浜市に編入(現在の南区エリア) | 校歌・記念式歌の使用を許可される |
(横浜市に編入され市立最戸尋常小学校となる) | ||
1912年 |
(久良岐郡大岡川村に旧名を引継ぎ村立尋常高等大岡川小学校として、久良岐郡大岡川村中里向田68番地に分離創立) | ||||
1913年 |
町に電灯がつき始める。 |
||||
1914年 |
記章(校章)制定 |
||||
1915年 |
鎌倉郡永野村立尋常高等小学校と改称、高等科併設 |
||||
1920年 |
上大岡駅前の鎌倉街道沿いに水道が敷かれる。 |
(久良岐郡村立大岡川尋常小学校と校名変更) |
|||
1921年 |
久良岐郡村立日下尋常小学校と改称 |
||||
1923年 |
関東大震災で大きな被害を受ける。 |
久良岐郡村立日野尋常高等小学校と改称 |
(2階建て校舎を除き全壊)
休校中は近隣3寺院にて分散授業 |
||
1926年 |
(新校舎落成。10教室) | ||||
1927年 |
第3次市域拡張で、久良岐郡日下村・大岡川村が横浜市に編入。区制施行に伴い、日下村・大岡川村は中区に編入。中区上大岡町・笹下町・日野町・最戸町・大久保町と改称。 | 横浜市立日野尋常高等小学校、現在地に移転 |
横浜市立日下尋常高等小学校と改称 |
(横浜市立桜岡尋常高等小学校と改称) |
|
1929年 |
弘明寺?日野町間に市営バスが運転開始。 |
||||
1930年 |
湘南電気自動車(現:京浜急行電鉄)が黄金町?浦賀間に開通。上大岡駅開設。 |
||||
1933年 |
日野共葬墓地(現:日野公園墓地)開設 |
||||
1936年 |
横浜刑務所が根岸から現在地(港南四丁目)に移転 。市域拡張で、鎌倉郡永野村は中区に編入。中区上永谷町・下永谷町・野庭町と改称。 |
横浜に合併のため,横浜市立永野尋常高等小学校と改称 横浜市立永野青年学校併設 |
|||
1940年 |
校旗制定 |
||||
1941年 |
法令改正により、横浜市立永野国民学校と改称 |
横浜市立日野国民学校と改称 |
横浜市立日下国民小学校と改称 |
新校地を中区大久保町13番地に得る。新校舎起工式を行う。 |
|
1942年 |
横浜市立桜岡国民学校と改称。 |
||||
1943年 |
中区の一部56か町の区域をもって南区を新設。南区となる。 |
青年学校を桜岡青年学校に統合 |
木造2階建て22教室が完成し、新校地に移る |
||
1944年 |
疎開児童を受け入れる | 疎開児童を受け入れる | 分区により、南区大久保町13番地となる。木造平屋建て4教室(後に講堂として改築)が完成。 | ||
1945年 |
横浜大空襲(港南区のエリアは空襲を免れる) |
東福寺や東樹院で分散授業 |
戦争が激しくなり、児童56名が箱根宮城野村への集団疎開が始まる。 |
||
1947年 |
六三制実施 |
横浜市立永野小学校と改称 |
横浜市立日野小学校と改称 |
横浜市立日下小学校と改称 |
横浜市立桜岡小学校となる。 戦争が終わり、全児童疎開先から引き上げる。 |
1948年 |
給食開始 |
||||
1950年 |
南区役所港南出張所開設(管轄内の世帯数3,990戸、人口19,748人) |
学校給食が始まる。 |
|||
1951年 |
学区変更(日野・笹下) |
||||
1953年 |
神奈川県戦没者慰霊堂、講和条約締結記念事業として建立。 |
創立80周年記念式典 |
創立50周年記念式開催 |
||
1955年 |
野草園が全市に紹介される |
||||
1957年 |
市営バスが野庭口?横浜間を運行。 |
プール竣工 |
|||
1961年 |
創立50周年。 南台分校が開設、8教室305名(笹下町2213) |
||||
1962年 |
校庭中央の桜の木を切る |
||||
1963年 |
校歌制定(創立60周年) |
南台小学校、分離開校 |
|||
1965年 |
体育館落成 |
||||
1966年 |
芹が谷分校開校 |
吉原分校開校 |
|||
1967年 |
芹が谷分校独立 |
吉原小学校開校 |
プールが完成 鉄筋3階建て8教室完成(現在のA棟の一部) |
||
1968年 |
下永谷分校開設(18教室874名) 鉄筋3階建て10教室完成(現在のA棟の一部)、給食室完成 下永谷小学校、分離独立 |
||||
1969年 |
南区の一部8か町の区域により港南区を新設。(管轄内の世帯数25,928戸、人口95,545人)。 |
藤の木分校開設、8教室275名(大岡町池の谷戸1722-1) 藤の木小学校分離開校(南区) |
|||
1970年 |
人口10万人突破 |
体育館完成・校歌制定,開校記念日とする |
校旗新調 |
|
|
1971年 |
港南区総合庁舎落成港南保健所・港南消防署・港南公会堂開設 |
洋光台第一・第二小学校独立開校(磯子区) |
講堂兼体育館落成記念式典 |
||
1972年 |
横浜市高速鉄道1号線(市営地下鉄)が上大岡?伊勢佐木長者町に開通。 |
校舎鉄筋化完了 |
創立100周年記念式典 特殊学級設置 |
上大岡小開校に伴い、学区の一部変更。 |
|
1973年 |
国鉄(現:JR)根岸線全線開通、港南台駅開設。 |
野庭小学校分離開校 |
訪問指導学級併設 |
第1期東側鉄筋4階建て校舎完成。第2期北側鉄筋3階建て校舎・屋上プール完成。 日下のあゆみ70年史発行 |
|
1974年 |
環境事業局港南工場と余熱利用施設(港南プール・蓬莱荘)完成。 日本住宅公団港南台団地入居開始。 |
日限山小学校開校分離 |
港南台第一小学校開校 |
創立70周年 新校舎落成記念式典 |
|
1975年 |
人口15万人突破 |
日野南小学校開校 |
緑化植樹完了 |
||
1976年 |
市営地下鉄(上大岡?上永谷)が延伸、港南中央駅・上永谷駅開設。 |
永谷小学校分離開校 |
港南台第二小学校開校 | ||
1978年 |
特殊学級開設 |
||||
1979年 |
区制10周年。区の花に「ひまわり・ききょう・あじさい」を制定。 横浜横須賀道路の一部開通 |
港南台第三小学校開校 | |||
1980年 |
上大岡駅前にバスターミナルが完成。 |
最後の木造校舎解体 |
第2運動場新設落成 |
||
1980年 |
丸山台小学校分離開校 |
||||
| 1981年 昭和56年 |
野庭東小学校が野庭小学校より分離開校。 | ||||
1982年 |
創立90周年記念式典 |
創立110周年記念式典 |
鉄筋2階建て校舎新築(図書室・研修室) |
||
1983年 |
横浜市南部病院の開院 |
小坪小学校開校 |
住所変更により、港南区大久保1-6-43となる。 |
||
1984年 |
人口20万人突破 |
給食室、体育倉庫その他の改修工事完成 プール改築・竣工式 |
|||
1985年 |
市営地下鉄上永谷駅-舞岡駅間開業 | 新設プール完成。 住所表示変更(日野7-11-1) 校庭整備 学習園 植樹完成 |
学習園・学習池・花壇が完成、植樹完了 | ||
1986年 |
郷土資料館、A棟3階に開設 多目的教室(学習センター)開設 |
||||
1987年 |
学校前に歩道橋ができる |
||||
1992年 |
創立100周年記念式典 |
||||
1993年 |
住所変更日野町→日野中央二丁目 |
90周年記念式開催 |
|||
1994年 |
区制25周年。区のシンボルマーク・鳥(シジュウカラ)・木(クロガネモチ)を制定。 |
特殊学級再開設 |
|||
1996年 |
はまっ子ふれあいスクール開設 |
||||
1998年 |
環状2号線暫定開通 |
防災備蓄庫完成 |
防災備蓄庫設置工事 |
校庭整備・飼育小屋移築工事 |
プレハブ建て郷土資料館開設 |
2000年 |
はまっ子ふれあいスクール開設 |
||||
2002年 |
創立130周年記念式典 |
創立100周年記念式典開催 郷土資料館完成 |
|||
2005年 |
プレハブ棟:図工室、はまっ子ふれあいスクール完成 |
||||
| 2006年 平成18年 |
野庭小学校、野庭東小学校廃校。両校合併、野庭すずかけ小学校となる。 | ||||
2009年 |
区制40周年 |
||||
<港南区の歴史> |
永野小学校 |
日野小学校 |
日下小学校 |
桜岡小学校 |
