カテゴリー:旅行記

Panorama photos ;Saipan-Tinian 2011

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Southern end of Saipan Island

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(L)Sta Lourdes Shrine
(C)Suicide cliff, Mappi
(R)Hara-kiri gulch

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View from Suicide cliff, Mappi

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Bird island

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Mt.Tapotchau

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“Banzai attack” point

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Suicide cliff, Tinian
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Coral Tree Ave, Garapan


■関連ブログ記事
La panorama photographie en France

投稿者: kameno 日時: 7:27 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

サイパンにある2つの寺院

現在、サイパンには2つの仏教系寺院があります。

そのうちの1つは日本の超宗派による寺院 サイパン国際礼拝堂 南溟堂です。
移動研修の一つとして、南溟堂への拝登が行程の中に組み込まれています。

南溟堂は、静岡県出身の国際布教師・秋田新隆老師が21年前に発願、建立のための資金の殆どを負担され、さらに戦没関係者、岐阜県仏教会、信徒会の協力を得て5年の年月を費やし、平成2年10月にガラパンの砂糖王公園(シュガーキングパーク)に一角に開創された超宗派の寺院です。曹洞宗の僧侶、秋田新隆老師ご夫妻により護られておりましたが、このたび平成23年11月19日を以って退任され、日本に帰国されることとなりました。

 

東京宗務所の役職員、研修旅行参加者により拝登およびサイパン島戦死病没者諸精霊、中部太平洋地区戦没者諸精霊、戦役殉難諸精霊への慰霊法要を営み、その後秋田老師よりお話をいただきました。

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秋田老師よりいただいた提言の中には
・無住の状態になってしまうので、サイパンに住して南溟堂を護持する後継者を求めている。
・ガラパン地区には梅花大会や講習会を開催できる公共のホールが幾つかある。ホテルも充実しているので是非サイパンを使って欲しい。
・サイパンは、日本から一番近い英語圏の島である。日本人学校は週一回だけ使っていてそれ以外は空いているので、中高生が短期留学や修学旅行に利用するには最適。もっと若い日本人にたくさん来て欲しい。
等々、具体的で切実な願いもいただきました。

近年は日本人観光客の減少で、サイパンへの航空便も減少傾向にあり、成田からはデルタ航空の757機による運行しかありません。
その反面、中国や韓国からの観光客の増加が目立ちます。
かつて数万人もの日本人が暮らしていたサイパン、そして最大の激戦地となった場所という、日本人にとってはかけがえのない大切な場所です。
私も秋田老師と同様、多くの日本人、特に教育者や学生、僧侶、寺院関係者が訪問すべき場所であると感じます。

マリアナ諸島の主要4島のうち、「グアム」と「サイパン、テニアン、ロタ」は同じようで全く性格が異なっています。
グアムは自治権のあるアメリカ準州ですが、「サイパン、テニアン、ロタ」は米国主権下における北マリアナ自治政府による内政を行い、外交・防衛等を米国に委ねるという形式をとっています。
従って、入国に関しても「サイパン、テニアン、ロタ」に関しては中国、韓国からもビザ無しで入国が可能でした。

しかし、2009年11月28日より北マリアナ諸島連邦に米国移民法が適用され、2年間の猶予期間を以って、今年11月28日よりアジア系の移民の状況ががらりと変わる(つまり中国、韓国、フィリピン系の方々が帰国せざるを得ない)ことが予想されます。
また、アメリカと同様の入国管理が適用されるようになると、日本を除く多くのアジアの国がサイパン渡航に際しビザが必要になります。
そうなると、サイパンやテニアンの観光産業への衰退は免れません。

「恩を返すとき」 北マリアナ・ロタ島で被災者受け入れへ のように、マリアナ諸島の住民は日本人の先人から多くのことを学び、多大なる恩恵と教訓を受けたと感じ、日本に対してとても友好的な感情を持っています。
だからこそ、かつての日本の戦跡は現地の住民たちによって維持されています。
移民法が改正された今、まさに日本の旅行者増加を行う意味のある時期であるといえます。

 


 

サイパンにあるもう1つの寺院は、韓国曹渓宗系の吉祥寺です。
バンザイクリフに程近いマッピ山の麓にあります。
昨年訪れた際には住職さん不在でしたが、今回は住職さんがいらっしゃいましたので拝登させていただきました。

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昨年よりも施設が充実していました。
近くにはバンザイクリフで命を落とした韓国人慰霊碑もあり、多くの韓国人の方が参拝され、また坐禅会も行われています。


■関連ブログ記事
サイパン国際礼拝堂 南溟堂
投稿者: kameno 日時: 12:11 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

本当のラストコマンドポスト

サイパンの最北端、バンザイクリフの直ぐ近くに ラストコマンドポスト があります。
マッピ山の岩肌を刳り貫いて造られた日本軍最後の司令部の跡とされている史跡です。
しかし、そこは本当のラストコマンドポストではありません。

サイパン北西海岸のタナパグ(現在のサンローク)から内陸に1キロほどほど入った峡谷が日本軍最後の司令部の置かれた本当のラストコマンドポスト、通称「地獄谷」であり、南雲忠一中将自害の地でもあります。
自由行程の日に行ってみました。

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ここが通称「地獄谷」の入口です。
奥に見える山の斜面の洞穴群が本当のラストコマンドポストです。
地獄谷に入るためには、民家の畑と鶏舎、豚舎があるこの場所を通らなければなりません。
バンザイ突撃が行われた1944年7月6-7日には、戦場は「死の谷」と呼ばれるほど死体が累累と積み重なっていた場所です。

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牛が道を塞いでいました。

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鬱蒼としたジャングルを分け入って進むこと20分ほど・・・・
途中から急斜面を登ったところでようやく洞穴群にたどり着きます。
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洞穴は悉くアメリカ軍の火炎放射器による攻撃のため、内部が焦げ付いています。
雨季ということもあり、むっとする湿気と暑さ、そして独特の場の雰囲気があります。
大本営本部との通信も困難となり、兵器、弾薬そして食料も消費しきってしまった中で、指揮官をも失った3000名もの日本軍兵士たちは太平洋最後の防波堤として故郷を守る思を抱きながら、無念の最期をここで迎えることとなりました。

一つひとつの洞穴に日本酒を注ぎ、読経させていただきました。

 


1944(昭和19)年6月16日、アメリカ軍第27歩兵師団はサイパンに上陸後、直ちにアスリート飛行場に向け進撃しました。
アメリカ軍は火炎放射器で一気に畑を焼き払っては進むという作戦によりその日の夜には飛行場に到達します。
飛行場を死守したい日本軍は戦車第9連隊を中心に約8000名が総攻撃を行ないましたがアメリカ軍の圧倒的戦力の前に全滅してしまい、翌18日にはアスリート飛行場がアメリカ軍の手に渡ってしまいました。
6月27日、日本軍第317大隊はアスリート飛行場奪回の為に600人規模の夜襲をかけましたが、アメリカ軍に包囲され全滅。
タポチョ山を拠点に置いていた日本軍はサイパン北部へ後退を余儀なくされ、6月29日から地獄谷の洞穴内に拠点をおきます。
最大の街、ガラパンでは6月28日から5日間に亘り激しい市街戦が行われ、約2万人もの民間人、日本軍部隊は日本軍は島の北端マッピ崎に追い詰められます。1万人を越える日本人が、最北端のマッピ岬の断崖から80メートル下の海に次々と身を投じました

 

サイパン島の皇軍将兵に告ぐ。米軍進攻を企画してよりここに二旬余、全在島の将兵及び軍属はよく協力一致、善戰敢闘、随所に皇軍の面目を発揮し負荷の重任を完遂せんことを期せり。 然るに天の時を得て、地の利を占むる能はず、人の和を以て今日に及びたるも、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲類悉く破壊し、戦友相次いで倒る。無念七生報復を誓ふ暴虐なる進攻依然たり。サイパンの一角を占領するといえども熾烈なる砲撃下に散華するにすぎず、今や止まるも死、進むも死、生死須らくその時を得て帝国男子の真骨頂あり。今や米軍に一撃を加へ太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く、生きて虜囚の辱めを受けず勇躍全力を尽くして従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。茲に将兵とともに聖壽の無窮皇国の彌栄を祈念すべく敵を索めて発進す。続け。(『中部太平洋方面艦隊司令長官訓示』)

 

7月6日、南雲中将は陸軍最高指揮官・斎藤義次中将と連盟で「中部太平洋方面艦隊司令長官訓示」を出し、地獄谷の洞穴で自害します。
南雲中将らが自害した夜、残った日本軍兵士約3000名(歩兵第118連隊・歩兵第135連隊・歩兵第136連隊・43師団司令部・43師団野戦病院・独立山砲第3連隊・船舶工兵16連隊・海軍各種部隊などとされる)は、将校、士官無しの「バンザイ突撃」を開始。

この戦闘でアメリカ軍に死傷者658名の損害を与えたものの、日本軍はほぼ全滅。
7月9日にアメリカ軍はサイパン島の占領を宣言しました。


 

地獄谷の洞穴から戻ると、地元の方がそこに生えていた椰子の実を採ってご馳走してくれました。
椰子ジュースがこんなに美味しいとは。
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この付近にはまだ様々な遺物が転がっています。
地獄谷の入口にある民家には地獄谷から集めた砲弾が無造作に置かれています。

この地も、不発弾が多いそうなので充分な留意が必要でしょう。

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そして、この地獄谷も民有地を通った先にあり、地元の方々の温かい協力をいただいています。
サイパンにはこのような場所が残されているということ、そしてサイパン攻防の歴史を私たちは知っておく必要があります。


■関連ブログ記事
タポチョ山とアスリート飛行場

投稿者: kameno 日時: 3:27 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

日本軍無線基地

サイパン一番の繁華街、ガラパンの北東、現在のキャピトルヒルの山の尾根に「日本軍無線基地跡」がひっそりと残されています。
この場所は、メインストリートから外れた場所にあり、道路は未舗装で陥没が酷いため、車ではなかなか行けない場所です。

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道路わきにバイクを止め、このような小径を抜けると日本軍無線基地跡が見えてきます。

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建物は二階建てで、何棟かが渡り廊下で繋がっている構造になっていますが、長年の経過によって建物の裏側は完全に薮で覆われてしまっています。

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内部は二階の床が抜け落ちてしまっていて、ガランドウの状態となってしまっています。

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アメリカ軍は、1944年6月に行うサイパン侵攻のために、軍事機密情報の収集に全力を注ぎました。
その結果、各島周辺の潮流、天候、地質、軍事施設、海岸の特徴、水、燃料の状況などを詳細にまとめあげていました。
特にアスリート飛行場周辺、ガラパン市街、タナパグ港、チャランカノア地域の建物一棟一棟に至るまで詳細な地図が作成されています。

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↑右図の赤で着色した「無線基地」が、冒頭の日本軍無線基地です。

ガラパン地区は「南洋の東京」と称されるほど近代的で発展した街でした。
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↑1930年代のガラパン地区の街並み。

けれども、1944年6月のアメリカ軍上陸によって、ガラパン地区はもとより、全ての街が悉く破壊されてしまいました。

そのため、かつての建物が残されているということは実に貴重なことであるといえます。
アメリカ軍の爆撃を受けた形跡が無く、かつての日本人による建築物でこのような良好な保存状態の建物は、日本軍無線基地跡以外、他に見当たりません。
サイパン随一といえる隠れた史跡です。

投稿者: kameno 日時: 7:39 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

サイパンの八幡神社

今回の行程ではフリーの時間が一日半取ってあることで、前回の旅行では回れなかったところ、そして通常の観光ルートでは回ることができない場所へ訪れることにしました。

1920-30年代の日本統治時代には、サイパン、テニアンには広大なサトウキビ畑が広がっていました。
それぞれの集落には神社が祀られておりましたが、現在残されているものは少なく、遺されているものでもジャングルの中に放置されるなど保存状態が良好でないものが殆どです。

サイパン島東部のカグマン半島チャチャ地区には、島内で2番目に大規模なサトウキビ畑がありました。

この集落にあった「八幡神社」は2003年にアメリカ国立史跡登録されたこともあり、保存状態が一番良いものです。

八幡神社には、玉依比売神・息長帯姫が祀られ、建立年は1924(大正13)年とされています。
当時の集落のあったであろう場所はジャングルで覆われてしまっているので、現在は神社の裏山の民家から入っていくしかありません。
保存状態が良いといっても、このような感じの状態です。

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それでも、現地の方々によって草刈がされ、維持管理していただいていることに感謝です。

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境内には、かつての生活用品や砲弾などの武器が集められていました。

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八幡神社へは、民家の庭先を通っていく必要があります。
番犬をなだめ、鶏たちを眺めながらの道のりです。

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それでも、私たちを快く迎え、案内していただきました。
帰りには、庭先にタワワに成っているグアバをご馳走になりました。
甘酸っぱくて美味しいものです。

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海外神社のデータベースは、海外神社のデータベースのブログ記事でも書きましたが、神奈川大学21世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」の中の「海外神社跡地調査」組の成果として纏められています。

今後私たちに出来ることは、住民の方々の厚意に甘んじるばかりでなく、これら日本人の築きあげてきた生活の形跡を後世にきちんと伝え保存していく方策を私たちの手で早急に講じていくことだと思います。
そうでなければ、数十年後には、すっかり記憶、記録から消し去られてしまうということにもなりかねません。


■関連リンク
海外神社のデータベース

■関連ブログ記事
教会の中の鳥居
製糖の島テニアン

投稿者: kameno 日時: 2:11 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

Color chart, Saipan-Tinian 2011

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投稿者: kameno 日時: 1:24 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

ウシ:ノースフィールド

サイパンからテニアンにはセスナで渡ることになります。
たった10分のフライトですが上空から見るべき所はたくさんあります。

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↑テニアン北部に見える4本の白い筋は、アメリカ軍がサイパン占領後に整備したノースフィールド飛行場です。
北(=写真右)からA(エーブル)、B(ベイカー)、C(チャーリー)、D(デビッド)と名づけられています。

 


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↑少し近づいた写真。一番左の筋がB(ベイカー)、その右がA(エーブル)です。一番右奥の空地が原爆搭載ピットのある場所です。
エーブルの先、右側に空地が見えますが、日本軍が作ったウシ飛行場の駐機場です。
アメリカ軍はそのまま利用していましたので、当時のまま残されています。

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↑日本軍による駐機場跡


その端に日本海軍第一航空艦隊司令部の建物が残されています。

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司令部の建物だけあって、重厚につくられています。
しかし、ジャングルに埋もれつつあり、かつ崩壊の危険があるために立ち入り禁止です。
地熱を防ぐために、床下に通気穴が取られる構造になっていることがわかります。

 

昭和19年8月3日にテニアン島がアメリカ軍に占領されてから、日本軍が作ってきたウシ飛行場を大幅に拡張し、圧倒的な建設力で巨大なノースフィールド飛行場を短期間で整備したのです。

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(左写真)日本軍のウシ飛行場。テニアン島北方向より。周囲はサトウキビ畑が広がっている。
(右写真)アメリカ軍がウシ飛行場を拡張して作ったノースフィールド飛行場。西方向より。左からABCD滑走路(Dは建設中)。
当時はジャングルではなく、とても幅広い滑走路であったことが判る。

アメリカ軍の作った滑走路は、珊瑚礁を砕いて敷き詰める構造となっており、そのままの状態で現在も残されています。

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この滑走路から、大量のB-29が日本に向けて飛び立ち、各都市に無差別空爆を行いました。
また、広島・長崎に投下された原子爆弾(リトルボーイ、ファットマン)も、この滑走路から飛び立ったのです。

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このように、4本の8590ft(2590m)級の滑走路があるのですが、現在は一部草木に覆われてしまっていて年々周囲のジャングルの侵蝕により滑走路の幅が狭まってきています。
周囲は手付かずのジャングルが広がっています。

ジャングルの中には弾薬庫や燃料庫があり、破壊され焼け爛れた状態で残されています。
このあたりには不発弾も多いそうなので、コース以外のジャングルにむやみに侵入することは避けるべきでしょう。

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■関連ブログ記事
横浜刑務所とテニアン北飛行場
テニアンに残される戦跡

投稿者: kameno 日時: 12:14 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

スーサイドクリフ

ホワイトビーチからテニアン島に上陸したアメリカ軍は一気に南下し、島南部にあった最大の集落、テニアン村に侵攻しました。
サイパンのバンザイクリフが日本に一番近い北部にあるのに対し、テニアンのスーサイドクリフが島の南端にあるのは、アメリカ軍が北から侵攻してきたことと、島のほとんどが平坦地で、隠れることが出来る村周辺の場所は南部のカロリナス台地しか無かったからです。