|
昨日、日本テレビ『所さんの目がテン!』で、紅葉の特集がありました。
その中の一齣。
「紅葉が一番美しく見えるのは、一日のうちで何時か」
ほとんどの人は昼前後が一番という認識ですが、答えは朝。
紅葉は陽があたると徐々に葉が萎んでしまい、昼過ぎにはくちゃくちゃになってしまいます。
日が沈んで夜露に当り、葉に水分が吸収されると葉は「シャキーン」と元の形に戻る。
したがって、朝が一番の見頃だという内容でした。
そうそう。
朝の紅葉は格別です。
今朝の境内で何枚か撮影してみました。
右写真は裏庭のイロハモミジです。昨夜は雨が降っていましたので更にキラキラ輝いています。
葉に朝露の水滴が残っているうちに朝日が差し込む紅葉は本当に美しいですね。
■関連ブログ記事
紅葉チャート2009
昨日のブログ記事で、根岸線の路線構想図の中で、新大船(現在の本郷台)から大船に直線で結ばれる構想があったことがわかります。
この路線は具体的にどのような路線を想定していたのでしょうか。
航空写真と地図から検証してみましょう。
まず、現在の状況から。
環状4号線(県道23号線)「笠間十字路」に立つと、東北東方向に斜めに伸びる直線道路が眼に入ります。
この道路は、戦後まもなくに撮影された航空写真にもはっきりと写っています。
太平洋戦争中、現在の本郷台駅周辺は、旧大日本帝国海軍の第一海軍燃料廠がありました。
したがって、戦時中はこの道路はとても重要な役割を果たしていたことがわかります。
栄区役所のホームページには次のような記述があります。
1938年(昭和13年)から、現在の本郷台を中心とする、小菅ケ谷、公田、桂地区の大水田地帯をつぶして、海軍の燃料廠が建設されました。この地域は本郷村の穀倉地帯で、春はレンゲ草が咲き乱れ、夏は一面の青田が広がり、秋ほ稲穂の黄金の波が美しい豊かな田園地帯でした。
今の城山橋の手前が正門。柏陽高校の運動場の東づめが東門。警察学校横のT字路が西門で、現在柏陽高校、消防学校、警察学校、栄区役所、野村コーポ、本郷台駅及び駅前高層住宅群、栄土木事務所、下水処理場、信光社等のところがその本部。栄警察署、南農協本郷支所、公会堂・栄スポーツセンター、消防署、保健所、地区センター、本郷中学校は工員宿舎・養成工寮・購買部等の付帯施設でした。共済病院は付属病院で、このほか鎌倉女子大は分室、笠間の公務員宿舎は将校クラブ、小菅ケ谷住宅や岩井口付近のほとんどが職員宿舎でした。
大船から笠間十字路を経て警察学校への道路もこの時に造られ、それによって水道が初めて本郷に引き込まれました。この道路は水道みちと呼ばれました。また、この道路に沿って、大船駅から鉄道の引込線が敷かれ小型のSLが貨車をひいて走り、電気も高圧線が引き込まれ、周辺の住宅にも昼間の通電がされました。原宿六浦線もこれと関連して、追浜の海軍航空隊と燃料廠と厚木の航空隊を連結する道路として建設されましたが、笠間大橋は完成しないうちに終戦となりました。これら燃料廠関係の施設の建設は本郷村の開発についての方向付けをしたことになり、今日の本郷の基本図となっています。便利になった事や所がたくさんありますが豊かで美しい本郷村は歴史の彼方へ消え去ってしまったのです。
第一海軍燃料廠と横浜市との合併(栄区役所)より引用 下線はkameno付記
つまり、海軍の戦艦、航空機、ロケット戦闘機「秋水」などに使用する燃料、潤滑油を研究、製造していた施設が現在の本郷台にあり、そこに結ばれる貨物船が引かれていたのです。
第一海軍燃料廠が建設されたのは1938年(昭和13年)。
航空写真を判読すると、現在の大船駅北口出口あたりにプラットホームが見え、ここから笠間十字路?第一海軍燃料廠まで線路が延びています。
笠間大橋はまだ出来ていませんね。
![]()
(1946/03/05米軍により撮影 国土変遷アーカイブより)
※鉄道の線路を赤線でなぞってみました。なお、南側に見える工場は、三菱の工場と思われます。
第一海軍燃料廠内部には
第一?第六研究室、第一?第九実験室、特殊潤滑油製造所、ヘックマン式真空蒸留室、グリース製造所、耐爆熱実験室、第一過酸化水素連接濃縮工場、第二過酸化水素連接濃縮工場、過酸化水素フラスコ濃縮工場、第一航空発動機実験場・実用機械、第二航空発動機実験場・ロケット燃料テスト、特殊燃料実験場、高圧燃料実験、潤滑油試験機関室 ディーゼルエンジン実験場・31型単箱ディーゼル及61型高速試験機関、ボイラー燃焼実験場、石炭液化実験場、低温低圧実験場、揮発油重合実験場、原油蒸留実験場、化学工業研究室や、それに付随する宿舎、病院などの施設があったようです。
ここからトラックにより追浜の海軍工場とを結ぶ軍用道路(現在の環状4号線)を通り、貨物列車により工場引込線から大船を通って物資が追浜や横須賀方面へ物資が運ばれました。
第一海軍燃料廠は、1952年(昭和27年)に駐留軍により接収され「米軍大船PX」となります。
根岸線建設計画において、新大船(本郷台)駅の設置場所については、この米軍大船PXが最適であると検討されます。
PXの全敷地面積は35万平米あり、米軍から払い下げされる目処がついたこと、周辺地区と併せて新しい街の形成が見込まれることにより、PX敷地北側を駅用地として確保できるように交渉が開始されました。
また、大船ー本郷台間は飯島を回り込み半円状に結ばれる路線が選定されました。
根岸線建設の時期と同時期には、東海道線の増線工事も同時進行で行なわれており、そのために根岸線の本郷台?大船間を先に行い、大船で一部根岸線を東海道線増線工事の切替に使用するということがなされたようです。
そのために、根岸線は横浜?港南台、本郷台?大船の部分が先に出来、港南台土地区画整理事業との兼ね合いがあった港南台?本郷台の部分が最後に竣工することとなりました。(昨日のブログ参照)
同一範囲の地図を並べてみました。
![]()
(左)地形図「戸塚」昭和20年部改・昭和22年発行 (右)地形図「戸塚」平成13年改測・平成14年発行
※なお、左側地図には史料をもとに第一海軍燃料廠の施設名称をkamenoが付記しています。

戦時中

昭和40年代前半

昭和50年代
参考文献
栄区の歴史「38 昭和のころ」 - 横浜市栄区役所
いたちかわらばん(通算30号)- 横浜市栄区役所
『根岸線工事記録』(昭和49年3月 日本鉄道建設公団東京支社)
港南区を通る唯一のJR路線、根岸線(年配の方には桜大線といったほうが馴染みがあるかもしれません)。その歴史的経緯をまとめてみました。
今日の記事は、以前のブログ記事 歴史に学ぶ港南台の会勉強会 の補足記事となります。
■根岸線計画の主な経緯
大正11年4月11日 鉄道敷設法別表(昭和12年4月1日一部改正)「神奈川県桜木町より北鎌倉に至る鉄道」
昭和31年2月24日 鉄道建設審議会「昭和31年度から調査を開始すべき新線」として調査線に編入「この線は桜木町から大船附近に至る線で、重要な都市の旅客交通を担当するとともに、横浜港湾臨海工業開発計画上まことに効果大なる線である。本線は複線電化すべき線として着工すべきである。」
昭和32年7月5日桜木町一大船問の運輸大臣の建設認可
昭和32年 調査測量
昭和33年 桜木町一磯子間の路線決定
昭和34年 建設工事に着手
昭和39年3月23日 日本鉄道建設公団発足
昭和39年5月19日 横浜一磯子間営業開始
横浜?磯子間は比較的すんなりと営業開始となりました。問題はここから先の区間です。
根岸線磯子-大船間の路線選定にあたっては
(1)日野廻り
(2)田中廻り
(3)杉田廻り
の3ルートが検討されています(下の地図参照)。
![]()
図:根岸線計画の変遷 (kameno作成、青が現在のルート)
もしも日野廻りのルートが採択されていれば、現在の港南中央から鎌倉街道沿いに国鉄が通り、七曲から大船に抜けるというルートとなっていますから、港南中央、吉原、清水橋あたりに駅が出来たかもしれないですね。港南区の歴史も大きく変わったわったことでしょう。
しかし、結果的に杉田廻りの路線が採択されます。
![]()
図:第一次工事計画変更線路縦断面図(杉田・新大船=本郷台間)『根岸線工事記録』より
(港南台地区に駅は計画されていなかった)
当初設置予定の駅は、新杉田、矢部野(現在の洋光台)、新大船(現在の本郷台)、そして大船に結ばれます。