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住民たちは、のカロリナス台地に避難、岸壁の洞窟などに身を寄せて生活していました。
水も食料も無い局限の状況の中、アメリカ軍の掃討作戦に最後まで投降しなかった人々は、いよいよ追い詰められて切り立った断崖絶壁から飛び降りました。

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その数は知れませんが、民間人と兵士併せて2000人とも言われています。

海は深い藍に、そして抜けるような青空が広がっていました。

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スーサイドクリフは自殺岸壁という意味です。
ここで慰霊法要を営みました。

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残念なことに、あげられていた塔婆が折られて転がっていました。
某国の人々が壊してしまうそうです。
また、日本人たちが平和の祈りを捧げている周囲をバイクで騒音を立てながら走り回ったりということが良くあるようです。


■関連ブログ記事
当時の生存者から生の声を聴く機会がありました⇒ 戦争遺跡写真とトーク
投稿者: kameno 日時: 10:27 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

テニアン村の面影

テニアン島で現在一番大きな街は、島の南部サンホセです。
大きいといっても島全体の人口は約3千人ですからちょっとした集落のような感じです。
サンホセを見渡す丘より。
左上がサンホセの港。現在は定期航路もなく、ほとんど港として使われていません。

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しかし、戦前には1万人以上の日本人がサンホセ(当時の名称はテニアン村)に暮らしていました。
1944(昭和19)年、アメリカ軍により撮影された航空写真です。

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日本人によるテニアンの開発は松江春次による南洋興発会社がサイパンからテニアンに進出した1926(大正15)年に本格的に始まりました。

南洋興発の製糖事業はミクロネシア全域に事業を拡大し「南国の楽園」と称される時代を築きます。
平地の多く土壌が良いテニアンはサイパンよりもサトウキビ栽培に適しており、1935(昭和10)年までの間に島の3分の1がサトウキビ畑になるほど製糖産業が栄え、島の人口は17,900人に達し、大いに賑わいました。
テニアン島は製糖業の中心地となり、島のほとんどがサトウキビ畑となったのです。
島にはサトウキビを収穫するための軽便鉄道が巡らされ、線路はテニアン村の製糖工場に運ばれ、砂糖が大量生産されていたのです。
1930(昭和5)年には一日の生産量が1200トンにも達し、さらに1934(昭和9)年にはさらに生産量1200トンの第二工場が完成しました。

このことについては、前回の旅行記に纏めてあります⇒ 製糖の島テニアン


サンホセの街のあちこちには、かつて日本人が暮らしていた時代の遺構が数多く残されています。

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南洋興発の製糖工場は、現在はありませんが事務所と研究所の建物は残されています。

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(写真左)テニアン警防団本部跡
(写真中)消防団跡
(写真右)専習学校敷地跡

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水産組合魚市場建物跡の前には、グラマン戦闘機のエンジンとプロペラが置かれてされています。
魚市場の建物は、猛烈な砲弾を浴びて穴だらけの無残な姿のまま放置されています。
一年半前には、このプロペラはエンジンから外れた形で無造作に芝生に横たわっていたのですが誰かが並べたのでしょう。

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エンジンの部品が散らばっていますので、きちんと整理して保存するようにしないと、いつ無くなってしまうか分りません。

 

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戦後66年という時間の経過により、それらは次第に風化して、私たちの記憶から失われていきつつあります。
前回訪問した1年半前からも、状況が変わっている遺構が幾つかありました。

ほとんどの遺構は、現在の住民の方の敷地内にあります。
消防団跡は、シャッターが付けられ倉庫として使われているようですし、パラボラアンテナをつけたり物干し場にしたりされています。
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刑務所跡地は雨季には薮に覆われてしまい、建物自体あるかどうかすら分らない状況です。
保存のための対策が早急に必要だと感じます。

投稿者: kameno 日時: 9:27 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

星の砂ビーチのトーチカ

静かに寄せる波、白い砂浜。

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砂浜には椰子のみが波に洗われています。
そして、その砂を手に掬うと・・・・・

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このように星の砂がたくさん見つかります。
星の砂は、海中に棲息する有孔虫の殻のうち、骨格部分のみが残されてこのように星の形になります。
砂浜が白いのは、砂がサンゴや有孔虫の殻で出来ているからです。
太陽の角度によって海の色はエメラルドグリーンから濃紺までバラエティーに富んだ様々な表情をみせてくれます。
海水の透明度も世界有数だそうです。

このビーチはテニアン島の北西のチュルビーチです。

しかし、一見平和に見える砂浜も、第二次世界大戦では悲劇の舞台となりました。
砂浜には、傷跡生々しいトーチカが残されています。

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トーチカ上部の鉄骨には鉄筋のほかに線路が使われています。
昭和初期、日本統治時代にはテニアン島には沖縄や福島、山形などからの移民により開墾され椰子、砂糖、コーヒー、綿花の生産が行なわれました。
これまであまり産業の無かった島が近代化され、特に砂糖王と呼ばれる松江春次の興した南洋興発による砂糖生産は昭和初期には台湾に次いで東洋第2位の生産量を誇り、日本からの入植者は約15700名を数えました。

また、テニアン北部に南洋諸島最大のハゴイ飛行場(ウシ飛行場)があったこともあり、戦時中は日本軍の最重要基地として陸海軍合わせて約8500人もの軍人が駐屯し、第一航空艦隊に属する七六一空(龍部隊)の九六陸攻と一式陸攻40機が配置されました。
ハゴイ飛行場は1939(昭和14)年に日本人により建設された飛行場で、1450mの滑走路を誇っていました。

しかし、戦況が悪化し、アメリカ軍機動部隊により1944(昭和19)年には度々の空襲を受けるようになり、2月23日に飛行場施設は壊滅し日本軍の航空戦力は潰滅的な打撃を受けてしまいます。
日本軍は満州遼陽から陸軍第50連隊を移駐させるも空しく、7月8日にはアメリカ軍によりサイパン島が占領され、8月3日にはテニアン島が占領されてしまいました。


テニアン島へのアメリカ軍機動部隊の上陸ポイントは、日本軍のテニアン港付近に上陸するという想定に反し、テニアン島北部の通称ホワイトビーチからのものでした。
日本軍にとっては裏をかかれた格好となり、そのために上陸作戦はあっという間に終了してしまいます。

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そのホワイトビーチというのが、冒頭で紹介したチュル・ビーチです。
現在は平和な海岸ではありますが、ここがテニアン島への上陸拠点となった場所なのでした。

アメリカ軍は占領後ハゴイ飛行場を拡充し8590ft(2590m)級の滑走路を4本建設しました。
ハゴイ飛行場にはB-29戦略爆撃機が大量に配備され、サイパン島・アスリート飛行場、グアム島・アンダーセン飛行場と共に日本本土空襲の拠点となったのです。

投稿者: kameno 日時: 9:23 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

再びサイパン・テニアンへ

しばらくブログの更新を怠っておりました。
今週月曜日(11月14日)から金曜日(11月18日)にかけて、サイパン・テニアンに行っておりました。

昨年2月に訪問してから2度目となります。
前回の旅行記録は このページの最下部 に纏めておりますのでご参照ください。

 

今回は東京都宗務所主催・海外移動研修として、その中で同行させていただきました。
一昨年秋に 東京都婦人会研修会 の人権学習講師として、私がお話させていただいたことが契機となり、「是非、現地学習をしたい」ということによって行われました。
東京宗務所の前役職員の皆様、青少年布教委員の皆様とともに行程の企画を練って実現されたものです。

 

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参加者は、東京宗務所の皆様、東京管内寺院僧侶、寺族23名でした。
団体旅行ではありますが、フリーの日も一日半あり、かなり自由度の高い行程でありましたので、個人的には(1)前回行くことが出来なかった場所へ行くこと、(2)同じ場所が一年半の時間でどれだけ変化しているかを実感すること、を主な目的として参加しました。

初日にサイパン国際空港でセスナに乗換え、まずはテニアン入りしました。

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雨季ということもあり時折局所的にスコールが見られます。
サイパン国際空港離陸直後、海面から出る見事な虹が私たちを迎えてくれました。
虹の辺りにはスコールが降っているのです。

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様々な発見がありましたので、順次このブログで報告していきたいと考えております。

 


■参考:前回(2010年2月のサイパン・テニアン旅行記)
太平洋を南下中
アクセルとブレーキ
ハートブッダ
コバルト・ブルー
南極老人星
三代目の飛行場
教会の中の鳥居
サイパン国際礼拝堂南溟堂拝登
タポチョ山とアスリート飛行場
バンザイクリフ
製糖の島テニアン
テニアンに残される戦跡
移ろいゆくもの変らないもの
クリスマスローズ
迷走する普天間移設問題

投稿者: kameno 日時: 7:00 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

長崎・熊本で見かけたものあれこれ

旅行は思いがけない発見が楽しみの一つでもあります。
見かけたものあれこれシリーズ。

まずは、晧臺寺参道になっている眼鏡橋。
護岸の石組みにはハートの石が埋められています。
(埋められている場所はここでは記載しません。長崎にお出かけの際には是非見つけてみてください)
このほか、グラバー邸など、長崎の観光地の各所に埋められていたりします。

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長崎と言えばちゃんぽん。
ちゃんぽん発祥の地、四海樓で戴きました。

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ダイヤモンドプリンセス号。
あまりの大きさに圧倒されます。
2002年、三菱重工業長崎造船所内にて建造中に火災を起こしたダイヤモンドプリンセスはこの船ではなく、火災時同時に建造していた2番船(サファイアプリンセス)が急遽ダイヤモンドプリンセスとして改修されたものです。
火災を起こした方の船は、後年サファイアプリンセスとしてデビューしました。

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島原の棚田は石組みで段が組まれています。
背後は平成新山。
時々大きな被害の源となる山々ですが、普段は豊かな恵みをもたらしてくれます。

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雲仙地獄に掲げられた標語。
温泉の 温泉タマゴは メチャうまい
ある意味、とてもインパクトがあります。
ちなみに、初めの句を「おんせんの」と読んでしまっては、ただの幼稚な標語としか読めません。
そこにはこの地の語源に関する深い意味が隠されています。
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島原と熊本を結ぶフェリーに、カモメたちがついてきてスナック菓子をねだってきます。
右写真は自分撮りに挑戦。

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そのフェリーでは、私たちのバスの前に牛さんたちが並んでいました。
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熊本城では、タイムスリップした戦国武将、侍、忍者たちが出迎えてくれました。

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長崎も熊本も路面電車が大活躍しています。

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帰りの飛行機、ソラシドエアーのボーイング737機は納入されたばかりで、運行から僅か6回目のフライトだそうです。
全てがピカピカ。

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投稿者: kameno 日時: 1:36 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

大梁山 大慈寺

島原よりフェリーにて熊本に渡りました。
熊本では、まず大慈寺様に拝登させていただきました。

大慈寺は、大本山永平寺の四門首(代表的な末寺4か寺=宇治の興聖寺、大野の宝慶寺、加賀の大乗寺、そして肥後の大慈寺)の4大末寺の一つであり、弘安元(1278)年、寒巖義尹禅師によって開創された名刹です。
寒巖義尹禅師は、道元禅師の高弟であり、宋に二度渡り研鑽を積まれ、帰国後、安国山聖福寺に住した後、肥後の地に如来寺、大慈寺を開創され、九州地方における曹洞宗の基盤を築かれました。

また、順徳天皇の第三皇子でもあったために、明治時代初期の廃仏毀釈の影響はさほど受けず、境内には神仏混合のまま現在まで受継がれています。

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但し、伽藍は正平、永正年間、その後天文9(1540)年の戦乱、明和年間と度重なる火災に見舞われました。
一時荒廃しまった時代もあったそうですが、大正時代には澤木興道老師が講師として入られ、また昭和60年にはかつての伽藍様式にて再建されています。

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仏殿に鎮座されます釈迦牟尼佛。
見上げると天井絵が見事です。

十大弟子の残り8人は現住職により建立され、佛殿正面(一枚目の写真)に祀られています。
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法堂。本尊様は釈迦三尊佛です。

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稲荷堂にて。
なお、愛知県の豊川稲荷妙厳寺は、大慈寺の流れを汲む寺院です。

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戦時中供出から免れた梵鐘1287年のもので、重要文化財に指定されています。

投稿者: kameno 日時: 11:35 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

雲仙温泉・風評被害との闘い

今回の宗務所主催檀信徒研修旅行は雲仙温泉に宿泊する行程としました。

雲仙一帯は国立公園第1号であることから分るとおり、火山群によるダイナミックな地形と、豊かな温泉地、はっきりとした四季の変化が楽しめる日本有数の観光地です。
歴史あるゴルフ場もありますし、由緒あるホテルには、国内外から数多くの著名人も訪れています。

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雲仙温泉街は、点在する「地獄」の間近の位置にあります。
旅館の中にまで硫黄の匂いが漂い、窓からはダイナミックな水蒸気を望むことができます。

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掛け流しの温泉は濃厚な乳白色の「硫酸塩温泉」でした。

旅館の庭の池・・・・ではなく、これも温泉源。
窓の外は「雲仙地獄」の入口です。
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しかし、このような豊かな温泉も、20年前の雲仙普賢岳大噴火では大打撃を受けました。
それは、火山による直接的な被害ではなく、「風評被害」によるものでした。

雲仙普賢岳の大噴火による火砕流、土石流は火山の東側の島原地区には災害をもたらしましたが、西側に位置する雲仙温泉にはほとんど噴火の影響や被害はありませんでした。
しかし、「風評」は無情です。
あたかも雲仙地方全体が壊滅的被害を受けて、近づくことのできない危険な場所であるという印象が日本全体に植えつけられてしまったのです。

 

雲仙を訪れた観光客は、噴火の直前の1990年には約550万人、うち宿泊者は138万人とされていましたが、噴火が始まるとともにパッタリと落ち込み、徐々に回復基調にあるものの、2008年は観光客が388万人、宿泊者は67万人に留まっています。
雲仙温泉はとても良い温泉でした。
そして、宿泊した宮崎旅館の「もてなし」のこころも満喫しました。

 

風評被害の解消までには20年の月日を経てもまだ不十分なのかもしれませんが、「正しいものの見方」が広まっていくことを切に願っています。

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帰りの機内誌に、宿泊した温泉の記事が掲載されていました。
タイムリー!

投稿者: kameno 日時: 8:21 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

火砕流の爪跡

猛烈な熱風で変色してしまったコンクリート、捻じ曲がった窓枠・・・・

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小学校のこのような姿を見るのはなんとも言えない気持ちになります。

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校舎の背後に聳える山は、雲仙普賢岳の平成新山です。

1989年(平成元年)11月に火山活動が始まり、一旦は小康状態になったものの、翌1991年(平成3年)2月12日に再噴火、噴火の勢いは増して行き、5月15日からは土石流が発生し始めました。
さらに火口周辺に溶岩ドームが形成され始め、それが自重で崩壊。ついに斜面に崩落する形で、その破片が高熱の火山ガスとともに時速100km以上のスピードで火砕流となって斜面を駆け下り、大きな被害がもたらされました。

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島原から熊本に渡るフェリーから見る雲仙普賢岳の平成新山。
20年経った今でも山頂から港にかけて茶色い火砕流と土石流が通った跡が明確に残されています。

 

まだ記憶に新しい20年前の雲仙普賢岳の噴火は、火砕流と、その後の豪雨による土石流により、西側の水無川および島原市の千本木地区に大きな被害をもたらしました。 
火砕流により報道関係者16名、火山学者ら4名、消防団員12名、タクシー運転手4名、警察官2名、役所の職員2名、住民4名、死者行方不明者43名と9名の負傷者という大惨事となってしまいました。
避難勧告区域における報道のあり方にも一石を投じた災害でありました。

 

冒頭の写真は、かつての大野木場小学校です。
校舎は、火砕流の直撃は免れましたが、高温の熱風と高温ガスが校舎背後から襲いかかり、一瞬のうちにこのような姿になってしまいました。
ガラスが溶けてしまっていますので、800度以上の高温ガスであったことが推測されます。

校舎は20年経った今でも、そのままの姿で保存されています。
そして、敷地内には砂防みらい館が建てられ、災害の記録が展示されています。

 

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長崎県の島原半島中央部にある雲仙岳は、普賢岳・国見岳・妙見岳三峰・野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山などから構成されていますが、これまでも度重なる災害が繰り返されてきました。
特に、「島原大変肥後迷惑」の語源となった1792年5月21日(寛政4年旧暦4月1日)の大爆発に伴う津波災害(津波の高さは実に10m以上!と云われる)は、肥前・肥後で死者、行方不明者1万5000人という甚大な被害となっています。

 


「何度災厄に見舞われても、その度に島原半島は立ち上がり、復興してきました。蓄積したものを生かし、糧にすることで私たちは前よりも強くなるんです」

 

地元の方の前向きな力強いことばが印象的でした。
20年前の雲仙普賢岳の噴火にでは、警戒区域が設定され、11,000人もの方々が避難生活を強いられました。
現在でも山体崩壊の恐れがあるため、警戒区域に指定された区域が継続して残されています。