この時点では港南台の駅計画は無く、しかも現在よりも南に500メートルほどずれた路線計画(地図の湘南日野を通る赤い線)でした。
後に地元の要望により湘南日野駅の設置が検討されます。
この湘南日野は、現在の港南台よりも南に500メートルの位置です。
このように鉄道公団は、当初、根岸線計画の中で港南台駅設置を想定していなかったのですが、結果的に港南台駅が設置されるに至るには、昭和41年3月に出された「根岸線延伸路線の駅設置について」の要望書が契機となっています。
以降の経緯をまとめてみます。
表:矢部野?大船間ルート変更、港南台駅設置に関する協議経過| 鉄道建設公団内部 | 地元関係 | 住宅公団関係 | 国鉄関係 |
41/3/25 根岸線延伸路線の駅設置について。 |
41/3/4 港南台土地区画整理事業区域決定及び事業決定 41/10/11 都計街路1.3.5号1.3.28号1.3.30号の告示 41/11/25 洋光台、港南台駅の設置について 住宅総裁→鉄道公団総裁(要望) 41/12/17 港南台駅の予定なし 鉄道公団総裁→住宅総裁 |
41/6/27 工事実施計画その1回答(大船連絡設備を除く) 41/8/9 大臣認可(その1) |
|
| 42/3/30 線路中心軌道測量完了(旧ルート) 42/8/24 工事実施計画その1変更上申保留となる) 42/10/14 湘南日野駅の設置を含め矢部野-新大船間のルート変更の検討 |
42/7/13 港南台駅設置(要望)住宅総裁→鉄道公団総裁 42/10/16 港南台駅設置の要望と費用一部負担の申入れ 住宅総裁→鉄道公団総裁 |
42/710 工事実施計画その1変更下協議東京支社長→関東支社長 42/8/19 関東支社長了承の回答 42/8/8 大船駅連絡設備について計画、着手の依頼(44/10)国鉄総裁→公団総栽 42/11/27 矢部野-大船間開業調査依頼 東京支社長→関東支社長 |
|
| 43/3/14ルート変更につき1住宅公団と協議6/7 | 43/11/2 横浜市戸塚区、飯島町、小菅ヶ谷町、鍛冶ケ谷町、南区日野町関係地主に中心改測および巾杭建植の立入説明 43/ 11/12 駅名変東陳情(洋光台、港南台)横浜市長→東京支社長 |
43/8/1 費用負由は1/2とする覚書 |
43/2/17 新大船?大船使用開始を45/10に要望 国鉄総裁→公団総裁(照会回答) |
| 44/3/30 線路中心、巾杭建植完了(新ルート) 44/7/30 用地測量完了予定 |
44/6/12 用地測量の立入説明 | 44/1/27 県回答 44/1/30 市回答 44/2/6 事業計画、施行規程大臣申請 44/9/8 同認可 |
44/6/6 矢部野-大船間その1変更下協議 東京支社長→関東支社長 |
根岸線のうち、港南区を通る部分の大半は、日本住宅公団が施工する港南台土地区画整理事業の区域内を通ります。
昭和40年当時公団が根岸線の磯子?大船間のルート決定の時点では港南台地区は大まかな構想しかなく、根岸線のルートは宅地造成の構想に近い線で現地形を勘案して鉄道公団としてのルートを杉田廻りルートに決定しています。
しかし、この当初計画は港南台地区の第百土地株式会社、並びに周辺の民間団地の中央を横断する計画となるため、造成開発や販売に重大な支障を与えるとして測量中止の申し入れがありました。
また、この時点で住宅公団は既に港南台地区の土地区画整理事業に一部着手ししていたこともあり、鉄道公団は住宅公団に対して第百土地および周辺団地を避け500メートル北側にずらしたルート変更の内容を説明し、協力方を要請したところ、この案の受諾とともに港南台駅新設の要望の申し入れが行なわれました。
新駅設置に要する工事費の折半負担と、根岸線のルート変更案に住宅公団が応じるという条件で設計協議が合意に達し、昭和44年6月6日国鉄関東支社長に「矢部野(洋光台)-大船間工事実施計画その1の変更」申請書が提出されます。
| 「矢部野(洋光台)-大船間工事実施計画その1の変更」について
変更理由書 |
これにより、路線のルート変更と、駅構造を切り土ではなくトンネル構造への変更が行なわれることとなりました。
港南台駅は住宅公団が新駅設置に係る相当の部分を負担することにより「新たに」現在の場所に設置されることとなりました。
実に港南区(当時は南区)唯一の国鉄駅であります。
港南台-本郷台間の工事が一番最後となり、 昭和48年4月9日に根岸線は全線開通となりました。
参考文献
『港南台の歴史(港南台駅開業まで)』(港南台バーズ)
『根岸線工事記録』(日本鉄道建設公団東京支社・昭和49年3月)
大船の街を見守る大船観音。
その白衣観音像がどこを向いて鎮座しているのでしょうか。
今日はそれを検証してみましょう。
以前、大船観音の頭上に登らせていただいたことがあります。
その時に目線の先にを辿ると、大船から鎌倉方面に延びる横須賀線の曲線、その向こうに見える山々。
概ね大体鎌倉市街地中心部のほうを向いているということはなんとなく判っていました。
Google earthでどこに向いているかを詳細に検証してみます。
図の赤い線が目線です。
大船観音の目線の先には鎌倉大仏(もしくは長谷観音)があるという噂がありましたが、実際はそれよりもやや東。
鎌倉駅と鎌倉大仏の間を通って由比ガ浜に抜けています。
もしかすると、昭和4年の初期の大船観音建造時には鎌倉大仏に向けて観音像を設計していたのかもしれません。
そうだとしたら概ね鎌倉大仏に向けようと建造したものの、若干の誤差が生じてしまったのでしょう。
では、鎌倉大仏はどこを向いているのでしょうか。
こちらもGoogle earthで調べて見ます。
真南よりやや西側を向いていますね。
だいたい伊豆大島の方向を向いていているようです。
ただし、鎌倉大仏に関しては、室町時代の津波で移動しているようですので、大仏殿に収まっていた当初は真南を向いていたのかも知れません。
ついでといっては何ですが、自由の女神像がどちらを向いているかも調べてみると・・・・・
湾を越えて・・・・・・
南アメリカ大陸の東側を向いていることがわかります。
フランスは自由の女神から見て左の方向ですね。
自由の女神像は、送り主のフランスの方向を向いていると思われがちですが、決してそうではありません。
建造物がどの方向を向いているかということは、非常に重要な意味をもちます。
前に港南図書館で開催された「横浜港の七不思議講演会」で、田中先生は横浜港開港当初の主要な建物は開港したての「横浜港」の方向に向けられていたということを検証されていました。
それぞれに隠された意味を探るということも面白いことですね。
境内のシンボルともいえる2本のイチョウの葉がだんだんと黄色く染まってまいりました。
まもなく見事な黄金色となります。
イチョウの黄葉は、見頃を迎えたかと思ったら一気に散ってしまいます。
タウンニュースでは昨年、記事として取り上げていただき、港南区役所発行の「まち自慢ガイドブック」では表紙を飾りました。
各方面より、今年の見頃の時期の問合せがありますので、過去の記録からイチョウの見頃を予想してみました。
(※1998年はきちんとした記録をとっていません)

上記図中、[50%]は散り始めて全体の半分程度が散った日付、[100%]は殆ど散った日付を示しています。
また、色は大体こんな感じで黄葉が進行したという目安です。
このように、毎年かなりばらつきがあることがわかります。
10月から11月にかけての気温の変化によって色づきの進み方が違いますし、散り始めの時期に風の強い日が有るか無いかによっても異なります。
予想は難しいものです。
それでも敢えて予想するとすれば、今年は比較的気温の低い日が多いので、昨年(20087年)よりやや早い進行ではないでしょうか。
12月1日前後が見頃であると思います。
本日(2009年11月20日)撮影したイチョウはこのような感じです。
![]()
■関連ブログ記事
境内のイチョウ続報
突風一過
境内のイチョウが見ごろに
ハーフ&ハーフ 緑&黄
黄葉チャート
境内のイチョウが見頃に
ハート形のギンナン、厚木で見つかる
いのちの循環システム
ラストスパート
黄葉度95%
境内パノラマ--銀杏、少しづつ黄金色へ
港南の絵本をつくろう会による、「昔の豊かな遊びを子どもたちに伝えるプロジェクト」が進行中です。
かつての豊かな遊びを、一緒に未来に引き継いでいきませんか!
「遊び」は子どもの育ちに欠かせないもの。
港南区では、子ども達はどんなところでどんな遊びをしていたのでしょう。
『港南の絵本をつくろう会』は、昔のさまざまな遊びをヒアリング集にまとめ、将来的には絵本にすることを
目指しています。
まずは、各年代ごとに地域にお住まいの方から遊びの想い出を中心にヒヤリングを行なっているところです。
どの方も、子どものころの思い出を語るときの表情は生きいきとしています。
まるでその時の様子を目の当たりにしているようです。
ヒヤリングの内容は、順次、纏められていきます。
形になった時点でまたお知らせいたします。
たくさんの発見もあったのですが、その中の一つをご紹介します。
それは、戦時中に生産していた「松根油」にまつわる話です。
永谷地区は幸いなことに、大規模な空襲を受けることは無かったのですが、東京、川崎方面より多くの疎開を受け入れていました。
貞昌院にも境内に十数人の家族と、やはり十人前後の兵隊さんが生活をしておりました。
兵隊さんたちは主に何をしていたかというと、山から松の木と根を堀り出してきて、それを下野庭に作られた釜で乾溜し、飛行機の燃料を作っていたということなのです。
これは松根油と呼ばれるもので、村人たちはその松の根の掘り出しと製造の手伝いをしていたそうです。
(松根油と戦時中の永谷)
今日のヒヤリングでも、松根油の話題となり、その中で「松根油を煮出すのに使っていた釜は、貞昌院の天水桶となっていた」ということが新たに判りました。
簡単に纏めると次の通りです。
「戦時中は鉄の供出のため戦前まであった天水桶は撤去されていた」
「戦中、松根油を煮出した釜が戦後不要になったため、貞昌院の本堂に持ってこられ、天水桶として設置した」
「しかし、鉄の質が悪いため、何十年か経つうちに腐食し穴が開いてしまった」
「そこで、新しい天水桶(現在あるブロンズ製のもの)を寄進することにした」
この2行目のことは初めて聞きました。
驚きです。
古いアルバムを取り出して、以前の天水桶が写っている写真を探してみました。
このころは本堂の正面に棕櫚の木があったのですね。
屋根はまだトタン葺きでした。
背景に見える黒いものが天水桶です。
穴が開き始めて水が漏れ出した頃の大きな真っ黒いドラム缶のような天水桶は、子どもの頃の記憶としてしっかり刻み込まれています。
その天水桶が、松根油を煮出した釜だったとは・・・・・
大本山總持寺では、毎月25日に常照殿において無際大師月忌(がっき)法要が営まれます。
無際大師とは、中国禅宗第8祖・石頭希遷禅師のことです。
『参同契』の経典を撰せられたといえば禅宗の系譜の上で重要な禅師であったかが判ると思います。
こちらも併せてご参照くださればと存じます。
無際大師月忌は冒頭に述べたように毎月25日(12月が御正当)となります。
その差定(式次第)は次の通りです。
【常照殿に於いて無際大師月忌 差定】
・前後三拝
・参同契
・回向(上慈恩)
(正当十二月は九拝差定・逮夜有)
總持寺御征忌会第3日
第3日(10月14日)
朝課罷
石頭希遷禅師月忌(於・放光堂)差定
・置茶湯
・前後三拝
・参同契
・回向
・法要罷 石頭希遷禅師真前にて焼香
ここで、何故14日に石頭希遷禅師月忌が営まれているかを考察するために差定の変遷を辿っていくと、どうやら總持寺に石頭希遷禅師のミイラ仏が安置されるようになってから、御両尊御征忌会随喜衆により「御真前」への拝登を、という要望もしくは法要都管寮の配慮があって差定として定着することとなったようです。
当時は、石頭希遷禅師が總持寺に安置されるということは大ニュースとなったのでしょう。
きっと御征忌中の石頭希遷禅師月忌は多くの随喜衆で放光堂(当時の法堂)が溢れかえっていたのではないかと思います。
現在では大祖堂での課罷法要と同時進行で内勤として営まれておりますので、法要には都管寮、両班寮、堂行寮の随喜のみとなっています。
なお、石頭希遷禅師のミイラ仏が日本に来た経緯については、複雑な経緯があり、中国版ウィキペディア(维基百科)には次のように記載されています。
石头希迁 (重定向自石頭希遷)
跳转到: 导航, 搜索
石头希迁(700年-790年),禅宗大师。先於曹溪六祖門下出家為沙彌,惠能去世時,年僅十四歲,後依於六祖門下青原行思而開悟。曾在南岳一块巨石上结庐而居,称"石头和尚",他這一系禪法,也因此被稱為石頭宗。提出"触目是道"的禅宗修行方法,有「石頭路滑」之稱。希迁的再传弟子创禅宗曹洞宗、法眼宗、云门宗。
石头希迁在南嶽衡山南寺坐化。太平洋戰爭期間,日本人把石頭和尚真身搬到日本,至今仍供奉在日本總持寺。初期總持寺把石头希迁的真身開放給遊人參觀,後來已經收藏起來,謝絕參觀。
石头希迁著有《參同契》、《草庵歌》。来自 维基百科,自由的百科全书
下線はkamenoが付記しました。
当該下線部の記述は「在2008年11月27日 (四) 12:31所做的修订版本」とありますから最近書き加えられた記述ですね。
中国としては本音として返して欲しいのでしょう。
しかし、この記述は正しくなく、
「辛亥革命(1911)の時にミイラ仏を祀った寺が革命軍により焼かれたが、石頭希遷大和尚の研究家・山崎彪氏が火の中からミイラ仏を救い出し、三井物産の船で日本に運んだ。」
ということが史実です。
日本人山崎彪氏がいなければ、ミイラ仏は灰燼に帰していたことでしょう。
【追記】
维基百科 石头希迁 項下線部を修正してみました。
石头希迁在南嶽衡山南寺坐化。辛亥革命期間,革命军放火寺院烧了。日本人在火灾中搭救石頭和尚真身,搬到日本,至今仍供奉在日本總持寺。
■関連ブログ記事
大本山總持寺に祀られるミイラ仏
まずは、次の写真をご覧ください。
![]()
昭和6(1930)年当時の上大岡、和田山から弘明寺・最戸耕地方面を望む
(CC by 港南歴史協議会)
戦前の、炭鉱から亜炭を運び出すトロッコとその線路が写っている貴重な写真です。
付近には広大な水田が広がっていました。
稲藁が干されていますから丁度秋の収穫シーズンですね。
影の状況から察するに午後2時くらいに撮影されたものでしょう。
以前の記事 港南区の炭鉱と戦争の影でご紹介した炭鉱坑口の写真から延びる線路が見えます。
赤い線でトロッコの線路をなぞってみました。
線路脇には、トロッコが幾つか見られます。トロッコは青丸で囲いました。
茶色の線は道路です。
写真の右上(緑丸)には湘南電気鉄道(現・京浜急行電鉄)の車両が見えます。一両編成ののんびりした電車ですね。
黄金町 - 浦賀間に湘南電気鉄道として鉄道が開通したのは昭和5(1930)年ですから開通したてですね。