投稿者: kameno 日時: 8:29 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

長崎での慰霊法要

昭和20年8月9日、アメリカ軍が長崎市へ投下した原子爆弾は、午前11時02分長崎市上空で炸裂しました。
広島に続き、実戦で使われた2発目の核兵器でありました。

長崎の当時の人口は約24万人。
そのうちの、実に14万9千人が死没。建物の約36%が全焼または全半壊という、まさに壊滅的な状況でした。
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(原爆投下直後の長崎市。左奥に見える建物が浦上天主堂です)

今後20年は人も住めないし植物も生えないだろうと言われていた市街も、今は原爆が投下されたことすら想起させないほどに復興しています。
けれども、原爆投下という事実は決して風化させてはいけません。

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長崎平和公園にある原爆無縁殉難者供養塔で慰霊法要を営ませていただきました。

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平和公園は、元長崎刑務所のあった場所でした。
刑務所は爆心地にもっとも近い公共の建物であったこともあり、刑務所職員18名、官舎住居者35名、受刑者・刑事被告人81名、合計134名全員が即死してしまいました。
原爆の威力を物語っています。

爆風を受けて大きな被害を受けた建物は、現在ではその礎石のみが残されています。

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爆心地(グラウンドゼロ)は、この公園の直ぐ隣です。

投稿者: kameno 日時: 2:32 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

海雲山 晧臺寺

九州には幾つかの曹洞宗専門道場(修行道場)があります。
晧臺寺はそのうちの一つ。

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長崎で有名な観光名所、眼鏡橋を渡った直ぐ先に位置します。
眼鏡橋は、参道の一部である訳です。

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晧臺寺は、山号を海雲山と称し、山号額には勅賜が付けられています。
慶長13年(1608)、 備前国松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦町)飯盛山洪徳寺第七世・亀翁良鶴大和尚により創建されました。
当時の長崎は、キリシタン信者が大多数を占め、その中で廃れつつあった仏法を復興する基点となるべき寺院ともいえます。

慶長18年(1613)、キリシタン禁教例の発令により、キリシタンにとっては受難の時期を迎えます。
第二世玉林寺住持一庭融頓大和尚により、鈴木正三と共に キリシタン転宗教化を進め、晧臺寺の末寺(光雲寺・永昌寺・高林寺)を開創しました。
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現在の伽藍の礎は、第三世月舟宗林大和尚により整備建立されてました。

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拝登法要の後、御開山拝登、ご丁寧な境内拝観案内をいただきました。

本堂弥壇上はお釈迦様・文殊様・普賢様の三尊像が祀られています。
実に穏やかな表情をされています。

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佛殿には、高さ3.4メートルの昆慮舎那仏坐像が鎮座されれています。
享保8年(1723)、第十一世古岳日峻大和尚代に完成したものです。
眉間に仏舎利が納められています。

佛殿の正面には、「常寂光」の大額。
実に見事な伽藍です。

晧臺寺は曹洞宗の認可道場として明治29年(1896)に認可されました。

 

なお、現住職の大田大穣老師は、大本山永平寺監院の要職に就かれています。


■関連リンク

晧臺寺

投稿者: kameno 日時: 1:18 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

雲仙・長崎・熊本研修旅行

神奈川県第二宗務所主催檀信徒研修旅行として長崎、熊本方面へ管内寺院、寺族さん、檀家さん43名で巡って参りました。
順次報告記事を書かせていただきます。

8日朝、羽田を出発して長崎空港へ。
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雲の多い天気ではありますが、雨は大丈夫そうです。
見事な「黒富士」が雲の合間から頭を覗かせていました。

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広島上空を通過。
機体はちょうど広島市上空。窓からは呉の港が見えます。
今回の旅行では長崎平和公園への慰霊法要という行程も含まれれています。
昭和20年8月6日、広島へ原爆が投下され、その3日後の8月9日に長崎に原爆が投下されました。

私たちの飛行機は広島を通過してから30分足らずで長崎に到着します。

投稿者: kameno 日時: 10:02 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

オンガク ノ キズナ

とある日、とある場所での記録です。

時間がゆっくりと流れていきます。

ビデオは、私たちと一緒に活動してくださっているハーピスト 八木健一さんによる演奏です。
さまざまな方が活動されている中のほんのひとコマをご紹介させていただきました。

 

↓写真はR寺様で行われたキャンドルナイト。

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雨模様となりましたが、石畳にやわらかい光が反射して美しく輝いています。

投稿者: kameno 日時: 8:19 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

ルターの街 Wittenberg

ドイツ声明ツアー初回公演地となった ヴィッテンベルク(Wittenberg)は、正式には ルターシュタット ヴィッテンベルク(Lutherstadt Wittenberg)といいます。
その名の通り、近世ヨーロッパ史上の重大事件の一つ「宗教改革」の立役者であるマルティン・ルターゆかりの歴史ある街であり、ルターが生まれた アイスレーベンと合せてユネスコ世界遺産に登録されています。

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1517年、ヴィッテンベルク大学教授のマルティン・ルターが城聖堂 (The Castle Church)の扉に『95ヶ条の論題』を提示したことが宗教改革の口火を切ることになりました。
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現存する建物は19世紀に再建されたものです。

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町役場前の広場にはルター像が設置されています。
街の中心を貫くルター通りを中心に、小ぢんまりとまとまった街ですので、徒歩で主要な場所を回ることができます。

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趣のある美しい街です。
左の写真は銀行の建物です。

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ルター・ホール (Luther Hall)は、生前ルターが住んでいた家です。
現在は宗教改革に関する展示物が豊富な博物館となっています。

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街を散歩していると、ルター自ら率いる「街探検」に出くわしました。
日本からやってきた宗教家に興味津々です。

投稿者: kameno 日時: 5:24 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

ロマンティック街道 Romantische Straße

ドイツの観光スポットとしてあまりにも有名なロマンチック街道 (Romantische Straße)。

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ロマンチックとは、抒情的 ・ 可愛い ・ 情緒的 ・ 甘美 ・ うっとり ・ 情緒 ・ 美しい ・ 典雅 ・ 甘い・・・などと同義の意味がありますが、ロマンチック街道の「ロマンチック」はこれとは異なり、「ローマへの巡礼の道」という意味です。


2000年前には、ローマ帝国は、ヨーロッパ全土と北アフリカ、中東の半分をその領域としていました。
「全ての道はローマに通ず」のとおり、ローマを中心として石畳の道路が軍用道路として建設されました。
そのローマ帝国時代に建設された道路が「ローマへの巡礼の道」であり、そのうちのヴュルツブルクからフュッセンまでの366kmの街道ルートが「ロマンチック街道」です。

なお、それまで歴史上の名称に過ぎなかったローマ時代の街道に「ロマンチック街道」と命名したのは日本人のドイツ観光局長であり、高度経済成長期に若い女性向け旅行情報雑誌などで紹介され有名になりました。


今回のドイツツアーで、ヴィッテンブルクからシュトゥットガルトに向かう途中、ロマンチック街道の集落に立ち寄りました。
立ち寄った街は、アウトバーン6号線沿いにあるフォイヒトヴァンゲン (Feuchtwangen)。
9世紀に設立された修道院を中心に発展した街で、かつてはフランケン地方の中心都市の一つだったそうですが、主要な観光ルートから外れていることもあり、落ち着いたたたずまいを残しています。

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ツアー一行とたくさんの仏具たちを安全に運んでくれた大型バスの会社は、この街に本社があります。
運転手さん、そのご家族もこの街の住民です。

投稿者: kameno 日時: 4:57 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

ドイツで見かけたものあれこれ

新しい発見との出会いは、街歩きを楽しくさせてくれます。
私たちの常識は必ずしも常識とはいえないということもわかります。
ということで、恒例の"見かけたもの"シリーズ、ドイツ編です。

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なでしこジャパン、決勝リーグでドイツと対戦し見事勝利!4強入りおめでとう!

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ドイツといえばアウトバーン。
日本の高速道路との大きな違いは、ガードレールや側壁がほとんど無いこと、それに照明もありません。
制限速度は130km/h、それ以上出した場合は保険の適用外。自己責任となります。
サービスエリアのトイレはデポジット制で0.7EUR。サービスエリアの売店で利用できる金券をもらえます。

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歩道や交差点には自転車専用を示す赤く塗られた領域があります。
自転車乗りに優しい、というより自転車優先の考えなのですね。
鉄道、地下鉄の駅には改札口がありませんから、自転車もそのまま街→ホーム→電車へ。
改札口が無い代わりに、ホームに設置されている「改札機」にチケットを通します。

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ケルンには中世・ロマネスク時代の史跡が数多く残されています。
(1)遺跡発掘現場(2)水道管(3)St.Andreas教会(4)現代的な建築も中世の壁面を巧く利用している

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eau de Cologne(オー・ド・コローニュ)= Koelnisch Wasser(ケルンの水)。4711本店ではオリジナルシールで包んでくれます。

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日本人デザイナーによるトイレ。ガラスが透けていますが、使用中は曇りガラスになります。

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シュトゥッツガルトのゆるキャラ「中世くん」(本当の名前は不明)

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広場で開かれるマーケットは実に賑やかです。

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ツアー一行とたくさんの仏具たちを安全に運んでくれた大型バス。
そして運転手さん、そのご家族。

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太陽光や風力発電設備は、やはり目立ちます。

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レンガの積み方は、やはりドイツ積み?

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ドイツならではのバイク

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地方ごとに特徴あるビールを楽しめます、

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ショーウインドウに何故仏像?
なぜ蛍光グリーン?


■関連ブログ記事
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フランスで見かけたものあれこれ
モンゴルで見かけたものあれこれ
スリランカで見かけたものあれこれ
投稿者: kameno 日時: 10:48 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

世界遺産 ケルン大聖堂

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ケルン大聖堂は、ドイツのケルンにあるゴシック様式では世界最大の大聖堂です。
街の何処からも見えるため、自分が街の何処に居るかが直ぐに分かります。
ドイツ公演におけるケルンでの滞在は大聖堂に近い場所でしたので、時間が取れるたびに堪能してきました。

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(左)ライン川対岸から見る大聖堂。
(右)ケルン中央駅は大聖堂の直ぐ近くです。

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南塔の上部に登ることができます。
螺旋階段を登った先には

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目の前には北塔の壁面が見えます。
見上げると塔の先端が・・・・

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眼下には絶景が広がっています。

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楽譜で描いた大聖堂。
見事です!

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太陽の位置によって、大聖堂はさまざまな色に変化します。
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(左)夕方(といっても、夏のドイツの日の入りはかなり遅いです)、黄金に輝く大聖堂
(右)深夜ライトアップされる大聖堂



現在の大聖堂は3代目。
初代大聖堂は4世紀に完成、2代目は818年に完成しました。
しかし、1248年に火災により消失。
直ぐに3代目の建設が始まったものの、16世紀の宗教改革などの影響で1842年まで建設が途絶えてしまいます。
現在の大聖堂が完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年であり、当時は世界一の高さを誇る壮大な建物でありました。
そのコンセプトは”天”。
天国へ一歩でも近づこうとしてひたすら高さを求めた建物です。


ケルン大聖堂は第二次世界大戦による空襲で内部が激しく破壊されたものの建物自体は辛うじて残りました。
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(終戦直後のケルン:Wikipediaより引用)

戦後に復旧工事が行われ、大聖堂は現在の姿に復元されています。

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ステンドグラスの一部はゲルハルト・リヒターにより近代的なモザイク模様のものとなっています。
右の写真は、大聖堂内部を撮影しパノラマ合成したものです。

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■東日本大震災発生から二週間後、2011年3月25日には、ケルン大聖堂で「東日本大震災犠牲者追悼ミサ」が行われました。
その様子をビデオで見ることが出来ます。

Trauergottesdienst für Japan

Informationen zum Medium
Mit einem zentralen Gottesdienst im Kölner Dom hat die katholische Kirche in Deutschland am Freitagabend der Katastrophenopfer in Japan gedacht. An der Feier nahmen neben dem japanischen Generalkonsul in Düsseldorf, Kiyoshi Koinuma, auch der Trierer Bischof Stephan Ackermann sowie der Kölner Oberbürgermeister Jürgen Roters (SPD) teil. Es zelebrierte Weihbischof Heiner Koch.

投稿者: kameno 日時: 7:45 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

「本当のトモダチ」Tシャツ

Echte Fründe ston zesamme!

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これは、本当の友達という意味です。
東日本大震災からの復興を願い、ケルン独日協会(Deutsch-Japanische Gesellschaft e.V. Köln)で作られたTシャツです。
龍吟会のメンバー全員に配られました。


今年は日独交流150周年の年となり、2010年10月から2011年10月にかけてさまざまな交流事業が行われています。
2011ドイツ声明公演は、ドイツ各地の独日協会の皆様の招聘と多大なるご協力によって開催されました。

日本とドイツの関係は、江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)として交わされた不平等条約の是正を求めて、総勢38名の「文久遣欧使節」をベルリンへ公式に派遣したことから始まります。
正使として、竹内保徳(下野守)、副使は松平康英(石見守)、目付は京極高郎(能登守)、そのほか柴田貞太郎(組頭)、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(寺島宗則)らが正式にベルリン入りしています。
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特に、ドイツ入りの前泊地となったケルンでは、オランダからの特別列車を用意され、食堂で昼食の饗応を受けたあと、ケルンに一泊、ケルン大聖堂では大歓迎を受けた記録が残されています。

「ワインとアルトビールでリラックスし、両刀を腰に差した丁髷姿の日本人数名が群集の前にようやく姿を現わした。使節団に7名随行していた通詞(通訳)の中に福沢諭吉も混じっていたが、日本人を初めて見る地元の新聞記者が群衆の前に進み出て対話した・・・」(当時の新聞記事)

以来、現在に至るまで日本とドイツは友好的な関係を継続しています。

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冒頭のTシャツの話に戻ります。

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日の丸と折鶴、そしてハートのデザインは、ケルンで日本文化を学ぶ学生によってデザインされました。
そして、背中には Stand up Japan!の文字が。
ドイツも日本と同様、戦争により壊滅的な被害を受けました。
その中から復興し、現在の経済大国としてに日本とドイツがあります。
東日本大震災でも、きっと負けない。一日も早く元気なニッポンに戻って欲しいというドイツからの願いが込められています。
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ケルンでの公演の会場となったKöln St. Cäcilien . Museum Schnütgenは、貴重な展示品が並ぶ博物館です。
そのため、入館には厳重なチェックがあります。
しかし、このTシャツで統一した私たち、そして独日協会の方々はチェック無しで入ることができました。
Tシャツの効果は絶大です。

東日本大震災からの一日も早い復興を願い、そして全ての災害で犠牲となられた方々を悼み、皆の心を一つにしてドイツでの声明公演を行ってきました。

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投稿者: kameno 日時: 5:50 PM | | コメント (7) | トラックバック (0)

ベルリンの壁を行く


折角ベルリンを訪れたのですから、ベルリンの壁は見ておかなければなりません。
ということで、EAST SIDE GARELLYを歩いてきました。

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禅僧、ベルリンの壁を行く・・・・

ベルリンの壁は、現在シュプレー川沿いの約1.3kmが保存されている他は、ほとんどの壁が取り壊されてしまっています。

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保存されている壁には、24か国118人の芸術家により壁画が描かれました。
それが EAST SIDE GARELLYです。

 

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こんなにも薄い壁が都市を分断していたのですね。
壁の基礎はL字型の下のコンクリートとなっていますが、東側の方がずっと幅が広がっています。
穴を掘って地下から逃亡できないように対策されているのです。


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有名なホーネッカーとブレジネフの熱いキス。
東西の融合を象徴する壁画です。


壁とともに、見張り塔も残されていました。
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日本地区への迂回路という作品には、民度の低い国の旅行者から落書きがされていました。
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残念なことです。

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↑こちらはポツダム広場前のベルリンの壁。
壁のあった場所にはレンガによって位置が示されています。

 

第二次世界大戦後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4ヶ国による占領を受けることになりました。
このポツダム広場は、一面の瓦礫から復興し、新しい街並みとして蘇っています。

ソ連で発生したペレストロイカによって民主化を求める声は強さを増し、1989年11月9日、ついに東西冷戦の象徴となっていたベルリンの壁は崩壊しました。

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ベルリンの壁崩壊を喜ぶ市民たち(写真はウィキペディアより)

このニュース映像で有名になったブランデンブルク門は、今や多くの人びとが自由に行き交う観光地となっています。
冷戦時代には、このような光景は想像がつかなかったことでしょう。

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ブランデンブルク門の直ぐ南には、ホロコースト記念碑(Denkmal für die ermordeten Juden Europas)広場があります。

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悲しい人類の過ちの一つです。

投稿者: kameno 日時: 1:53 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

ベルリン道場にて

今回のドイツ声明公演に際しましては、宗務庁国際課様、ヨーロッパ総監部様、ドイツ国内の禅道場様には多大なる協力を戴きました。

この日はヨーロッパ総監部様のご案内により、法要仏具の拝借を快くお受けいただいたベルリンの道場に拝登させていただきました。

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ベルリン道場 禅光寺(Zen‐Vereinigung Deutschland e.V. Zenkoji)は、ベルリン南部の幹線道路沿いの建物の中にあります。
元々は工場の倉庫だったところを道場として改装しています。
重厚な扉が印象的です。
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拝登後、Tenryu Tenbreul老師はじめ、メンバーの方々からの手厚いおもてなしを受けました。

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行持は綿密に行われています。
特に坐禅に取組む真摯な姿勢を、日本の寺院でも学ぶべきことは多いと感じます。
投稿者: kameno 日時: 9:52 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

声明公演@ケルン

平成23年度文化庁国際芸術交流支援事業 2011年声明ドイツ公演

(3)Romanische Sommer Köln 2011(主催 Westdeutscher Rundfunk、Kulturradio WDR 3)
ロマネスクの夏2011音楽祭 ケルン市内に点在するロマネスク時代の教会を会場として開催される伝統をもつ音楽祭です。
開催期間のうち、禅-空華龍吟会はKöln Schnuetgenで行われるコンサートに招聘されました。

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Romanische Sommer Köln
06.Juli 2011 Um 22Uhr -Köln St. Cäcilien . Museum Schnütgen
Priesterensemble „Zen Kûge Ryûginkai" der zen-buddhistischen Sôtô-Schule (Japan) . Matsumoto Jôtai, Leitung
Mit Unterstützung der Toyota Deutschland GmbH und der Deutsch-Japanischen Gesellschaft e.V. Köln



最終第3回目の公演はケルンで23年間に亘り開催されている伝統的で評価の高い音楽祭に参加する機会を得ました。
ロマネスク時代の教会が、現在は博物館(Köln St. Cäcilien . Museum Schnütgen)となっています。

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貴重な美術品が並ぶ会場ですから、警備は厳重です。
博物館の協力もあって、このような音楽祭が永年継続的に開催されています。

 

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舞台の上にも美術品が陳列されているので、進退等には充分に配慮する必要があります。
事前の打合せが念入りに行われました。
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開場の時間が近づくと、予定客席を大きく越える方々のご来場をいただきました。
博物館の陳列品を火災から守るために、消防法で厳密に定員が決められています。
それでも立ち見を増やしていただいたにも関らず、数十人の方々が会場に入ることができなかったということです。
夜遅い時間にも関らず多くの列席を戴いたことは本当に嬉しいことです。総領事のご来場も戴きました。

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会場は音の反響時間が他のホールに比べて格段に長くなっています。
それゆえ、声明の響きが体中に沁み亘ります。

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最終公演も無事終了。
充実した公演ツアーは大円成しました。

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新聞でも大きくとりあげられました。
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日本から海外に紹介するべき文化として、伝統的な分野を決して疎かにしてはならないのです。

 


投稿者: kameno 日時: 2:41 AM | | コメント (6) | トラックバック (0)

声明公演@シュトゥットガルト

平成23年度文化庁国際芸術交流支援事業 2011年声明ドイツ公演

(2)バーデンヴェルテンベルク州音楽祭(主催 Stadt Koeln/Kulturamt )
バーデンヴェルテンベルク州音楽祭の開催される シュトゥットガルトは、伝統のあるバレー、オペラ、交響楽団が拠点を構える音楽の都です。バーデンヴェルテンベルク州独日協会主催音楽祭が開催され、禅-空華龍吟会はStuttgart LiederhalleにあるMozart-Saalでの公演に招聘されました。

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Ritualgesang der zen-buddhistischen Soto-Schule
02.Juli 2011 um 20 Uhr - Mozartsaal des Kultur- und Kongress-Zentrums Liederhalle zu Stuttgart

Shomyo 声明 Ritualgesang der zen-buddhistischen Soto-Schule 曹洞宗
Priesterchor „Zen-Kuge Ryuginkai“ 禅-空華龍吟会
Im japanischen Buddhismus wird die rituelle Praxis von Shomyo, dem unbegleiteten Solo- und Chorgesang der Priestergemeinde bestimmt. Shomyo bedeutet den Schriftzeichen nach soviel wie „Klarheit der Stimme“ oder „Erleuchtete Stimme“, was auf die religiöse Funktion dieser Vokalmusik hindeutet: sie soll das Streben hin zum buddhistischen Heilsziel der „Erleuchtung“ befördern. Neben der einfachen Rezitation umfasst Shomyo vor allem meditative oder hymnische Gesänge. Wie der Gregorianische Choral für die europäische Musik, so bildet Shomyo eine wichtige Grundlage für die traditionelle japanische Musikkultur.

Wie allen Zeremonien liegt auch „Tanbutsu’e“ ein festes liturgisches Konzept zugrunde:


 

第1回目の公演を終えて、ドイツを南に550キロ。次の公演地であるシュトゥットガルトに到着しました。
さすがに大きな工業都市であることを感じます。

街の中心に程近いリンデルハーレ(Liederhalle)のモーツアルトホールが今回の会場です。
歴史あるこのホールで公演を行うことはとても名誉なことです。

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荷物を搬入口から運び入れると、せり出しエレベーターから舞台上に直接届きます。
近代的な設備です。
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モーツアルトホールは横に長い舞台、それを取り囲む非対称五角形の設計となっているために、両班の配置が横一線に近いハの字型としました。

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差定は前回のヴィッテンブルクと同じ内容ですが、ホールの形状に併せて臨機応変に調整しています。
柔軟に対応できるということは素晴らしいですね。
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投稿者: kameno 日時: 1:38 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

声明公演@ヴィッテンブルク

禅-空華龍吟会のドイツ声明ツアーは、ドイツ北部の街ヴィッテンブルクからスタートしました。

(1)Himmel auf Erden 国際宗教音楽祭(主催 WittenbergKultur e.V.)
Himmel auf Erden 国際宗教音楽祭は、宗教改革の都市ヴィッテンベルク市で開催される国際宗教音楽祭であり、バーゼル室内管弦楽団、アンハルト劇場のミュージシャン、ベルリンラウテンカンパニーなどのアンサンブルの他、アジア、アフリカ、オーストラリア、アメリカ、ヨーロッパ各地からの参加があります。禅・空華龍吟会は、日本の伝統的法式・音楽である声明を紹介するために招聘されました。

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Himmel auf Erden: Shômyô-Gesänge
30. Juni 2011 - 17:00 Uhr - Phönix Theaterwelt

mit dem Priesterensemble „Zen-Kuge Ryûginkai“ der japanischen Sôtô-Schule (Zen-Buddhismus)
Unter Shômyô versteht man den vornehmlich unbegleiteten Gesang eines Mönchs- oder Priesterchors im japanischen Buddhismus, der sich in Japan zu einer ganz eigenständigen Tradition von Vokalmusik ausgesprochen meditativen Charakters entwickelt hat. Shômyô bildet eine der Grundlagen der gesamten traditionellen Musikkultur Japans.


ヴィッテンベルクのは小ぢんまりとした街です。
公演会場「フェニックスシアター」は、街の真ん中を貫く「ルター通り」から少し住宅街に入ったところにあります。
なかなかポップな外見ですが、設備の整った立派な会場です。

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主催者の事務所でポスターやパンフレットが作られています。
前日打合せで、プロジェクターに投影するスライドの製作を行いました。
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大きなスクリーンに投影するために画質には妥協がありません。

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通しリハーサルで、仏具を並べてみます。
なかなか良い感じの会場です。

舞台上には巨大なスクリーンがセットされ、ここに写真スライドやドイツ語の字幕解説が投影されます。
逆から観ると人の動きが美しいシルエットとなっています。
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立ち位置、動き等の確認。
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差定

■禅道場の紹介スライド
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■暁天坐禅
■歎仏会法式(Musikalische Zeremonie zum Lobpreis Buddhas)
入堂 (Einzug von Priestergemeinde und Leitendem Zelebranten)
普同三拝 (Drei Verbeugungen)
般若心経 (Rezitation des Herz-Sutras)
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散華の偈 (Gesang zu fallenden Lotosblüten)
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讃仏の偈 (Lobgesang auf Buddha)
帰依文 (Reverenz gegenüber Buddha)
歎仏の偈 (Zweiter Lobgesang auf Buddha)
仏名 (Anrufung der Namen Buddhas)
懺悔の文 (Gesang der Reuebekenntnisse)
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七仏宝傲Shichi-butsu hogo (Bekenntnis zu den Sieben Buddhas)
普回向 (Allgemeiner Segen, Übertragung der Verdienste)
三帰依 (Dreimalige Reverenz gegenüber Buddha)
退堂 (Auszug von Leitendem Zelebranten)
■東日本大震災鎮魂慰霊法要 (Ritual zu Befriedung der Seelen der Erdbebenopfer in Nordjapan, 11.03.2011)
古式懺法鉢 (Klangschalen)
入堂 (Einzug des Leitenden Zelebranten)
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大夜念誦 (Anrufung Buddhas)
十仏名 (Anrufung der zehn Namen Buddhas)
舎利礼文 (Reverenz gegenüber einer Reliquie Buddhas)
地蔵歎偈 (Gesang zum Lobpreis des Bodhisattva Kshitigarbha)
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回向 (Totengebet zum Gedenken an die Opfer des Großen Erdbebens)
退堂 (Auszug des Leitenden Zelebranten und der Priestergemeinde)
古式懺法鉢 (Klangschalen)

ステージライトを浴びると荘厳な雰囲気になりますね。
音の広がりも良い感じです。


導師退堂、最後の音がす~っと消えていくと、会場は大きな拍手に包まれました。
スタンディングオベーションもいただき反響の大きさを実感しました。
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ロビーではたくさんの質問が寄せられます。

仏具の梱包が手際よく進められ次の公演に備えます。
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大きなダンボールに十数個の荷物と各自のスーツケース。
荷物だけで相当な量となります。

投稿者: kameno 日時: 11:27 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

ドイツより短信

ドイツでは予定通り順調に日程をこなしています。

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機内の新聞にて。
ドイツでは3月、4月、5月と連日一面トップのかなりの紙面を割いて連日福島第一原子力発電所関連の報道がなされていたそうです。
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この福島県民の内部被爆検査の記事も、日本での報道よりもよほど具体的で詳細です。
福島第一原発事故直後には在日ドイツ国民全員にドイツ政府より放射能汚染状況が知らされました。
原発に近い場所に住んでいる日本人は、なぜのんびりと過ごしてるのだろう、放射能測定器も3月下旬の段階で無料で大量に送ることができたのに、何故日本からのオファーが無いのかと強く疑問を感じていたそうです。

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一回目の公演(ヴィッテンベルク)は無事終了しました。
この街はプロテスタントのメッカと言っても良い古い町です。
観客の皆様、そして主催者からは「普段、儀礼になじみが無く、また宗教音楽の公演でバックグラウンドに宗教性がきちんと配されているものは初めてなのでとても新鮮であった」という感想をいただきました。
詳細は帰国後追記します。

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翌日550キロを移動し、今晩二回目の公演が Stttgart で行われます。
これからリハーサル。

余談ですが、なでしこジャパンの試合がここから10キロほど離れたスタジアムでありました。
快勝おめでとう!

投稿者: kameno 日時: 3:16 PM | | コメント (2) | トラックバック (0)

スリランカで見かけたものあれこれ

新しい発見との出会いは、街歩きを楽しくさせてくれます。
私たちの常識は必ずしも常識とはいえないということもわかります。
ということで、恒例の"見かけたもの"シリーズ、スリランカ編です。

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コロンボ市内の通勤ラッシュはとにかくダイナミックです。
各方面からのバスが猛スピードで次々と到着しバス停で通勤客を吐き出し、別の乗客を乗せて発車していきます。
見ていて飽きません。

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列車もバスも一々ドアを閉めません。
鉄橋の上でも全く動じることなく平然としています。

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ダイヤ表示の変更も臨機応変です。

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交差点に信号があることは珍しいのですが、これは歩行者用信号です。
あと何秒青なのかが表示されています。
(日本では青になるまでに何秒かという表示が多いですね)

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小学校の授業が終わり、保護者によるお迎えの光景。
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教習は公道を使って行なわれるそうです。
日本のように自動車学校敷地内で練習することはありません。
Lマークが教習車を示します。
佛旗も張られていますね。

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バスの運転台にも仏様。
リクシャのフロントガラスには様々な宗教が同居していました。

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日本の中古車は大活躍で、日本の会社のロゴをそのまま消さずに使っているものをたくさん見かけました。
ただ、上写真はちょっと変わっていて、日本の文字を適当に並べています。
恐らく後から書き足したのでしょう。
日本製であることをアピールしているのか、ファッションなのか、面白いですね。

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寺院で見かけた立派なプレス印刷機。
圧倒的な存在感です。

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強風で壁が倒れてしまったのでしょうか。
しばらく放置していても誰も気にすることないようです。

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ホテルの部屋の窓にサルが来るので餌を与えないでくださいと表示してありました。
案の定たくさんのサルがやってきました。

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成田からコロンボに行く途中でマレ(モルジブ)を経由、たくさんの新婚カップルが降りていきました。
2時間ほど畿内清掃につき合わされます。

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コロンボ郊外の海岸から望むインド洋に沈む夕日。


■関連ブログ記事
中国で見かけたものあれこれ
フランスで見かけたものあれこれ
モンゴルで見かけたものあれこれ
投稿者: kameno 日時: 6:19 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

仏様で満ちあふれる国

スリランカではあらゆる場所で仏像や仏旗を見かけました。

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ホテルのロビーにも、公立学校の壁や校庭にも、病院にも。
スリランカは教育費は完全無償となっています。その殆どは国立学校であり、必ず校庭に仏様が祀られており、生徒たちはお参りしてから授業を受けます。

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テレビやラジオ番組も、放送開始は読経、僧侶による法話から始まります。

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お寺の行事に向かう住民たち。
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大きな交差点には仏像が祀られています。
日本でいうところの道祖神のような感じで、ごく当たり前に日常の光景の中に溶け込んでいます。
夜にはこれらは七色のライトで照らし出され輝きます。

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観光バスが通ると街の人たちは足を止め、手を振ってくれます。
特に僧侶であることがわかると合掌してくれます。
店番の女の子が歩道に出てきて合掌し、深々と頭を下げる光景には本当に感動しました。
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朝食前に散歩がてら街の寺院を幾つか巡ってきましたが、どの寺院もお参りされる方の姿であふれています。
供養の灯明は絶える事がありません。

バスで移動中、葬列に出会いました。
スリランカでの葬儀は、葬儀当日は午前中に自宅に僧侶をお招きして読経をしていただき、昼を挟んで午後になってから村人たちで葬列を組んでお棺を火葬場に運び、荼毘に付した後埋葬されます。
日本における葬儀と手順はそれほど変わらないですね。

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無宗教を自称される方が多い今の日本から見るとちょっと珍しい光景ですが、スリランカではごく当たり前の日常の光景なのです。

子どもたちの目の輝きが印象的でした。

投稿者: kameno 日時: 9:54 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

スリランカの花鳥風月

スリランカの犬はどこでもお構い無しに寝そべっています。
たとえ交叉点の真ん中でも世界遺産の上でも。
そして皆痩せています。

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猿も多いです。

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朝、ホテルの部屋の窓をコツコツ。
机の上にあったオレンジをねだっているようです。

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イグアナ、リスもあちこちで見かけました。

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チョウは派手なものが多いですね。
紅い模様がハート型に見えるものもありました。

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スリランカ各地にはため池が点在しています。
水鳥の楽園でもあります。

 

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ちょっと珍しい木より。
左から ジャックフルーツ、根性無しの木(現地の人曰く)、ロウソクの木、チョウジ

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欄の種類も豊富。蓮の花はこの時期にも咲いているのですね。
最後の花の写真はブッダツリーとよばれる花で、寺院によく植えられているものだそうです。
レストラン店舗前の装飾として水盆にこの花を浮かべてある光景を良く見かけました。
幼稚園訪問の際にいただいたレイも、この花で作られていましたし、佛歯寺参拝の際にもこの花を両手に持ってお参りしました。

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夜には満天の星空を眺めることができました。
右に見える明るい星はカノープス、下中央に見える十字は南十字星ではなく「にせ十字」です。
本物の南十字星はこれよりももう少し下に見えるはずですが山で隠れています。