この写真の撮影時期から数ヵ月後、横浜から野毛山のトンネルで敷設された京浜電鉄延長線と日の出町で接続、横浜・浦賀間の相互運転となります。
写真ではよくわかりませんが、このような車両だったのでしょう。
和田山(慰霊堂近辺)からの眺望をカシミールで再現したものを並列配置していました(上段右側)。
赤線で囲った四角の範囲が写真の範囲と一致します。
丘の稜線、道路の形など現在の地形から偲ぶことが出来ますね。
写真が撮影された場所「和田山」は、最戸2丁目、現在の戦没者慰霊堂の丘です。
なお、「和田山」の地名の由来は、近辺の急な坂道を利用して鎌倉幕府の要職にあった和田義盛が関所を設けたことによります。
このことからわかるように、鎌倉古道下之道が通っておりますので、古来から交通の要所でありました。
大正時代から戦中にかけて貴重な燃料資源としての亜炭が採掘されていたという事実を物語る貴重な資料です。
冒頭の写真には右部分をパノラマで写した続きの写真があります。
右側の写真は上大岡駅方向を映しています。
こちらの写真にも左から5番目の架線柱の付近に湘南電気鉄道の車両が見えますね。
一枚の写真から得られることが沢山あることを実感できる写真です。
■関連ブログ記事
港南区には次のような昔話があります。
丘の上の黒船見物(上大岡)むかし、江戸時代の終りのころのお話です。
ある日、突然、浦賀沖に、アメリカの軍艦がやってきました。
日本人が、よその国へ行ったり、外国人が来たりしてはいけなかった時代でした。
港から離れていた村人たちは、のんびりと畑仕事をしていました。
子どもたちも、よく親の手伝いをしていましたが、暇をみつけては、野山をかけまわりうさぎを追いかけたり、木の上に登ったり、次から次へと遊びを考えだしては、仕事の合間に遊んでいました。
きょうも、小高い山の木のてっぺんに登って、はるか遠くをながめていた子どもたちが、竹づつをのぞくと、真黒い、みたこともない船が、丸い輪の中に現れたのでした。
びっくりした子どもたちは、それぞれ、すっとんで家に帰りましたが、家には誰もいません。じいちゃん、ばあちゃん、親たちまでが、庄屋の家の庭先に集まつて、ワイワイガヤガヤさわいでいたのです。
浦賀では、一日中半鐘が鳴っているとか、真黒い大きな船が煙りをはいては、ボー、ボーと大きな音をだしているというのです。
目をつりあげ、口をぎゅつと結んだ武士が、馬にむちをあてては、西へ東へ、血そうを変えながら走らせているとか、街道沿いの人たちは、家の中にかくれて、息をつめてなりゆきを見守っているとか、杉田村へ野菜を売りにいってきたじいさんが、まるで見てきたかのように、まくしたてていました。
金沢の小柴沖まで、黒船が入ってきていると聞くと、戦になるかも知れないと、おびえながらも、黒船を一目見ようと村人たちは、すっかり、お祭り気分になってしまいました。
「さあさあ、仕事さ、かたづけて、見にいくぞ!お前たちも、早よう、手伝えよー」
上大岡の真光寺の高台が、見晴らしも良く絶好の見物場所になったのでした。
一人、二人、また一人と、うわさをききつけた近隣の村人たちで、あれよ、あれよという間に、人だかりができました。
そのうち、おだんごや、お茶を売る者までが現れて、いっそうにぎやかになりました。黒船がいた八日間、この高台は、黒船見物の人々でにぎわったそうです。
(港南歴史協議会のサイトより)
このように、江戸時代末期・嘉永6(1853)年に初めて浦賀に来航し、翌年の嘉永7(1854)年に再度来航した黒船艦隊を、物珍しさからたくさんの人々が黒船見物に押しかけ、茶店まで出ていたようです。
冒頭の物語は、ここ港南区(当時は武蔵国久良岐郡)でも黒船見物で賑わった様子が描かれています。
・・・・しかし、本当に上大岡真光寺の丘から東京湾を眺めることが出来たのでしょうか。
昨日開催された港南歴史協議会定例会の場でその話題となり、現在はマンションや立ち木などで検証しづらいということがありました。
そこで、障害となるマンションがない状態だとどのように見えるのかをシミュレーションしてみます。
明治初期に作成された迅速測図(上の地図)で見ると、汐見台(磯子区)の丘さえクリアーできれば、真光寺の丘からも根岸?小柴?浦賀沖を見渡すことができそうです。
大岡あたりからスタートし真光寺の丘を越え久良岐公園方面へ抜けるルート(下図の赤い線)を辿るとどのように東京湾が見えるのかをカシミールを使って検証してみます。
![]()
上記ルートの中でベストポイントは、ムービー開始30秒の場所、地図上の「A」の場所です(後述)。
目線の高さに合わせ、対地高度2メートルでムービーを作成しました。
※注:判りやすくするために高さ方向の倍率を3倍にしています
やはり真光寺の丘からは東京湾がよく見えたはずだということが判ります。
浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピー」(USS Mississippi 同)、「サラトガ」(USS Saratoga 帆船)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の巡洋艦四隻からなっていた。大砲は計100門あり、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。無論、日本を脅す為に意図的に行ったものであり、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようだ。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 黒船来航項 (下線はkameno付記)
とありますから、東京湾をやりたい放題勝手に航行していたことも伺えます。
対し、村人たちも花火感覚で楽しんでいたというのも大したものです。
冒頭の物語の様子が目に浮かびます。
黒船来航当時、真光寺の丘からは、このように見えたことでしょう。
つい先ほど、このポイントで実際にパノラマ写真を撮ってみました。
残念ながら台風前の雨でしたので、海は見えませんでしたので後日晴天の日に再度撮影してみようと思います。
先の記事で港南区と栄区の境界の変遷について話題が出ました。
早速検証のため地形図から境界線を抽出してみました。
橙=大正10年測図
緑=昭和41年改測
青=昭和51年二改
なお、大正10年の地図には武相国境線も描かれておりますので、そのまま橙の線で描きました。
境界線のパスを平成13年修正地形図の上に落としてみます。
<この記事は追記します>
コーヒーブレイク的なクイズです。
ちょっとしたクイズです。
このシミュレーション画像は、何処からの光景でしょうか。
また、年月日は・・・・?