投稿者: kameno 日時: 9:38 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

カシャパ王とシギリヤロック

古代遺跡シギリヤ。

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スリランカ中央部に火山マグマが固まってできた高さ370mの垂直に切り立った岩があります。
これはシギリヤロックと呼ばれ、かつては仏教僧の修行場でありました。
5世紀後半に、カシャパ王(477-495年)は王位継承の地位を奪われる恐れを感じ、弟モッガラーナを追放し父を殺してまで政権を握り、このシギリヤロックの上に宮殿を建設します。

シギリヤロックに続く観光用の桟橋が作られています。
頂上までは1200段もあります。

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左下に桟橋を写しました。
このような桟橋を只管歩いて登ります。

途中に見事な壁画が遺されています。
シギリヤレディーです。

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どの時代にも落書きをする輩はいるものです。
かなり前の落書きで「こんなに美しい女性がいるのなら結婚するんじゃなかった」と刻まれたものもあるそうです。
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さらに進むと岩山の北側中間の少し平らな場所に到達します。ここが宮殿の入口です。
両側にはライオンの爪が装飾されています。
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ようやく到着!
眺めが見事。
はるか遠くにダンブッラ石窟寺院が見えます。

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頂上の宮殿の基礎から、かつての広大な宮殿の様子が偲ばれます。

カシャパ王は、シギリヤロックを中心に、周りには城壁と堀を巡らし、万全に見える防御体制を取りました。
これは恐怖心そのものを如実に表しています。
この岩山の頂上にあったとされる宮殿で孤独な王様は何を思っていたのでしょうか。

インドへ追いやられていた弟、モッガラーナはインドから攻め入り、カシャパ王は敗れます。
カシャパ王の時代は僅か11年で終焉となりました。

ちょっと気になったこと。
垂直の岩山を登る桟道が一部壊れていて応急処置がなされていました。
けれど、板と荒縄での処置とは・・・・
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スリル満天、スケールの大きさに圧倒されたシギリヤロックでした。

投稿者: kameno 日時: 6:08 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

古都ポロンナルワ

ポロンナルワは10~12世紀頃シンハラ王朝の王都として栄えました。
古代都市ポロンナルワは、10~13世紀に栄えたシンハラ王朝の古都です。
それまでの首都アヌラダプラがタミル族の侵略を受けたため、993年に首都となりました。
シンハラ王朝歴代の王が仏教の普及に努めたため、たくさんの仏蹟が残されています。
広大な遺跡群から、かつての都の繁栄ぶりを偲ぶことができます。

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左写真は7階建の大宮殿。
右写真は遺蹟の入口にあるムーンストーン(象などの神聖な紋様が刻まれた半月型の石)です。
これより先は神聖な場所であるために裸足になり脱帽するという境界でもあります。
描かれている動物は、それぞれ象=誕生、馬=老、ライオン=病、牛=死を表すとされますが、ポロンナルワのムーンストーンはヒンドゥ教の影響により牛が描かれていません。

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ガル・ヴィハーラという磨崖仏が遺されています。
一つの壁に左より坐像、小さい坐像、立像、涅槃像と並んでいます。

おおらかで柔らかい表情が印象的です。

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岩の縞模様も実にみごとですね。

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投稿者: kameno 日時: 10:26 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

ダンブッラ石窟寺院

スリランカには貴重な仏教遺跡が数多く遺されています。
いくつかを巡って参りました。

ダンブッラ石窟寺院は、セイロン島のほぼ中央、キャンディの72キロメートル北方に位置する世界遺産登録の寺院です。

スリランカにおいて、最も保存状態がよい石窟寺院として知られており、周辺には80以上の洞窟が点在し、その中核は、5つの石窟によって構成されています。
これらの石窟はアヌラーダプラ時代(紀元前1世紀-993年)、ポロンナルワ時代(1073年-1250年)に大部分が建設され、153の釈迦牟尼像、3つのスリランカ王像、4つのヒンドゥー神像、総面積2,100平方メートルに及ぶ壁画の数々…圧倒的な迫力をもっています。


第1窟
”Devaraja lena”(偉大な聖王の石窟)と呼ばれ、14メートルもある岩山を削り出して作られた涅槃像が祀られています。
20101118-01 ゆがんで映っていますが、実際は当然まっすぐです。
洞窟内一杯に涅槃像が祀られておりますので、広角レンズパノラマで撮影しています。

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涅槃像の足元には弟子のアナンダ像、釈迦像の頭部にはヴィシュヌ像が配置されています。

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一同自然に手を合わせ、読経させていただきました。
蒸し暑い中、汗をかきながらの法要ですがそんなことを気にするものは誰もいません。



第2窟は、マハラジャの石窟とも呼ばれ、石窟群の中では最大の石窟です。

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ヒンドゥーの影響が強く、16体の釈迦の立像と40の釈迦の坐像の他にサーマン、ヴィシュヌなどが安置されています。

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窟内天井からは聖なる水が湧いていて、病気を治す力があるとされています。

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水が湧く部分には魚の絵が描かれています。
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それにしても仏・仏・仏…仏様で埋め尽くされています。
右手を大地につける仏画もあり、それぞれが圧倒的な迫力を持っています。


投稿者: kameno 日時: 12:03 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

身延山スリランカ別院

身延山スリランカ別院は1994年、総本山身延山久遠寺開宗750年記念事業の一環として建立された寺院で、こちらにも幼稚園が設置されています。
当初は予定には無かったのですが、余裕が出来たために急遽訪問することとなりました。

幼稚園は昼に終わり、私たちの訪問が夕刻になったにも関らず、園児たち、保護者総出でのお出迎え。

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スリランカの教育復興や日本とスリランカの親善交流に大きな役割を果たしている寺院の一つです。
こちらでも本堂で法要を営みました。

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現在、スリランカには曹洞宗の寺院がありません。
しかし、他宗の活動を目の当たりにすると、日本の禅宗寺院もスリランカに出来ると良いとちょっぴり感じました。

投稿者: kameno 日時: 10:01 AM | | コメント (4) | トラックバック (0)

大菩薩会拝登

スリランカ大菩提会は1891年に仏教の復興、仏跡の復興、学問的研究、社会福祉のために発足し、幅広い活動を行っています。
現在使用されている仏教は、大菩薩会創立者、アナガリータ・ダルマパーラ師により生み出されたものです。

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最近は日本政府や、日本の寺院からの援助により活動が広がっています。
創設者アナガリータ・ダルマパーラ師の没後、パンニャッテッサ大僧正に受継がれ、現在はバーナガラ・ウパニティッサ僧正が管長を勤められています。

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到着とともに歓迎を受けました。
スリランカ大菩提会には幼稚園が併設されており、日本の童謡などの歌と踊りをお披め。

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教室の様子も見学させていただきました。

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その後、仏間にて拝登諷経を日本式・スリランカ式併修して営みました。

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仏教が縁となったスリランカと日本の交流が生きていることが実感できる訪問でした。

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スリランカには犬がたくさん居ます。
境内の仏像の前にも・・・・

投稿者: kameno 日時: 9:10 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

佛歯寺特別参拝

スリランカでは仏教徒70%、ヒンドゥー教徒15%、キリスト教徒8%、イスラム教徒7%となっており、7割が仏教徒の仏教国です。
スリランカの仏教については追って書いていきたいと思います。

国内には様々な仏教寺院があり、その代表ともいえるのがスリランカ中央の古都キャンディにある佛歯寺です。

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正式にはダラダー・マーリガーワ寺院。
通称の佛歯寺の名の通り、仏歯が祀られており、チューラワンサ(小史)の伝承によれば、4世紀にインドのカリンガの王女がスリランカのシンハラ王家に嫁ぐ際にもたらされたとされ、以来王権の象徴となりました。
王都が移動するごとに仏歯も移され、現在はシンハリ朝により16世紀に建てられた佛歯寺に納められています。

仏教徒の信仰の対象としても強い力を持っています。
佛歯寺は真夏に行われるペラヘラ祭は仏歯を乗せた象の行列と、それを祝賀する踊りの祭典として有名です。

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仏歯の祀られているられているダンマチャッカ(法輪堂)下層部には日本からの仏像も安置されています。
この上に仏歯がお祀りされているのです。
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二階に上り、廊下を進んだ先に見える黄金の扉を抜けた先に仏歯が祀られています。
扉の先は撮影厳禁。
掌に花(ブッダツリーの花)を持ってお参りしてまいりました。

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境内の像は僧侶たちにも大人気。

この日は世界仏教徒会議参加者に向けた特別参拝が行なわれるということで、普段はケースに納められて奥に安置されている仏歯が、手前にケースから出された状態でした。
そのために、キャンディー近郊から集まった一般の仏教徒たちも行列をなし、建物の中は満員電車のように溢れかえっていました。
投稿者: kameno 日時: 8:42 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

世界仏教徒会議スリランカ大会

世界仏教徒連盟(The World Fellowship of Buddhists=WFB)創立60周年記念祝賀行事および第25回世界仏教徒会議スリランカ大会が開催され、全日本仏教会のツアー一員として参加してきました。

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世界仏教徒会議は2年おきの開催。昨年、日本の浅草で開催され、今年はスリランカ大会です。
一般コンファレンスは11月14日~17日までの日程で開催され、最終日に記念祝賀行事が行なわれました。

 

今回の記念行事は、スリランカのD Jayaratne首相が中心となっての国を挙げての行事でありました。

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会場に向かう幹線道路に国旗と仏旗が掲げられています。
今の日本では考えられない光景ですね。

会議のテーマは“Reconciliation through the teachings of The Buddha”(釈尊の教えを通した和解)。
40を超える国から約600人の仏教代表者が集まりました。
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大統領や国の要人も参加される行事ですから警備も物々しく、持ち物検査を受けてから会場に入ることになります。
カメラ、ビデオ等の持込、撮影は厳禁でしたので大会中の写真はありませんがとても盛大な大会でした。

スリランカで長い間続いていた内戦は終結を迎え、今はようやく平和の夜明けの時期を迎えています。
今回開催されたスリランカ大会は、上座仏教、大乗仏教、チベット仏教…あらゆる仏教国から平和に向けて歩みだしたスリランカの地に一堂に会して、仏教文化と平和について相互交流が行なわれました。

記念祝賀行事中 Mahinda Rajapaksa大統領も参列され、世界仏教徒連盟(WFB)から平和への貢献を顕彰し名誉勲章が贈られました。


すべてに亘ってダイナミックな経験をさせていただいたスリランカツアーの報告としてこのブログに徐々に書いていきたいと思います。

投稿者: kameno 日時: 7:14 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

スリランカに居リマス

今週一杯、スリランカを旅行中です。
まだ始まったばかりの旅ですがいろいろとエキサイティングな経験をさせていただいております。
また帰国後にご報告させていただく予定です。

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投稿者: kameno 日時: 11:36 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

鶴岡八幡宮の大銀杏順調に

木は人の心を知っている
愛されれば応えて生きようとしてくれるのだから
木の声がきこえる―樹医の診療日記』(山野忠彦著/講談社/1989年)より


今年3月10日、突然強風で倒れてしまった鶴岡八幡宮の県指定天然記念物「大銀杏」。
4月には小さな新芽がたくさん顔を出したというニュースがありましたが、その後どうなっているのでしょうか。

大切に、大切に…鶴岡八幡宮の大銀杏の根元に新芽
八幡宮は大銀杏の再生を願い、倒れた幹部分を根付かせるため先月(3月)14日に移植した。その一方、地面に残った根元から若い芽が出ることも期待していた。 大銀杏の樹齢は推定千年。境内の記帳所では倒木から1週間後の先月17日から(4月)1日までに、再生を祈る人々約2万5千人が記帳したという。
(産経新聞2010年4月1日)


なかなか鶴岡八幡宮境内まで行く機会に恵まれず、お盆過ぎにようやく叶いました。
まず目に飛び込んできたのは、元生えていた場所に立派に育っている苗木(挿し木やヒコバエ)たちです。
背丈は既に2~3メートルほどあるでしょうか。
ぐんぐん育っています。
なんという生命力でしょう。

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大銀杏が倒れてから、鶴岡八幡宮・鎌倉市・神奈川県は連携して素早い再生の手を打ちました。
倒れた幹は3つに切断され、根元から高さ4mの部分が、元の場所から7m西側に移植されました。
そして、元の場所には10cm程に切り分けられた枝が植えられました。
それらが、この夏を乗り切り、見事に再生しています。

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移植された幹からもたくさんの枝が伸びています。
再生を祈る人々の願いを乗せて、さらに勢いが増しているような感じがします。
銀杏は生長が早いですから、2~30年もすれば立派な大木に成長していることでしょう。
これからも順調に育ってくれることを心より願います。

 

午前中に参拝したとはいえ、気温は既に35度を越える猛暑となりました。
暑さを和らげてくれるのは蓮池の涼しげな花たち。
もう見ごろは過ぎていますが、まだまだ楽しめます。

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■関連ブログ記事
鶴岡八幡宮大銀杏の復活を願う

投稿者: kameno 日時: 12:01 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

鉄道博物館

横浜市仏教連合会・奉讃会の旅行で、鉄道博物館に立ち寄りました。
新しく埼玉にオープンした鉄道博物館に行くのは今回初めてです。
それにしても広いですね。
神田にあった交通博物館とはずいぶん印象が異なります。


日本の鉄道の黎明期から順に辿ることができます。
銘板にも歴史の重みが刻まれています。

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案内を館内ボランティアの方に戴きながら廻ります。
特に、座席の坐り心地など、あまり気づかない比較をすることが出来ました。
今の電車のシートが如何に無機質で硬いかがよくわかります。
メーテルが坐っていそうな車両もありますね。

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交通博物館では輪切りの新幹線が展示してありましたが、こちらは0系の先頭車両一両がそのまま展示されています。
「21形式新幹線電車(0系新幹線電車)車号21-2」(1964年製造)
東海道新幹線開業に向けて最初に量産された360両のうち大阪方先頭車両。
日本の高度経済成長を支えた貴重な車両です。

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それにしても開通当初はこんな本数だったのですね。

六角精児さん、越中詩郎さんが来ていました。
プレス向けの公開イベントのようです。
六角さんって鉄ヲタだったでしょうか。それとも『電車男』繋がりかな。

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・・・新番組「鉄道写真物語 1枚にかける旅」(BS12)の番宣トークショーだったようです。
やはり生粋の鉄ヲタでした。

投稿者: kameno 日時: 11:31 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

市仏連参拝旅行

横浜市仏教連合会・釈尊奉讃会では、市内の宗派を越えた寺院僧侶・檀信徒合同で参拝旅行を行なっています。
6月21日、大宮方面への一日旅行がありましたので参加してきました。
バス2台を連ねての旅行です。

【行程】
平成22年6月21日(月)
・東光寺 (拝登・拝観)
・関東管区教化センター(法話)
・昼食
・鉄道博物館(見学)
・高岩寺(とげぬき地蔵・拝観)


行程の最初、東光寺さまにおいて拝登諷経を営ませていただきました。
導師・市仏連会長 玄野老師

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拝観の前に、曹洞宗関東管区教化センター主監老師よりご法話を賜りました。
 
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その後、東光寺ご住職による由緒縁起、伽藍の拝観を丁寧にいただきました。

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良いものを見るということは、眼の保養にもなります。
特に檀信徒の皆様にとっては、他所の寺院の中を詳細にご案内いただく機会はあまりないために、よい刺激になったようです。


関係諸師の皆様方にはご丁寧なご接待ご案内、ありがとうございました。
心よりお礼申し上げます。

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(左)和製考える人 (右)十一面観音ネコ



■追記

東光寺様では、毎年春にさいたま市のアートフルゆめまつりの東光寺会場として、市民参加型の法要を模索して実践されています。
その模様は このブログ記事をご覧ください。

投稿者: kameno 日時: 2:24 PM | | コメント (2) | トラックバック (0)

移ろいゆくもの変らないもの

テニアン島は現在は人口3,200人のノンビリした島です。
かつての激戦が嘘のように海岸には波が打ち寄せています。

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この光景は戦前も戦後もほとんど変っていないのでしょう。

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美しい砂浜・・・・

海岸に植えられている椰子の木は、かつて入植者たちが植えたもの。
大きく大きく育っています。

砂は珊瑚が砕けたもので、場所によって細かさは様々です。
隣の海岸では、星の砂も。


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岩場では、波が洞穴から噴出している荒々しい光景も見られます。
別名「潮吹き海岸」
実に豪快です。

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島の南北を結ぶ道路は、アメリカ軍占領後ブロードウエイと名づけられました。
左にセントラルパーク、右にロングビーチ。
マンハッタンに似た区画としたのでしょう。


テニアン島もサイパン同様に悲しい歴史も残されています。
南端には「スーサイドクリフ(自殺岸壁)」と名づけられた岬がありました。
ここでも慰霊法要を営ませていただきました。

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下を覗くにはかなり勇気が要ります。

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テニアンで一番大きな集落、サンホセでは、かつては1万人規模の日本人入植者の大きな街が形成されていました。
現在も村のあちこちに面影が残されています。⇒こちらの記事も併せてご参照ください