富士山に沈むダイヤモンド富士、そして、そのすぐ左上に細い細い月。
手前には海が広がります。
これから見られる(はずの)光景です。
昨日の記事の続きです。
一劫が何年かを計算してみましょう。
【計算上の定義】
芥子劫を1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間とします。
【計算上の仮定】
1由旬の城を一辺が7km=7,000,000mmの立方体とします
また、芥子粒を直径0.5mmの球とします
![]()
(芥子の実。Wikipedia「ケシ」項より引用)
さて、一番単純な計算方法は、一つ一つの芥子粒がそれぞれ0.5mmの立方格子に入った状態で、この格子を角砂糖をジャングルジムのように積んでいくことを考えます。
すると、一辺には 14,000,000 個の芥子粒が並びますので、これを3乗して
2,744,000,000,000,000,000,000 個の芥子の実が詰ります。
読み方は 27垓(がい)4400京(けい)個。
100年に1つづつこれを取り去るわけですから、全部取り去るまでには
274,400,000,000,000,000,000,000 年の歳月を要します。
読み方は 2,744垓(がい)年。
ここまで計算したうえで、実際には芥子の実はさらに「きっちりと」詰まっていることが予測されます。
イメージとしては、八百屋の店先に積まれている蜜柑のような積み方です。
このことを考えたのがヨハネス・ケプラーです。
ケプラーは1611年、「物質を構成する粒子は体積を最小とするように自己を組織化するだろう」という構成原理に基づき、「六方最密充填」と「面心立方格子」が最高密度の配置であると予想しました。

これが面心立方格子。こんな具合に詰まれている場合に最も充填率が高くなると予想しました。
このケプラーの予想は、実に約400年後の1998年、トマス・ヘールズによりコンピュータを使って虱潰しに精査するという手法により、ほぼ証明に至りました。
ということで、冒頭の単純に立体格子状に縦横に積んでい方法ですと、その充填率は球の体積の公式より π/6 (= 52.3598・・・%)
六方最密充填、面心立方格子による充填率は、√2π/6 (= 74.08・・・%)
となりますので、芥子粒の数は √2π/6 ÷ π/6 = √2 倍増えます。
つまり、時間もそれに比例して増えますので、
一劫は274,400,000,000,000,000,000,000 × √2 = 388,000,000,000,000,000,000,000 年くらいだろうという計算結果となりました。
※ここまで適当に計算していますので、間違いあればご指摘ください
それにしても、このケプラー予想問題は、問題自体は単純でありますが、球を積むときにはどのように積むことが一番充填率が高いのか、未だ完全に証明されていないということが面白いですね。
もしかすると、面心立方格子よりももっと充填率の高いつめ方があるかもしれないのです。
これは人類の永遠の課題なのかも知れません。
駐車場の一角にちょっとした土の山ができています。
山というと大げさでしょうか。高さ数センチ、幅1メートルくらいのものです。
この下はアスファルトなのですが、すっかり埋まってしまっています。
暫く観察していると、次々とアリたちが土の粒を運んでいます。
このようなことを何十日も繰り返し続けて山を築きあげたのでしょう。
彼等には、「おっくう」という概念は無いのでしょうね。
ただ、只管に土粒を運んでいます。
先月は、夏休み土曜塾で、地獄の一番深いところにある「阿鼻地獄」での刑期が「1中劫」であるとされていることを学びました。
この「劫」という時間の単位は、仏教的数学観におけるきわめて長い時間の単位です。
具体的には1辺1由旬(だいたい7km程度だと考えられる)の大岩があり、そこに100年に一度、天女が降りてきて衣の袖でその表面をなでる。そんなことを繰り返してついにその岩がすりきれ無くなるまでの時間を一劫といいます。
これは、『雑阿含経』に記述される「磐石劫」の概念とされています。
劫には、もう一つの概念があります。
「芥子劫」と呼ばれるものです。
それは・・・1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間・・・・・とされています。
ちょうどアリたちが運んでいる土粒が、芥子粒くらいの大きさですので、そんなことが頭に浮んできました。
アリが一回に運ぶ量はごく僅かです。
しかし、それを只管繰り返すことにより、眼に見える成果となり、時には 蟻の巣は雨の日どうなるの? の記事でご紹介したオーストラリアのアリたちのように巨大な建造物を造りあげることもあります。
「おっくう」という言葉は、漢字で書くと「億劫」となりますね。
1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間のさらに一億倍という、とてつもない時間の概念です。
もしも、最終目的の巨大構造物と、一回の土粒の運搬量を比較して考えてしまうと、それこそ「おっくう」になってしまい、はじめの一歩を歩みだすことすらできなくなるかも知れません。
けれども、アリたちはそんなことは全く考えず、ただただ土粒を運びます。
そして気がつくと、大きな蟻塚が出来上がっている。
ただそれだけのことなのですね。
何事も「おっくう」がらずに、まずは一歩足を進めてみなさい、そんなことを教えてくれているようです。
そこから何かがきっと生まれてきます。
地図を過去に遡っていくと、街がどのように形成されていったかが明確に判ります。
例えば横浜中華街がなぜ周囲の街区と異なった方向を向いているのかということも見えてきます。
よく言われることは、中華街は当時の中国人が風水思想に基づいて、わざわざ東西南北の街区として区画を整備したというものですが、街の形成を時系列に辿ると、これが間違いだということが判ります。
その謎解きをされたのが横浜開港資料館・伊藤泉美さんです。
伊藤さんは、中華街が他と違った街区を形成している理由として次の3つをを提示しました。
■理由1:土地の高低差
現在の中華街エリアは「横浜新田」と呼ばれた一帯でした。
横浜新田とその周囲の土地との高低差が一つ目の理由。
■理由2:立ち退きを迫られた村民の思い
横浜新田が「外国人居留地」に指定されたため、この地区に住んでいた村人たちは土地を幕府から立退きを余儀なくされました。立退一時金給付査定のために従来の田畑の区画形状が残された。
■理由3:偶然東西南北に区画割された土地を華人が好んだ
関内地区は海岸線にあわせた街路のため、東西南北に沿っていない。
しかし、現在の中華街エリアだけは上記理由で東西南北の街区ができている。
風水を重んじる中国人は、あえてこの場所を居留地として選んだことが考えられる。
横浜開港150年企画(横浜中華街公式サイトへ)
横浜開港資料館
横浜中華街 おいしさネットワーク
これを踏まえてさらに、様々な古地図を検証していくと、横浜新田が川と堀に囲まれていた地形であり、堀と川と新田の田んぼ道がそのまま、現在の中華街の街区となっていることがより明確に判ります。
![]()
横濱村外六ケ村之図 安政6(1859)
図中の赤字はkameno記載
この横濱村外六ケ村之図と、1/20,000地形図 横浜(明治39年測図41年製版)を重ねて作成してみました。
(こちらの図は上が北となります)
![]()
中華街のみならず、江戸時代の地形が、現在の街区に大きな影響を残していることがわかります。
開港以前にあった「象ケ鼻」は、その場所が埋立てられ第一代横浜駅(現在の桜木町駅周辺)となりました。
港南図書館を会場とした歴史講座が開催されました。
(前回は私が勤めさせていただきました)
今回第2回目開催も横浜開港150周年記念として「横浜港の七不思議」をテーマに、田中祥夫さんによる講演が行なわれました。
主催は港南歴史協議会です。
今回も応募に対して抽選となるほどの反響があり、会場は満員となりました。
講演内容は、自身の著書『横浜港の七不思議』をもとに横浜港にまつわる謎解きをしていく講演でした。
その謎とは・・・・・
(1)「象の鼻」の不思議