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住宅地の合間の草むらに戦闘機のプロペラやエンジンの残骸が無造作に転がっていたりします。
よく残っていたものだと関心します。

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現在、この島は急速に変化していることが実感できます。
とにかく、中国、韓国系の資本流入が物凄いのです。
旅行者も、日本人より他のアジア系のほうがずっと多いのではないでしょうか。

サンホセの街には巨大なカジノホテルが聳えています。
これも中国系のホテルです。
中は新年休暇を過ごす中国人でごった返していました。

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テニアン空港にはカジノホテルの計画図(右写真)が掲げてありましたが・・・・・こんな風に拡張されるのでしょうか!?・・・

 
 


かつて数万人もの日本人入植者がいたテニアン島は、戦後のんびりした島であり続けました。
しかし、今後数年で大きく変ってしまうことが危惧されます。
 
 

特に、スーサイドクリフの慰霊碑は最近悪戯の被害にあっているそうで、入口にゲートが造られたものの、管理人常駐していないため意味を成していないそうです。

現在テニアンに在住する日本人は僅か十数人ということです。
草の根的に守っていくには限界があるでしょう。

日本人が街を築いていた足跡も、慰霊碑も、戦跡も、それらを保存し後世に伝えていく手段を早急に講じる必要性を感じます。
失われてしまってからでは手遅れなのです。

投稿者: kameno 日時: 9:19 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

テニアンに残される戦跡

テニアン島は沖縄や福島、山形などからの移民により開墾され椰子、砂糖、コーヒー、綿花の生産が行なわれました。
特に南洋興発による砂糖生産は昭和初期には台湾に次いで東洋第2位の生産量を誇り、日本からの入植者は約15700名を数えました。

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しかし、テニアン北部に南洋諸島最大のハゴイ飛行場(ウシ飛行場)があったこともあり、戦時中は日本軍の最重要基地として陸海軍合わせて約8500人もの軍人が駐屯し、第一航空艦隊に属する七六一空(龍部隊)の九六陸攻と一式陸攻40機が配置されました。
ハゴイ飛行場は1939(昭和14)年に日本人により建設された飛行場で、1450mの滑走路を誇ります。

上写真は海軍司令部の建物です。
二階建てコンクリート造り、アメリカ軍の爆撃の跡が生々しく残されています。

海軍司令部の北部には燃料貯蔵庫がありました。
建物は爆撃を受け大火災を起こし、その規模の大きさは天井から剥がれ落ちている巨大なコンクリート片や、飴のように曲がってしまったクレーンのレールからも想像できます。
燃料ドラムも生々しくそのまま残されています。

1つの建物は完全に爆破されてしまい、鉄筋がむき出しの破片が散らばっています。
これらの建物もジャングルの木々に侵蝕されつつあります。

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こちらは発電所跡。
頑丈な造りだったことが判ります。
爆撃の跡が生々しく残っています。

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ハゴイ飛行場滑走路脇にあるエプロンにも・・・

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戦況が悪化し、アメリカ軍機動部隊により1944(昭和19)年には度々の空襲を受けるようになり、2月23日に飛行場施設は壊滅し日本軍の航空戦力は潰滅的な打撃を受けてしまいます。

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旧海軍通信所跡


日本軍は満州遼陽から陸軍第50連隊を移駐させるも空しく、7月8日にはアメリカ軍によりサイパン島が占領され、8月3日にはテニアン島が占領されます。

アメリカ軍は占領後ハゴイ飛行場を拡充し8590ft(2590m)級の滑走路を4本建設しました。
ハゴイ飛行場にはB-29戦略爆撃機が大量に配備され、サイパン島・アスリート飛行場、グアム島・アンダーセン飛行場と共に日本本土空襲の拠点となってしまいました。


ハゴイ飛行場は、広島、長崎への原爆投下を行なったB-29が発進した飛行場であることも忘れてはなりません。
原子爆弾積荷が行なわれたピットは当時そのままに保存されていました。
積荷当時に撮影された写真を並べてみると、時間の経過が信じられない程そのままの姿であることが判ります。

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(左)リトルボーイ (中)ファットマン 積荷場跡
(右)1945年、原子爆弾搭載時にアメリカ軍が撮影したリトルボーイ

 

 
1945(昭和20)年8月6日、8月9日・・・原子爆弾はここからB-29に搭載され、空の向こうへ飛び立っていきました。
 
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投稿者: kameno 日時: 4:52 AM | | コメント (6) | トラックバック (0)

製糖の島テニアン

2日目はサイパン島の南隣にあるテニアン島へ渡りました。
現在は人口僅か3000人ほど、日本人は十数人しか住んでいないのんびりした島です。

テニアン島も、サイパン同様スペイン領の時代にはスペイン人からの迫害を受け、一時期無人島となり、その後ドイツ領となる時代には流刑地とされました。

1914年以降、日本が統治することとなり、多くの入植者が渡り始めます。
日本人によるテニアンの開発は南洋興発会社がサイパンからテニアンに進出した1926(大正15)年に本格的に始まりました。

南洋興発の製糖事業はミクロネシア全域に事業を拡大し「南国の楽園」と称される時代を築きます。
テニアン島は正に製糖業の中心地となり、1930(昭和5)年には一日の生産量が1200トンにも達し、さらに1934(昭和9)年にはさらに生産量1200トンの第二工場が完成します。

平地の多く土壌が良いテニアンはサイパンよりもサトウキビ栽培に適しており、1935(昭和10)年までの間に島の3分の1がサトウキビ畑になるほど製糖産業が栄え、島の人口は17,900人に達し、大いに賑わいました。

事業は製糖業から清酒、鉱業、農業へと発展した背景にはミクロネシア全体の人口の6割を占めていた沖縄県出身者の貢献がありました。


往時の面影は島の各所に残されている遺構から偲ぶしかありません。

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島の北部中央の茂みの中に埋もれつつある南洋興発会社の建設した神社の鳥居と本殿跡です。
柱には建立年が1941(昭和16)年とありました。
本殿までに二本の鳥居があり、一の鳥居、二の鳥居を抜ける参道の面影だけが残されています。
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鳥居の前には当時の線路が一部残されています。
線路が木の成長により幹の中にめり込んで地面から押し上げられています。
時間の経過を如実に示しています。
列車の車輪の一部のような金属片も落ちていました。


一番大きな街は島の南部サンホセであり、当時は1万人以上の日本人がここに暮らしていました。

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左写真は1944(昭和19)年、アメリカ軍により撮影された航空写真です。すでに制空権を獲得し侵攻準備が着々と進んでいたのでしょう。往時の整然と整備され賑わっていたたサンホセの街の様子がよくわかります。
右写真は航空写真(1)の南洋興発製糖工場を(2)方面から撮影したと思われる当時の写真です。(工場の煙突と貨物駅の線路からそのことが推測されます)


街に遺されている往時の足跡を訪ねてみました。
上の写真の製糖工場があったと思われる場所には、南洋興発の社屋建物の骨格だけが残されていました。

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社屋跡の前には次のような看板が掲げられていました。

南洋興発の主産業の中心は「砂糖の島」と呼ばれたテニアン島であった。テニアン島に進出した南洋興発は昭和3年に開墾をはじめ、昭和5年に1日原料生産量1200トンの最初の工場を完成し、昭和9年には生産量1200トンの第2工場を完成し、南洋屈指の工場となった。
製糖業の最盛期を迎え、人口も増え、学校や街ができ「南国の楽園」が創立された。
しかし、その夢も戦争により全て失われた。
失意に帰郷した沖縄出身者が再びテニアンを訪れ南洋興発の跡地に立った際、旧き良き時代への思いを新たにした。日本全国からこの地に移住してきた人々の功績を称え、この跡地を後世に残して頂きたい。


そのほか、航空写真(2)の場所には現在の街並みの中に混在して、戦前の警防団跡、消防団跡、刑務所跡など、当時の建物の一部が残されています。


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戦争により、これら全てが失われてしまうのです。

セスナから眺めたテニアン島中央?北部。
海の向こうにサイパン島が見えます。
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整然と広がっていたであろう日本人の開墾したサトウキビ畑も街も、今はもうありません。
冒頭の写真の南興神社の遺構もこの茂みの中に埋もれていきつつあります。

投稿者: kameno 日時: 12:53 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

バンザイクリフ

アスリート飛行場とタポチョ山の陥落により、サイパンにおける日本軍はほぼ全滅となりました。
島の日本兵や民間人たちは北へ北へと追いつめられ、最北端のマッピ岬の断崖から80メートル下の海に次々と身を投じました。
飛び降りた人の数は実に1万人を数えるとも言われ、一帯の海は真っ赤に染まり、遺体で埋め尽くされたといいます。

2005年には天皇・皇后両陛下がこの地に慰霊訪問されています。


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多くの方が身を投げたバンザイクリフの岸壁から下を見下ろすと、波が渦を巻いて岸壁に当たって高く打ち砕けています。
この岬は日本の方向を向いています。
飛び込んだ人々は「天皇陛下万歳」と叫んで飛び降りたと言われていますが、その思いは故郷を思い、故郷を守る一心だったのではないでしょうか。
ただただ心より哀悼の意を捧げるのみです。

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バンザイクリフを見守る観音様の前で慰霊法要を営ませていただきました。
それまで天気が比較的良かったのですが、法要中に一転スコールのような雨に見舞われ、ずぶ濡れになりながらの読経となりました。
一同、涙雨なのかと。忘れられない思い出となりました。

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バンザイクリフの直ぐ近くにはサイパン島北部に置かれていた日本軍司令部の跡が残されています。
マッピ山の岩肌を刳り貫いて造られた建物は、砲弾の跡が生々しく残り、60年を超える時代の経過を物語るように太い木の根が侵蝕しています。

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砲筒は海に向けられたままの状態で保存されています。
これら戦跡や慰霊碑は自然の経年変換のほかに、悪戯による人為的破壊も少なからずあるようです。
ただただ朽ち果てていくのを見守るだけでなく、保存の具体的対策を早急にとらなければならないでしょう。
 


■追記

Youtubeに「サイパン・沖縄戦を生き延びた住民達の証言」がアップロードされています。

http://www.youtube.com/watch?v=ZQQOa6yeffE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=THJNjlIm-9U&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=h6GCT-ZkwTw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ONqPMwEou2E&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=9GboyrsDBmg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=oGYsg_fYe10&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=t0v0PLMzAv0&feature=related

投稿者: kameno 日時: 5:22 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

タポチョ山とアスリート飛行場

サイパン島中央にそびえるタポチョ山に登ってみました。
この山へ続く道はかなり悪路でしかも急坂のため、普通の乗用車では走ることは相当厳しいと感じました。
バギーやレンタルバイクによるツアーと何度かすれ違いましたので、態と未舗装のまま残しているのでしょう。

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戦時中はこのような道路もなく、山頂に到達することはかなり大変だった筈です。
山頂に残されたパネルでは、人力でパネルには重装備の大砲を人力で運ぶ写真が展示されていました。

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日本軍守備隊は西方フィリピンからの第一移動艦隊が援護に到着することを信じ、それまでアメリカ軍を拘束するための大射撃をこの地から指示しました。

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山頂からの眺めをパノラマ写真にしてみました。

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右にアメリカ軍が上陸したレッドビーチ、中央にアスリート飛行場が見えます。
この場所からは360度、サイパン島全域が見渡せます。

レッドビーチから上陸したアメリカ兵は、アスリート飛行場とタポチョ山を目指します。
この2つが陥落となればサイパン全域を掌握したも同然になるからです。
 

6月16日、アメリカ軍第27歩兵師団が上陸後、直ちにアスリート飛行場に向け進撃しました。
アメリカ軍は火炎放射器で一気に畑を焼き払っては進むという作戦によりその日の夜には飛行場に到達します。

飛行場を死守したい日本軍は戦車第9連隊を中心に約8000名が総攻撃を行ないましたがアメリカ軍の圧倒的戦力の前に全滅してしまい、翌18日にはアスリート飛行場がアメリカ軍の手に渡ってしまいます。


6月27日、日本軍第317大隊はアスリート飛行場奪回の為に600人規模の夜襲をかけましたが、アメリカ軍に包囲され、全滅してしまいました。
旧アスリート飛行場(現サイパン国際空港)の敷地にも日本人慰霊碑が建立されています。
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(ここでも慰霊法要を営ませていただきました)

 


日本軍は組織的な反撃が出来ず、ゲリラ的な攻撃を散発的に行なうしかなくなり、斎藤中将は防御に適したタポチョ山に防御線を敷きます。
着々と進行するアメリカ軍の様子を、この山からどのような気持ちで眺めていたのでしょうか。

パノラマ写真の手前側に広がるのは「死の谷」と呼ばれた高原です。
サトウキビ畑や洞窟に潜伏する日本軍の機関銃攻撃は、アメリカ軍の進行を遅らせ、いつのまにかこのような名前が付けられたのです。

アスリート飛行場がアイズリー飛行場としてアメリカ軍により運用開始されるようになると、空からの偵察も可能となり、日本軍は完全に追い詰められることとなります。
6月30日、ついにこのタポチョ山がアメリカ軍によって陥落されました。


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7月7日、斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、陸海軍によるバンザイ突撃が行われました。
この戦闘で米アメリカ軍に死傷者658名の損害を与えたものの、日本軍はほぼ全滅。
パノラマ写真に写る一帯は両軍の死体が累々と積み重なる惨状となりました。
事実上サイパン島の日本軍は全滅し、7月9日にアメリカ軍ターナー中将がサイパン島の占領を宣言するに至りました。

投稿者: kameno 日時: 3:21 PM | | コメント (4) | トラックバック (0)

サイパン国際礼拝堂南溟堂拝登

今回の旅行はSOTO禅インターナショナル(SZI)主催により行なわれました。
昨年末の元国際布教師OB会・SZIに集まったメンバーの、次はサイパン結集でという一言が発端となり実現に至ったものです。
目的の1つは、サイパン国際礼拝堂(以下南溟堂)(Nanmeido: The Saipan International House of Prayer)への拝登でありました。


南溟堂は、静岡県出身の国際布教師・秋田新隆老師が20年前に発願、建立のための資金の殆どを負担され、さらに戦没関係者、岐阜県仏教会、信徒会の協力を得て5年の年月を費やし開創された超宗派の寺院です。


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平成2年10月に落慶法要がニューヨーク、シアトル、岐阜、愛知、静岡県から400人もの参列により盛大に厳修されました。

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大導師は岐阜県仏教会会長・正眼寺住職・谷耕月老師、導師は秋田老師とニューヨーク大菩薩禅堂・嶋野栄道老師が勤められました。
(余談ですが、先週は嶋野老師をお招きしてSZI主催の講演会を開催させていただいております。これもご縁だと感じます)

昨年2月まで秋田老師はハワイ・ヒロ大正寺の住職として着任されており、任期を終えられ、南溟堂を護持するためご夫妻でサイパンに移られました。


地元の新聞『Saipan Tribune』のインタビューに師は「南溟堂はサイパン市長事務所により管理されていたものの何年も無住だった。これからは戦没された方々の、アメリカ人、日本人、現地の方の区別なく、み霊を慰めるために寺を護持することが私の義務であると思う」「私は、生涯このお寺を護持するためにサイパンに居ることを決めた」と答えられています。

Japanese who built House of Prayer returns to Saipan『Saipan Tribune』

 
 


SZI会長導師により拝登諷経並びに慰霊法要を営ませていただきました。


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天徳巍々 慧日遠照三千界
玄猷耿々 慈光遍及万億年
 仰冀洪霊 俯賜臨照
上来 諷誦経呪 所集功徳 

サイパン島戦死病没者諸精霊
中部太平洋地区戦没者諸精霊
戦役殉難諸精霊

回向報地荘厳
伏願
万邦和楽 万難消滅 火盗潜消 所縁吉祥

 


法要後、秋田老師に由緒縁起をお話いただきました。

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暑い南の島で水も思うように飲めないまま散華した軍人、民間人、原住民、また闘いに明け暮れた相手国の人々・・・・サイパンには慰霊碑は数多く建てられているけれど、どれも野ざらしとなっています。
せめて屋根のついたお堂でゆっくり水を飲んで貰い、ゆっくり供養したい・・・秋田老師は南溟堂発願の動機を静かに語っておられました。

南溟堂の本尊は慈母観音。左右に梅花観音、阿弥陀如来をお祀りしています。20人ほどが坐ることができる坐禅単もあります。
本堂天井の中心からは大梵鐘が吊り下げられています。
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この大梵鐘は岐阜県仏教会の呼びかけにより造られ、船でサイパンに運ばれてきました。
サイパンの地から平和を願う佛声は、世界に向けて響き渡っています。