大桟橋の根元にある「象の鼻」。
この波除堤は、安政6(1859)年に造られた2つの突堤(東波止場・西波止場)を、慶応の大火災後に延長し、従来まっすぐだった突堤を、象の鼻のような形に変えたものです。
しかし、何故そのような形で曲げられたのでしょうか。
(2)横浜築港の不思議
横浜港は日本の重要な貿易港でありながら、開港から約35年間も外国船が横付けできず、沖合いに停泊し艀から荷物や人を積み下ろす状態が続いた。
なぜ築港がこれほどまでに遅れたのでしょうか。
(3)大桟穂の不思議
開港から25年経過し、ようやく明治27年に鉄桟橋(現在の大桟橋の前身)が出来上がる。
この工事費がどこから来たかというと、長州藩か攘夷に走った下関事件で日本が列強国に払わされた賠償金を、アメリカ政府が返還したものが大桟橋建設の原資となったのです。
一度支払われた国家賠償金が、なぜ何年も後に、しかも賠償額そのままきっちり返還されたのか。
(4)「メノリケン波止場」の不思議
「象の鼻」は、かつてイギリス波止場の通称があった。
その先端に築造された鉄桟橋(大桟橋の前身)が、なぜメリケン波止場と呼ばれるに至ったのか。
(5)石造ドックの不思議
旧横浜船渠会社(通称横浜ドック)のドック築造には、外国人技師ではなく、佐世保軍港の日本人技師・恒川氏がその設計に携わった。
なぜ、日本人を、そして恒川氏が選ばれたのか。
(6)新港埠頭の不思議
大正3年に出来た新港埠頭により、横浜港の機能は格段に向上した。
この築造工事は大蔵省により行なわれた。
通常、港の土木事業は内務省土木局が行なっていたが、なぜ内務省でなく大蔵省で行なわれたのか。
(7)「横浜市歌」の不思議
横浜市民に親しまれている「横浜市歌」は、開港50周年の年に森鴎外により作詞された。
森鴎外は、市歌としては浜松市と横浜市のみ作詞している。
なぜ、森鴎外が横浜市歌を作詞することになったのか。
横浜港にはたくさんの謎が隠されています。
田中氏は、 梅原猛氏の『隠された十字架―法隆寺論』 (新潮文庫)にある「法隆寺の七不思議」になぞらえて、「横浜港の七不思議」として、謎をとりあげ、その謎解きを展開していきました。
謎解きの種明かしはここでは行ないません。
興味ある方は是非氏の著書をご購読ください。
また、今回の講演の内容は、神奈川県内全域のケーブルテレビで放送されます。
9月1日(火)夕方6時からの「「デイリーニュース」にて1分ほどの紹介、さらに、10月26日?11月1日までの「TVフォーラム」(ケーブル局により放送時間は異なります)にて、講演内容を1時間に編集して放映される予定です。

『横浜港の七不思議』
田中祥夫:著
新書判/248頁
1,050円(税込)
ISBN:9784896602005
◆著者略歴◆
田中祥夫 (たなか よしお)
1931年東京生まれ。早稲田大学第一理工学部建築学科卒。 横浜市役所に勤務し、街づくりや住宅計画に携わる。 1991年「明治前期における建築法制に関する研究」で日本都市計画学会賞(論文)受賞。
東海大学大学院、関東学院大学で非常勤講師をつとめ、 現在、国土交通省中央建設工事紛争審査会委員。 工学博士。 著書に、『ヨコハマ公園物語』(中公新書)、『神奈川県建築史図説』(共著/神奈川県建築士会)など。
皆さまは、四十九日の法事・法要に参列するときには「御仏前」、「御霊前」どちらの熨斗袋をお持ちしますか?
ここで、興味深いことが判りました。
市販されている「冠婚葬祭マナー集」や、ネットで公開されている「マナー集」では、「御仏前」、「御霊前」 両説入り混じっています。
■「御仏前」説の例
通夜から三十五日の法要までなら、不祝儀袋に「御霊前」と表書きするか、そう書かれた不祝儀袋を使います。
(冠婚葬祭ホットライン より引用)
■「御霊前」説の例
49日の忌明け後の法要までは「御霊前」、それ以後は「御仏前」もしくは「御佛前」を用いる。
(生活知恵袋 より引用)
四十九日法要での熨斗袋の表書きは「御霊前」「御仏前」両説入り乱れていますね。
どの冠婚葬祭マナー集を見ても、大抵はこのような2通りの回答のどちらかが書かれています。
だいたい割合としては、やや「御仏前」優勢といった感じでしょうか。
それでも「御霊前」とするマナー集もかなりの割合を占めています。
ここで、死を迎えてから行われる法要について整理して考えてみます。
世間一般常識とされているものは、七七日(四十九日)に御霊前と御仏前の境界線が引かれています。
四十九日法要での熨斗袋の表書きが「御霊前」「御仏前」なのかは、どの時点で「仏」になるかということの考え方によるものです。
■死を迎える
■枕経
■通夜
■葬儀
・引導■初七日
■ニ七日
■三七日
■四七日
■五七日
■六七日
■七七日(四十九日)
・位牌開眼
■納骨(納骨時期は施主により異なる)
■初盆
■百か日
■一周忌
以前のブログ記事 年回法要にまつわるお話 も併せてご参照ください。
宗派による違いも見られます。
例えば、浄土真宗などでは、死を迎えると直ちに成仏するという考えですから、■死を迎える の時点から「御仏前」がマナーですね。
では、曹洞宗はというとどのように考えたらよいでしょうか。
私見を書かせていただくと、
(1)葬儀の「引導」により成仏がなされ
(2)四十九日法要で、(既に仏となっていることを前提として)正式な位牌開眼を行う
ということですから、引導を渡した瞬間、あるいはその後直ぐに仏となり、四十九日には既に仏となっていると考えてよいのではないでしょうか。
世間一般常識よりは前の時点ということになります。
すると考えると、枕経、通夜、葬儀開式前にお持ちするのなら「御霊前」、引導が渡された瞬間からは「御仏前」でも良いということになるでしょう。
実際には、初七日から参列される方は殆ど居ないと思われますし、次に参列される機会といえば、四十九日法要であるでしょうから、「御仏前」として良いという考えです。
なお、この「御霊前」「御仏前」という考えは、宗派のみならず、地方により大分考えが異なることもわかりました。
時間があれば、その差異について纏めてみたいと思います。
「御霊前」「御仏前」の違いは、場合によっては失礼にあたる可能性がありますから、
もし、「御霊前」「御仏前」どちらをお持ちするのが不明である場合は、「御香典」としてお持ちするという方法もあります。
これなら、どちらとしても通用します。
港南区には、かつて炭鉱がありました。
まずは現在の上大岡周辺を当時の地図で確認してみましょう。
明治時代の地図には炭鉱標記が見られませんので、明治末期から大正期に出来た炭鉱であることがわかります。
(上大岡駅周辺はまだまだ田んぼと畑が広がっていたのです)
また、米軍の地図にも記載されていることから戦後暫く採掘されていたようです。

(地形図・戸塚・大正10(1921)年測量,大正14年発行)

(米軍Army Map Service: Japan City Plans TypeF 1946 / Lignite mineの標記があります)
炭鉱といっても良質の石炭が生産されたわけではなく、亜炭と呼ばれる木質系の燃料です。
亜炭(あたん、英: lignite)とは石炭の中でも、最も石炭化度が低いものをいう。地質学上の用語としては褐炭が正しいが、日本においては行政上の必要からこの語が用いられる。
品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、仙台市・名古屋市、または長野市など大規模?中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
港南区内には最戸、日野、野庭町など炭鉱がありました。
神奈川新聞(平成8年6月4日版)にはそれぞれの炭鉱について次のような体験談が掲載されています。
最戸の炭鉱⇒「千手院のがけで大正のころ掘っていた。炭鉱員が仕事を終え帰った後、ひそかに坑内のトロッコで遊んだ」「戦中もよそから来た親子二人が別のがけ(県戦没者慰霊堂前)で数年間掘った」「低温で石炭のように炎が出ない。燃えかすが多くて、臭かったな」
野庭の炭鉱⇒「明治のころ、上野庭(現野庭町の南側)で掘った。日野の吉原(現日野二丁目)でも大正期のころ掘った。知る人は地元でももうわずかだ」「祖父から、穴は奥で2つか3つに分かれていると聞いた。コウモリがいた。私は怖くて奥まで入れなかった」
港南区の亜炭炭鉱についての特徴をまとめると次のとおりです。
(1)港南区最戸、日野、野庭町、戸塚区下倉田町に広がっている
(2)亜炭の採掘は大正7、8年ごろ及び戦時中が最盛期
(3)つるはしを使っての手掘り。
(4)亜炭層は30-35センチの厚さ。空気穴(立て坑)を二本掘り、横穴を約1000メートル掘った。
(5)亜炭層は緩傾斜にあり坑道は横穴だった
(6)亜炭を運び出すため農道拡張、トンネル掘りも行われた
(7)明治末から大正期に採掘されたが、一部は戦時中に燃料不足のため再び掘られた。
このうち、戦時中の横浜鉱山(最戸町)についてさらに詳細を紐解いてみます。
大正期にも採掘が行われていたが、さらに拡大生産するため昭和15年試掘開始、昭和17年より操業
鉱山主は東燃料工業株式会社
神奈川県では最初の大規模な亜炭鉱山
坑道の入口は大久保新地。
左坑道100間、右坑道 30間の2つの水平坑道があった
鉱夫10名が日産10トンの亜炭を産出
当時使われていたトロッコは木枠の箱で車輪は鉄だったようです。
写真は昭和17年に撮影された横浜鉱山坑道の入口(最戸町大久保新地)です。
昭和17年当時の新聞には「横濱の眞中に鉱山?亜炭が続々・注文殺到」との見出しが付けられています。
(昭和17年に東燃料工業が)掘出すと同時に石炭の殆ど手に入らぬ現在、各方面から注文が殺到する。
県では亜炭が産出するといふのは初めてのため、マル公(注1)はもとより9・18停止価格令(注2)にも載っていないため、亜炭の二大産地に問合わせ慌てていまマル公算出中だといふ。
ここから産出する亜炭は木質で4200カロリー、平均で3700カロリーで、石炭の6000カロリー以上と比べて遥かに及ばぬが、常磐炭の四級品程度、普通工場のボイラー程度なら十分使用できるし、山形、岐阜等から高い輸送費をかけて移入するのと違ってリヤカーで20分もすれば市の中心地に運べるのだから採算は十分とれるとあり、鉱夫10名とは一寸飯事のような鉱山ながらなかなか活気づいているのは正に燃料国策時代、現場監督談。(注1 マル公:日中戦争下の価格等統制令および第二次大戦後の物価統制令による公定価格)
(注2 価格等統制令=昭和14年勅令第703号)
(昭和17年6月の新聞記事より引用、脚注kameno付記)
日本には資源はまだまだ豊富にあるのだという大本営発表的な意図も含まれている可能性はありますが、資源入手が困難な時期にあっての亜炭産出はよほど貴重なことであったことがうかがい知れます。
亜炭の生産を見ていくと、その背景には戦争の影、戦局が常につきまといます。
これだけ亜炭が産出された背景には、工業化の進展による燃料の確保、そして戦中に有っては燃料の輸送事情が悪化したことによるものです。
日本が大東亜戦争に突入せざるをえなくなった主因は、米軍などにより石油など工業生産に不可欠な石油輸送を封鎖されてしまったことにあると言えましょう。
例えば、1920年代から1930年代において立案された米国海軍による オレンジ計画(War Plan Orange) では、米国が制海権を握り、日本の海路を抑える作戦が取られています。
大東亜戦争開戦に至るまでににおいては、日本の石油供給を止めるために米国は
1939(昭和14)年 米国航空用ガソリン製造設備、製造権の対日輸出禁止など徹底的な資源封鎖を講じました。
1940(昭和15)年 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
1941(昭和16)年 日本の対米資産を凍結、石油が禁輸となる
さて、もう1つの石油に代わる資源の入手手段として有力視されたのが人造石油です。
昭和12年「人造石油製造事業法」「帝国燃料興業法公布」が制定され、石炭から人造石油を製造する方法が研究され、一部実用化されました。
しかし、その生産量は僅か70万キロリットル程度に留まり、充分な燃料を供給するには程遠い状況でした。
大戦における戦術として、連合軍は徹底的に南方から輸送される日本軍のタンカーを攻撃していきましたので、この石油資源の枯渇が戦争の敗因の大きな要因となったといっても過言ではないでしょう。
戦時中は稀少な石炭石油資源は主に戦争のために使われることとなったため、資源が不足し、工業生産の補助資源として、家庭用として亜炭が着目されたのです。
戦局がさらに悪化すると、亜炭のみならず松根油の生産まで行うようになりました。
港南区にあった亜炭炭鉱という局所的な史実から、大東亜戦争・太平洋戦争のマクロ的局面の一端も伺い知ることができました。
すなわち、エネルギー供給の動向が戦争を行う主要な契機となりうり、また戦局を決定付ける大きな要因となったということは、現代社会においても、いや現代社会だからこそ深刻に受け止めなければならない教訓であるといえます。
現状、日本はどれほどのエネルギーを自給しているのでしょうか。
日本の経済を支えているエネルギーは、どのように賄われているのでしょうか。
他の国々、特に隣接国は?
エネルギー政策は一国の運命、ひいては地球全体の運命も左右するということを心しておく必要がありそうです。
平和な世の中を支えている土台は意外に脆いものなのかも知れません。
先の記事の続きです。
施食会(施餓鬼会)における餓鬼について考えて見ます。
曹洞宗で施餓鬼会が施食会と改められた理由には様々あろうかと思いますが、例えば
・亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんは餓鬼と成ってしまっているの?などという檀家さんからの疑問
・私たちも死後に餓鬼になるかもしれない?
・餓鬼に施すという「上から目線」は如何なものか
・そもそも餓鬼道とか畜生道とか地獄とかいう六道輪廻思想なんてナンセンス
・餓鬼という発想自体が人権問題にかかわるのでは?
このような感じでしょうか。
その根底には「餓鬼」ということばを避けて通りましょうという考えが見受けられる気がします。
そもそも、餓鬼って何でしょうか。
餓鬼[preta]
サンスクリット原語は元来(死せる者)(逝きし者)を意味し、ヒンドゥー教では死後一年経って祖霊の仲間入りする儀礼が行われるまでの死者霊をさす。その間、毎月供物を捧げて儀礼が行われるが、もしこうした儀礼が為されない場合は、pretaは祖霊になれず、一種の亡霊となる。
仏教でも死者霊としての用法はあって、閻魔の住所たる地獄へ行ったり人に憑いたり、生者からの供養をうけて望ましい世界に生まれ変わることを願ったりする。
また中国から日本では、新仏の供養と同時に有縁無縁の三界万霊への供養が合して、施餓鬼会の伝統が発展し、今日に至っている。<後略>
岩波『仏教辞典』中村元他編、岩波書店より引用
現在の施餓鬼法要は、様々な経典、思想が混在して形成されています。
・中国南北朝時代に行われていた水陸会
・仏説盂蘭盆経
・仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経
・地水火風空の五輪思想
・御霊信仰
↓
・日本古来の魂祭り(たままつり)
などなど。
民間祖霊信仰に仏教的思想が有機的に交錯し、施餓鬼会の要素を形成している訳でありますので、そのどれか1つが欠けたとしても施餓鬼とはなりえないといえます。
例えば施食会(施餓鬼会)法要の差定から大悲・甘露門を省略してしまったら、只の先祖供養、新亡供養となってしまいます。
さて、ここで前回のブログ記事より、施食会(施餓鬼会)法要の後半の部分を改めて見てみます。
| 餓鬼 に向けられた法要 (甘露門) |
| ↓ [普回向) 願以此功徳 普及於一切 (願わくは この功徳をもって あまねく一切に及ぼし) |
| ↓ 我等與衆生 皆共成仏道 (我らと衆生と みな共に仏道を成ぜんことを) |
| ↓ |
当山亡僧法界亡僧伽等 |
さて、この[普回向]の中の
「この功徳をもって」というのは、餓鬼供養も含めた施しのこころによる功徳を以って
「我らと衆生と みな共に」というのは、生きている私たちも、亡くなられたご先祖さんも含めて、みな遍く平等に
ということになるでしょう。
だからこそ、甘露門と