拝敷の上に梵鐘があるという一寸珍しい光景ですが、屋外に梵鐘を置くと悪戯の被害にあってしまうためこのような構造になっているということです。

実際、秋田老師がハワイに居られて住職不在の時期には心無い何者かに本堂のガラスが壊され進入され、仏具の一部(仏像の光背、獅子吼など)を破壊されてしまいました。
現在も傷跡が残されています。
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秋田老師夫妻を囲んで・・・

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南溟堂は砂糖王公園の中にありますが、一番奥に位置するためにツアーのルートには入っていません。

 「訪問者、旅行者、地元住人も、毎日開いている寺に参詣して祈りを捧げてくださるようお願いしたい」(秋田老師のことばより)

サイパンへ旅行される方は、是非南溟堂へお参りされることをお勧めします。


大きな地図で見る
(上の地図ではThe Saipan International House of Prayerと表記されています)

投稿者: kameno 日時: 12:05 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

教会の中の鳥居

サイパン西海岸南部ススペ地区では、不思議な光景が見られます。
カトリック墓地の入口に鳥居、そして墓石の合間に石灯籠など。
鳥居を潜った先の拝殿には「inari」と書かれたキリスト像が掲げられています。

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複雑なサイパンの歴史を如実に物語っている光景です。


元々ここにはスペイン統治下時代に建立されたマウント・カーメル教会がありました。
しかし、日本統治下時代には教会の墓地の中に砂糖工場と、さとうきびの豊作を願う南興神社が作られました。
南興神社の南興とは「南洋興発」のことです。

史料によると、南興神社の祭神は天照大神・大国主神・経津主神・罔像女神となっています。
「inari」キリスト像の土台の上にはお稲荷さんが祀られていたのでしょうか。


太平洋戦争アメリカ軍の上陸による戦闘でマウント・カーメル教会は破壊され、1949(昭和24)年、現在の姿に再建されました。

現在は、歴代のファザー、シスターの墓石が「INRI」(キリスト)の前に配されています。
また、砂糖工場の建物は、教会併設のマウント・カーメル高校として使用されています。


鳥居や石灯籠が何故撤去されずに残っているのか、キリストがなぜ神社本殿の上に掲げられているのでしょうか。
その理由の1つには撤去することによる「神社の祟りを恐れた」ということがあるかもしれませんが、この神社の建立主がサイパン発展に貢献した「砂糖王」松江春次であることが一番の理由であるように感じます。


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昭和12年長月吉日 奉寄進 松江春次


松江春次は島にとって特別な存在なのでしょう。
また、この教会の墓苑には日本人の名前を刻んだ墓石も数多く残されていますし、サイパン在住の日本人の墓地もあります。
宗教と人種を越えた混在がこの場所では見られます。

 
戦前のサイパンを写した古写真を見つけました。

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撮影年代は不明ですが、南洋興発の時代ですから昭和初期のものでしょう。
キリスト教会が教会として機能している様子がわかります。
戦前から信仰としてのキリスト教、仏教、神道が混在していたことを示しており、実に興味深い写真です。
そして、写真にはキリスト像も写されています。日本型の墓石も見えます。
マウント・カーメル教会のキリスト像は、元々別の場所にあったものが、戦後、神社の本殿の社が取り外され、そこに祀られたということが読み取れます。


  マウント・カーメル教会の前の砂浜は、1944(昭和19)年6月15日7時、アメリカ軍が上陸を開始したレッドビーチ海岸です。 僅か2時間程で300以上の上陸用装軌車、海兵隊8000名が上陸、日没までに海兵隊2万名以上の上陸を許しました。

これほどまでに簡単に上陸を許してしまった理由にはアメリカ軍がパラオ諸島に攻撃を行うと予期していた日本軍側の読み違いと、一旦サイパン北部に艦隊をちらつかせた揺動作戦に乗せられたことなど様々な悪条件が重なったことが挙げられます。

結果、独混47旅団、戦車第4中隊などが全滅してしまいます。


翌夜、形成を逆転するべく、約1000名の日本軍歩兵隊がレッドビーチを占領するアメリカ軍に対し44台の戦車と共に夜襲をかけました。
アメリカ軍海兵隊には約3500名の負傷者を出したものの、日本軍の歩兵隊はほぼ壊滅し、この地区に暮らす数万人もの民間人も、それまでの平穏な生活を一気に失うこととなります。
 

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レッドビーチに残されている日本軍の戦車。トーチカの上に乗せられています。
後ろに見える海よりアメリカ軍が上陸しました。
私たちが訪れたこの日は碧い碧い穏やかな海であったことが印象的でした。


マウント・カーメル教会入口に付近にある日本人戦没者慰霊碑において慰霊法要を営ませていただきました。
たまたま来られていた日本人の方も一緒にお参りされていました。

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ふと空を見上げると火焔樹の花が満開でした。
日本人たちはこの花を見て、桜並木を思い出したそうで「南洋桜」という別名があります。
大きなサヤエンドウのような実をつけている木もよく見かけました。

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マウント・カーメル教会のあるススペ地区は、サイパン国際空港から主要なホテルのあるガラパン地区に向かう途中で必ず通る場所です。

しかし、サイパンを訪れる日本人観光客のほとんどは、ここを通り過ぎていくだけです。
 



サイパンの攻防をアメリカ側から見た資料があります。
日本側の史料と比較してみると双方の視点から概観することができます。


『サイパン侵攻(The Invasion of Saipan)』(Brian Blodgett著)

投稿者: kameno 日時: 1:39 AM | | コメント (4) | トラックバック (0)

三代目の飛行場

前のエントリー記事の写真は、サイパン国際空港です。
この空港は、歴史上三代目の飛行場でもあります。

1933(昭和8)年、日本統治時代のサイパンのサトウキビ畑の中に開かれたのが初代の飛行場「アスリート飛行場」でした。
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(往時のアスリート飛行場)


二代目の飛行場は「アイズリー飛行場」
アメリカ軍がサイパンを占領すると同時に、アスリート飛行場を拡張して日本本土への空襲を行なうためのB29基地として第73爆弾飛行隊が駐留しました。

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(B29が並ぶアイズリー飛行場・CC:Wikiペディア)

 
そして三代目が現在の「サイパン国際空港」です。
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サイパンのあるマリアナ諸島は16世紀にマゼラにより発見されてから3世紀に亘りスペイン統治下にありました。
しかし、島民に対するのキリスト教化に次第に島民は反感を抱くようになり、スペイン・チャモロ戦争が起こります。スペインは軍隊を派遣し、島民が大量虐殺や移住させられたことにより、一時的に無人島となります。
その後、ドイツ統治時代にはサイパン島は流刑地とされてしまいます。

第一次世界大戦により南洋諸島全域は日本が委任統治することとなり、砂糖の生産などによりサイパンが南洋の玄関口となり栄えます。

横浜にあった飛行場の記事で書いたとおり、1939(昭和14)年には大日本航空海洋部が発足し、横浜?サイパン方面の定期便が運行を開始しています。
横浜の水上飛行場から毎週飛んでいたという記録があります。

 横浜 5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00 (この他ヤルート、ポナペなど)

現在は成田からジェット機で3時間あれば到着するサイパンは、当時は水上飛行機によって10時間もかけて運行していたのです。


一番有名な日本人は砂糖王と呼ばれた松江春次でしょう。
松江氏はサドウキビの栽培をサイパンに伝え、精糖事業での成功を収めました。

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ガラパン地区の砂糖王公園には、松江氏の銅像が戦禍を免れ残されています。

砂糖王公園にはシュガートレインのSLも保存されていました。

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当時の地図を見ると島内にはシュガートレインの線路がぐるりと敷設されています。
このようなSLが島内を忙しく走り回っていたのでしょう。
日本人入植者を中心に島の人口は約3万人にも膨れ上がりました。


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(サイパン国際空港に掲示してあった地図より・赤丸がアスリート飛行場)


 
しかし、戦争の影はだんだんと濃厚となり、1941(昭和16)年には大日本航空海洋部は海軍に徴用され横須賀鎮守府第七輸送機隊となり、アスリート飛行場も軍用の意味合いが強くなっていきます。


第二次世界大戦はサイパンに再び悲劇をもたらします。
島に日本軍の司令部があったこともあり、また、日本本土への攻撃の拠点としてのサイパンの重要性は日米双方共通の認識があった(つまりこの地の攻防が戦局を決する)ため、1944年6月アメリカ軍上陸作戦の際には住民を巻き込んでの激しい戦闘が繰り広げられました。

Wikiペディア「サイパンの戦い」項参照


サイパン各地には、今も生々しい戦跡が残されています。

今回の旅行は、それらの足跡を眼で確かめる旅でもあります。
何回かに分けて報告を兼ねて記事としてまとめて行きたいと思います。

投稿者: kameno 日時: 6:40 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

コバルト・ブルー

紺碧・コバルトブルー・・・・なんて深い碧なのでしょう。


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ケイタイのカメラでは回転するプロペラがこのように写りました。


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投稿者: kameno 日時: 10:11 AM | | コメント (0) | トラックバック (0)

ハートブッダ

客席を見守る仏像

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コバルトブルーの海を望む素敵なレストランにて

投稿者: kameno 日時: 11:55 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

アクセルとブレーキ

豊田社長ニューヨークでの発言の様子が流されています。
ブレーキ問題へのアメリカ下院議員たちの執拗な攻撃は凄まじいですね。

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全米に流れているんですね。影響は相当大きいでしょうし長期化が心配されます。


フィギアスケート女子フリーがまもなく始まります。

浅田選手は是非暗雲を吹き払うアクセルをばっちりきめて欲しいものです。

投稿者: kameno 日時: 6:49 AM | | コメント (8) | トラックバック (0)

太平洋を南下中

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現在、飛梅の如く太平洋上を飛行中です。
それにしても機内で無線LANインターネットがフツーにできるんですね。
パソコンは持ってきていませんのでWILLCOM端末からの書き込みです。
時々気が向いたら更新します。


追記

ということで、到着しました。


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+

投稿者: kameno 日時: 11:14 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

モンゴルに根付くチベット仏教とアミニズム

モンゴルにおいて遊牧民の住居・ゲルを訪問すると、北面に設置された仏壇に祀られたダライ・ラマ14世法王の写真を見ることが出来ます。

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街のいたるところでもダライ・ラマ法王の写真を見かけます。
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写真(左)はスーパーマーケット横に掲げられた看板
写真(右)はBuddhist Meditation centerの瞑想堂内

ダライ・ラマ法王とモンゴルの関係は深く、というより、ダライ・ラマという称号自体 1578年に当時モンゴルを支配していたアフタイ・ハーンがチベット仏教ゲルク派の高僧・ソナム・ギャツォを招聘し、贈った称号です。
「ダライ」はモンゴル語の「海」であり、チベット語では「ギャツォ」となります。
ダライ・ラマ14世法王の法名は「テンジン・ギャツォ」でありますね。
「ラマ」はチベット語の「指導者」を意味しています。

清朝の時代には、チベット仏教があまりにも盛んになりすぎて、人口の半数近くが出家してしまい、労働人口が激減したという問題を引き起こしたほどだったそうです。


しかし、1917年のロシア革命勃発以降、モンゴル人民政府を樹立徹底した親ソ・社会主義路線をとるようになると1929-32年に行われた厳しい宗教弾圧が徹底的に行われます。
モンゴル語のキリル文字使用が決定されたのもこの頃です。
識字率を高めるという大義名分でしたが、その本当の目的はモンゴル文字で書かれた古典書籍を読むことが出来ないようにするということのようでした。

1990年にはようやく一党独裁が放棄され、1992年には新憲法が制定され、社会主義は放棄されました。
人民革命時には、唯一ウランバートル市内のガンダン寺のみ宗教活動が許されており、社会主義放棄後はガンダン寺が中心となって国内寺院の復興が行われています。

宗教の自由が保障されたことにより無宗教層や他の宗教も増えているようですが、やはり主力はチベット仏教のようです。
先日、貞昌院にモンゴル人の馬頭琴奏者一家がいらっしゃった際にも、本堂で丁寧な五体投地の礼拝を繰り返しされておりました。


現在、ガンダン寺には宗教大学のほか、小学校も併設されています。
モンゴルでは、中世には仏教寺院に子どもを預けチベット語を習得させることが行われていましたが、その姿が徐々に戻っているのです。
現在では僧侶を目指す多くの若者が僧院に住み込みながら学問研究する姿が見受けられました。

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訪問した午前中の時間に寺院で営まれていた法要は、日本で言えば施食法要の、それも名古屋で行われているような一施主一法要(供養内容は御祈祷に近い)のような形を取っているように見えました。

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法螺貝のような音に導かれ僧侶たちが集まり(写真左)、堂内に上殿(写真右)し、法要が始まる


唱えられている読経はダライ・ラマがチベットの守り神であることもあり、観音真言「オン・マニ・バドメー・フーン」が繰り返し唱えられ、斎時には施主の前で食事を摂るという摂心供養の施主のような感じでありました。
日本の禅寺と徹底的に違うのは、法式作法がかなり柔軟的であるということ。おおらかな面も多く見られます。


寺院境内のマニ車や柱、街中や道路筋にあるオボー(道祖神のようなもの)では熱心に祈る信者の方々の姿(特に若者が目立ちます)を目の当たりにしました。

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オボー(下写真)は集落の境界、峠、寺院の脇、丘の上などでよく見かけました。

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巻かれている青い布は一番崇高な神様、「天の神様」を表すそうです。
施主が柳の枝を立て、僧侶が供養の法要を行った後、青い布(ハダク)が巻かれていきます。
脇には石が積まれ、旅人たちはここで旅の安全を祈り、石を積み、馬のたてがみや、供物を置き、右回りに三周して感謝の意をささげます。先日のブログ記事で、石の上にギプスが置かれていたものは、旅程を無事終えることができたことに対する感謝の意であるそうです。

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このように、モンゴルではチベット仏教以前に大自然、特に天と地を大切に扱うアミニズム的な信仰も根深いといえます。
酒宴の席では、乾杯の前に指先を杯につけ、天に弾いてから口にしますし、遊牧民たちは乳絞りの際に一番目の乳を天と地に捧げます。
大地や川をを絶対に汚してはいけないという教えも受け継がれているそうです。


さて、中国では、中国政府によりチベット自治区をはじめ、チベット仏教に対する弾圧が強められています。
昨年8月、ダライ・ラマ法王がモンゴルへ訪問された際、何千人もの民衆が法王を歓迎しました。訪問先のウランバートル・ガンデン寺では、観音堂の外で、法王は歓喜溢れる民衆や僧侶たちと対面し、スタジアムでは満員の信者の前で講演を行ったそうです。
それに対し、中国政府はモンゴル政府による法王受入れを非難し、モンゴルへのチャイナエアラインの突然のフライトキャンセルなど空の便を妨害したのです。


モンゴルでは一時期宗教が弾圧されていた時期があったとはいえ、仏教徒の中では徐々にそれが復興されチベット仏教がモンゴル仏教として生活の中で自然に取り入れられている一面を見ることができました。
郊外にある墓地や火葬場の様子も見ることが出来ました。
中国の仏教とはまた別の方向性で進んでいるのですね。
 

・・・・・・・・これでモンゴル旅行記は一段落とします。
近くて遠い国というタイトルで始まブログ記事でしたが、今日の記事を書き終えて、近くて身近な国となりました。
末筆となりましたが、旅行中においてGNCモンゴルをはじめ、多くの方々にお世話になりましたことに感謝申し上げます。

なお、モンゴルにおける宗教事情についてはtenjin95さんがSZI会報42号(12月発行予定)で執筆予定でありますし、ブログ(つらつら日暮し)でも詳細にまとめられていますので、併せてご参照ください。


■関連ブログ記事

中国で広がる宗教心 ‐追記

投稿者: kameno 日時: 4:25 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

3億5千万年前の煌き

貞昌院の定例坐禅会は、6月の間2回もお休みしてしまいました。
お詫びのしるしといっては何ですが、モンゴルのお土産として岩塩をプレゼントさせていただこうと思います。


モンゴル岩塩(モンゴルがんえん)は、モンゴル国の北西部、ウヴス県(Uvs Aimag)のウヴス・ヌール盆地(Uvs Nuur Basin)に位置する岩塩鉱床より採掘される岩塩である。モンゴルでは、この岩塩鉱床で採掘される岩塩のみを限定して、ジャムツ・ダウス(Jamts Davs)と呼ばれる。
桃白色あるいは白色の岩塩で、その形成期間は約3億5千万年前とされる。
(出典:Wikiペディア)

ウランバートル市内のスーパーで買い物をする機会がありましたので、その際に購入したものです。
旅行先のスーパーやマーケットプレイスをぶらぶらショッピングするのは楽しいですね。

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売り場には生ビールのセルフ販売もあったりして・・・・


で、岩塩は、このスーパーの調味料売り場にさまざまな種類が売られていました。
その中で、きちんと Uvs Nuur Basin産のJamts Davsと明記してある一番信頼できそうなものを選んで買い込みました。
その量、約5キログラム。

この岩塩の産地では地元の人はこの山を「シュデン・オール=歯の山」と呼んでいるそうで、ここから採掘される岩塩には多くのビタミン類が含まれ、消化システムの循環をよくする働きもあるそうです。
また、料理以外にも歯を磨いたり、うがいをし、喉の炎症や歯槽膿漏から予防して来た伝統があるそうです。

帰国後、開けてみるとピンクやピンク系の灰色、白などさまざまな色をしています。

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今朝の坐禅会に参加される方にはもれなくお分けいたします!
お楽しみに

投稿者: kameno 日時: 11:51 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

モンゴルで見かけたものあれこれ

新しい発見との出会いは、街歩きを楽しくさせてくれます。
私たちの常識は必ずしも常識とはいえないということもわかります。

これまで、
中国で見かけたものあれこれ
フランスで見かけたものあれこれ

のように、発見シリーズをまとめてきましたので、今回のモンゴル版も記事として纏めてみましょう。


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スフバートル広場(政府宮殿前)にて。
大統領就任式が行われるため散水車による清掃が行われようとしていますが、エンジンがなかなか掛からない。なんと手巻き式です!

モンゴルのこどもたちが寄ってきて隙をみて水を貰っていっています。たくましいものです。



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植林地へ向かう道。
一人ではこんなところ不安で運転できないだろうな?



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佐川急便モンゴル支店・・・ではなく、中古の車両をそのまま流用しています。
COOPなどのトラックもそのまま。却ってお洒落なのかも。


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遊牧民のオートバイはピカピカに磨き上げられ、シートは派手なカバーで覆われていました。
「出入」「平安」・・・・いいですね?



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モンゴル式の乾杯は3度繰り返されます。
乾杯に当たっては、みんなの健康と旅の安全、出会えた事の感謝の言葉を唱えて祝杯を上げます。
この日ははじめ日本式で、次にモンゴル式で・・・・という具合に交互に行われました。
「ボルトガイ!」
こういう場が絆を深め、人のつながりを広めます。楽しい食事会でした。
なお、日本人とモンゴルの方は基本的な体のつくりが違います。お酒で勝負するのは無謀なことです。



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点灯していない信号を幾つも見ました。
日本ではきっと大騒ぎなのでしょうけれど、町の人達はまったく気にする様子がありません。


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トロリーバスは健在です。
(日本では黒部渓谷のトンネル内にしか残されていません)



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ザイサントルゴイに建立されている仏像。
仏像前に展開されているミニ遊園地がシュールです。
これを思い浮かべてしまいました。


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道端に詰まれた石の山とギプス。
この種明かしは後日いたします。




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ウランバートル近郊の山には夏至も近いというのに雪が降りました。


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製鉄の街、ダルハンで私たちを出迎えてくれた「アイアン・マン」(正式名称不明)


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電柱たちは腐食防止のため地面から浮かせてコンクリートの柱にくくりつけられています。


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刈り取った羊の毛に登って遊ぶ山羊


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ロシア国境で売られている川魚。
バイカル湖に注ぐ川で釣ったものを燻製にしたものです。
ウオッカと良く合うのですよ、これが。
(上記の「乾杯」の席でこの魚が出されました)


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ホテルの窓枠。
せめて傷防止のシールは竣工時に剥がしておいて欲しい・・・まあ、細かいことはいいか。



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モンゴルのインターネット環境から自分のブログにアクセスしてみた。
日本語フォントをDLしないとヨメマセン。


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・・・これは卑怯だ。



投稿者: kameno 日時: 7:45 PM | | コメント (4) | トラックバック (0)

幸せって何だろう

モンゴルを旅行中に幾つかの遊牧民の家・ゲルを訪問する機を得ました。
構造はゲル建築中 の記事をご参照くださると良くわかると思います。

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こちらのゲルには、シャープ製の太陽光発電設備が設置されていました。

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冷蔵庫が無いために、絞られた乳は火にかけられ、沸騰させます。
そこから、ウルムやバター、プリンが作られます。
訪問者に最初に振舞われるのはスーティーツアイ(ミルク紅茶)。
ボールツオゲ(揚げパンのようなお菓子)をスーティーツアイに浸していただきます。

このほか、マントウ(蒸しパンのようなもの)などを戴きました。

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天窓には干し肉が吊るされていました。
自然に燻製が出来上がる仕組みです。

これも冷蔵庫に頼らない自然の智慧ですね。
竈の熱源は、家畜の糞や薪が使われていました。

このようにしてみると、ゲルの生活はかなり地球環境に易しいものであるということがわかります。
物を必要以上に持たないという考えも、私たちには学ぶ部分が多いと思います。

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ゲルの中から、ドア越しに放牧されている羊やヤギの群れを眺めながらお茶とお菓子を戴いていきます。
贅沢な時間です。

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旅して情報から隔絶された世界にいて、改めて「幸せ」とは何かということを考えてみました。

幸せを図る指標の一つに GNH(Gross National Happiness)があります。
日本語だと「国民総幸福量」と訳されているものです。

この指標はブータンの国王が政治的判断を行う際の指標として考案したものであるといいます。
長い間鎖国されていた国であるブータンが、今後少なからず開かれた国になるにつれて、どのように展開していくのか、先進国の事例をつぶさに研究した結果、経済の発展が必ずしも国民の幸福をもたらすものではないという論理に基づいて作られました。

GNHで定められた国民総幸福度を図る指標は次のとおり。

・living standard(基本的な生活)
・cultural diversity(文化の多様性)
・emotional well being(感情の豊かさ)
・health(健康)
・education(教育)
・time use(時間の使い方)
・eco-system(環境への配慮)
・community vitality(コミュニティの活力)
・good governance(良い統治)


幸せは主観的なものですから、本人が幸せだと感じることができるのなら「幸せ」なのでしょう。
それを客観的な指標で表すのは困難なことかもしれない。

しかし、経済的な発展が経済格差や環境破壊や文化の喪失につながるというのは一理あります。


GNHとは別に、「幸せ」ってなんだろうということについて、「自分がどう感じているか」という簡単な質問による主観的判断を元にしたSWLS (Satisfaction with Life Scale)という非常にシンプルな調査があります。

右にその結果を書いてみました。

日本は残念ながら第90位。
モンゴルよりもずっとずっと下です。

「幸せ」だと感じている人が少ないのですね。

都市難民の増加や経済格差の拡大など深刻な経済問題を抱えるモンゴルのほうが、何故清潔で豊かに見える日本よりも「幸せ」を感じる人の割合が多いのか。
皆さまは何故だと思いますか?

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Nation SWLS Score
(Univ. of Leicester,2007)

DENMARK 273
SWITZERLAND 273
AUSTRIA 260
ICELAND 260
BAHAMAS 257
FINLAND 257
SWEDEN 257
BHUTAN 253
BRUNEI DARUSSALAM 253
CANADA 253
IRELAND 253
LUXEMBOURG 253
COSTA RICA 250
MALTA 250
NETHERLANDS 250
ANTIGUA AND BARBUDA 247
MALAYSIA 247
NEW ZEALAND 247
NORWAY 247
SEYCHELLES 247
ST KITTS AND NEVIS 247
UAE 247
USA 247
VANUATU 247
VENEZUELA 247
AUSTRALIA 243
BARBADOS 243
BELGIUM 243
DOMINICA 243
OMAN 243
SAUDI ARABIA 243
SURINAME 243
BAHRAIN 240
COLUMBIA 240
GERMANY 240
GUYANA 240
HONDURAS 240
KUWAIT 240
PANAMA 240
ST VINCENT AND THE 240
UNITED KINGDOM 237
DOMINICAN REPUBLIC 233
GUATEMALA 233
JAMAICA 233
QATAR 233
SPAIN 233
ST LUCIA 233
BELIZE 230
CYPRUS 230
ITALY 230
MEXICO 230
SAMOA WESTERN 230
SINGAPORE 230
SOLOMON ISLANDS 230
TRINIDAD AND TOBAGO 230
ARGENTINA 227
FIJI 223
ISRAEL 223
MONGOLIA 223
SAO TOME AND PERINI 223
EL SALVADOR 220
FRANCE 220
HONG KONG 220
INDONESIA 220
KYRGYZSTAN 220
MALDIVES 220
SLOVENIA 220
TAIWAN 220
TIMOR-LESTE 220
TONGA 220
CHILE 217
GRENADA 217
MAURITIUS 217
NAMIBIA 217
PARAGUAY 217
THAILAND 217
CZECH REPUBLIC 213
PHILIPPINES 213
TUNISIA 213
UZBEKISTAN 213
BRAZIL 210
CHINA 210
CUBA 210
GREECE 210
NICARAGUA 210
PAPUA NEW GUINEA 210
URUGUAY 210
GABON 207
GHANA 207
JAPAN 207
YEMEN 207
PORTUGAL 203
SRI LANKA 203
TAJIKISTAN 203
VIETNAM 203
IRAN 200
COMOROS 197
CROATIA 197
POLAND 197
CAPE VERDI 193
KAZAKHSTAN 193
MADAGASCAR 193
SOUTH KOREA 193
BANGLADESH 190
CONGO REPUBLIC 190
GAMBIA 190
HUNGARY 190
LIBYA 190
SOUTH AFRICA 190
CAMBODIA 187
ECUADOR 187
KENYA 187
LEBANON 187
MOROCCO 187
PERU 187
SENEGAL 187
BOLIVIA 183
HAITI 183
NEPAL 183
NIGERIA 183
TANZANIA 183
BENIN 180
BOTSWANA 180
GUINEA-BISSAU 180
INDIA 180
LAOS 180
MOZAMBIQUE 180
PALESTINE 180
SLOVAKIA 180
BURMA 177
MALI 177
MAURITANIA 177
TURKEY 177
ALGERIA 173
EQUATORIAL GUINEA 173
ROMANIA 173
BOSNIA & HERZE 170
CAMEROON 170
ESTONIA 170
GUINEA 170
JORDAN 170
SYRIA 170
SIERRA LEONE 167
AZERBAIJAN 163
CENTRAL AFRICAN RE 163
MACEDONIA 163
TOGO 163
ZAMBIA 163
ANGOLA 160
DJIBOUTI 160
EGYPT 160
BURKINA FASO 157
ETHIOPIA 157
LATVIA 157
LITHUANIA 157
UGANDA 157
ALBANIA 153
MALAWI 153
CHAD 150
IVORY COAST 150
NIGER 150
ERITREA 147
RWANDA 147
BULGARIA 143
LESOTHO 143
PAKISTAN 143
RUSSIA 143
SWAZILAND 140
GEORGIA 137
BELARUS 133
TURKMENISTAN 133
ARMENIA 123
SUDAN 120
UKRAINE 120
MOLDOVA 117
CONGO DEMOCRATIC 110
ZIMBABWE 110
BURUNDI 100


■追記
(6月19日割当の記事ですのでここに記載します)

6月19日の夕刻、モンゴルでキャンドルを灯してきました。
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これは、同じ日に行われる予定の戸塚・善了寺キャンドルナイトと同時刻にモンゴルで行うという約束を実行したものです。
キャンドルナイトの目的の一つが「便利な文明社会にどっぷりつかっている現状をいま一度振り返り、ろうそくの温かくやわらかい明かりに集まった家族、友人、皆と語り合うことによって、日常生活に還元していくこと」であるとするのなら、 SWLS指標の高い国ではあえて必要の無いムーブメントなのかもしれませんね。

投稿者: kameno 日時: 6:50 PM | | コメント (3) | トラックバック (0)

近くて遠い国モンゴル

SOTO禅インターナショナル(SZI)で進めている「塔婆供養で植林支援」事業は、2年目に入りました。
おかげさまで全国のSZI会員御寺院様をはじめ、多くの方の賛同を戴き、昨年度は2万5千本を越える苗木植林を行うことが出来ました。

その基本理念は、一本の塔婆で一本の苗木がそだちます卒塔婆を中心とした循環システム 塔婆供養で植林支援?植林を担う人材育成 などの記事でも書いていますのでご参照ください。

SZIスタッフの役員会で発案された何気ないアイデアを如何に実現させ軌道に乗せるのかということが重要なところです。

さまざまな植林活動を行っているNPO団体などとコンタクトを取りながら、実際にお会いしていく中でであったのが、今回の「塔婆供養で植林支援」のパートナー団体とさせていただいている GNC代表宮木氏でした。
SZI役員会で最初に諮った際は「なぜ塔婆供養での植林を日本では無くモンゴルで行うのか」という反応もあり、なかなかすんなりと進まない時期もありましたが、けれども、一度動き始めると順調に進むようになり、冒頭で述べたように、モンゴル・セレンゲ県スフバートル近郊のトジンナルスに 25,000本(10ha相当)のヨーロッパアカマツ(Pinus sylvestris)苗木の植樹支援を行うことが出来ました。


植林には、セレンゲ県森林動物センター長・ジャムスレン氏をはじめ地域の住民・学生約100名が作業に携わり、セレンゲ県森林動物センターにより定期的に巡回管理されています。

このたび、6月15日?20日の日程で、植林がどのように行われているのか、実際にモンゴル植林地へ赴くツアーを計画し実施いたしました。

その主な目的の一つは、もちろん会員の皆さまから寄せられた植林支援による苗木の生育状況を確認することでありますが、個人的には自分なりに持っていた「なぜ?」という部分に対する回答を明確にすることも重要な一つであります。

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今回のツアーには私も含めてSZIスタッフ3名が参加いたしました。

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悪天候による出発時間20時間遅れがあったものの、私たちを迎えてくれたのは雄大な光景と、現地の方々のおもてなしの精神。
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どのようなツアーだったのか・・・・・参加したスタッフはそれぞれブログを持っておりますので、それぞれの視点での報告がなされることでしょう。

 ⇒つらつら日暮らし
 ⇒新米尼僧のにいがた日記


拙ブログでも順次記事として纏めて行きたいきたいと思います。

なお、8月発行予定のSZI会報41号にもツアーの報告記事が掲載されます。
そちらもどうぞお楽しみに


※今回のツアーにはGNCモンゴルの皆さまをはじめ多くの方々に大変御世話になりました。心より感謝申し上げます。

投稿者: kameno 日時: 11:41 PM | | コメント (2) | トラックバック (0)

研修旅行@湯河原3

湯河原厚生年金保養ホーム

1週間以上の滞在型宿泊施設です。
病院と隣接しており、食事療法、リハビリに快適な環境が整っています。
一般の方の滞在も可能です。

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和室もありますが、特に洋室はバリアフリーで電動ベッドを備えた部屋も多く、高齢者やリハビリ中方にも安心です。
食事は1日(3食)1,600キロカロリー・塩分10g以下でメニューが作られています。


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調理実習室ではこのように設備が整っており、自由に参加できます。
トレーニングルームやカラオケ(発声・呼吸訓練)設備も整っています。

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素晴らしい設備が県内にあるのですね。

投稿者: kameno 日時: 5:12 PM | | コメント (0) | トラックバック (0)

研修旅行@湯河原2

http://teishoin.net/blog/001587.html民児協研修会2日目。
施設実地研修は 湯河原厚生年金病院 からのスタートです。


湯河原厚生年金病院

当院は厚生年金の福祉施設として昭和21年に設立し、整形外科・形成外科・外科・リハビリテーション科・リウマチ科を中心とし 、近代的な高度医療機器(MRI・RI・CT等)を備えた病院で、循環器・消化器・呼吸器疾患の治療にも重点をおいています。
また、豊富な温泉を利用し社会復帰に向けた理学療法及び作業療法など一貫した医療体制をとっています。 



最初に院長さん、事務長さんより施設の概要を説明いただきました。


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設立年からわかるとおり、戦後、特に民間の戦争障害者医療のために、整形外科診療を主にした療養所として設立されました。
それ以来、湯河原の核となる病院として整形外科・リウマチ科・リハビリテーション科を中心にした病院へと変遷しています。
ここの地域も例にもれず高齢化が進んでおり、丘陵地帯が多いことも相俟って訪問看護・訪問リハビリテーションなども行われています。
温泉を利用した治療も特徴のひとつです。


なお、新型インフルエンザの流行に備え、全員マスク着用での研修となりました。


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程度に応じた設備が整っています。

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通所リハビリの入口には、リハビリの一環として作成された看板が掲げられていました。
紙テープを巻いて作られています。

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食堂はセルフのシステムとなっています。
(もちろん、食事を食堂でとるれない方は別ですが)
カロリー、塩分の計算もされており、食事制限のある方には個別に対応されています。

写真では御紹介しておりませんが、通常運営されている中での研修ですので実際に患者さんと病院との関り方もよくわかりました。
そして何より清掃の行き届いた廊下とトイレ病室などが印象的でした。


⇒研修旅行@湯河原3 に続く

投稿者: kameno 日時: 3:38 PM |