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カテゴリー:コラム
貞昌院では毎週木曜日早朝に坐禅会を開催しております。
⇒スケジュールはこちら
定期的に行うようになって15年目を迎えました。
最初の頃は数名での坐禅会でしたが、今ではコンスタントに多くの方に参禅いただくようになりました。
坐禅会に参加されている方より、折に触れ短歌をいただいておりますので、まとめさせていただきました。
⇒ 参禅の思い出の歌 の続編です。
是非、この画面の上にある「たて書表示」をクリックして閲覧ください。
【参禅の思い出の歌】
生きている 心の底に 欲が住み 可愛くもあり 煩わしくも
朝まだき 参道通る 息白く 既に入りたる 打座の面影
湧き水の 池面を出でて 跳ね上がる 群れなす鯉の しぶきかがよふ
炎天下 異国の人も 舞ひ唄ふ ゆめ観音の 岩戸開くも
■貞昌院門前
あかときの 打座へ行く道 森の辺に 月あかあかと 沈みゆく見ゆ
打座の淵 幾重の我の 現はれて 大きく小さく 心を揺らす
吾が独り 始めし打座の 年経りて 十数名 友の目すずし
中宮寺 弥勘菩薩の み前に座して 微笑むみ顔 ただ仰ぎをり
東大寺 阿吽の相の 仁王像 人の心を 透かし見をらむ
幾たびぞ おおきみ仏 仰ぎたり 開けるみ手の 迫り来るらん
興聖寺 道元禅師の 禅の道 萬代かけて つつうらうらに
夢にまで 現れ出でし ダライ・ラマ うつつにみ声 給わるぞ嬉しき
■貞昌院 打座堂内に 五観の偈頌の とよもせり いただく朝餉 典座のたまを
結びには 打座で唱えし 経典の 秘めたる法を 説き給ひけり安楽の 法門へ ただ一筋に 壁に向き合ふ 打座の友びと
非思量 不思量底 思量の辺 あらばやとただ あらばやと経る
己なく み堂の床に おおうみの 黄金に映えて うつつにぞ現るる
貞昌院の 無為の行に 導かれ 十年の打坐 一刻のごとし
■平成21年3月26日
元日のみ堂にとよもす打座の鐘 法(のり)の灯(ひ)ともる貞昌院
大寒の打座のストーブ後背(こうはい)に 凍てつく体ほどけゆくなり
あかときの寒風すさぶ座禅会 友みな揃ひみ堂に入りぬ
只管打坐とはの時空に身をひたし 過ぎゆく時も我をも知らず
■平成21年5月16日
かたくなに凍てつく時節ようように ほどける春のいぶき漂ふ
はなまつり誕生佛に合唱し 甘茶を濯ぐ打座のみな人
春おそく忘れず来たり鶯の 朝の読経に合はせ鳴くかも
■SZI 總持寺 青山老師講演会
あな尊し聖哲の道を極め 悠久の真理諦めらるる命に感謝・生に誠を尽くしなむ 光にそひて残るみちをば
■平成21年6月11日
ニューフェイス青年男女堂にみち ともに座するは頼もしか りき
21.6.21■平成21年12月31日
あけやらぬ貞昌院の座禅堂 大晦日にぞ香の漂ふ21年貞昌院の座禅会 初(はつ)日に開き大晦日をもや
淀みなく波たたずに流れゆく 時は変われど始原のままに
21.12.31
■平成22年2月18日(木)雪 貞昌院春の雪音なく積もる貞昌院 外はさながら兼六の園
■平成22年4月8日(木)花まつり 貞昌院
ありがたやこぞ・この年も花まつり ながらへてまた甘茶濯ぎぬ
■平成22年5月8日(土)花まつり 龍宝寺
芍薬の花の綻ぶ龍宝寺 茶を汲む群れの善男善女
経文の皆立ち上がる龍宝寺 とよもす読経天に届けかし
龍宝寺五百羅漢の見下ろさるる み堂に揃ひ打座に入りけり
22.5.12
■平成24年2月1日
初打坐の 帰路立ちをれば 橋の下 光芒揺らぎ 日の昇りつつ
あかときの 参道凍てつく おほ寒に ソーラ温もる み堂に座して
ひと列の み堂歩む 足裏の 己がなき身の うつつを載せて
言の葉の 命・心と 言ふらめど 形も見えず こころせんをや
鎮もりて よくよく見れば 身のまはり 鳥草木も 生き耀へり
淀みなく 波の立たずに あるがまま 抱き流るる 悠久の大河
昨年亡くなったスティーブ・ジョブズをはじめ、01960-70年代のカウンターカルチャー世代に支持され、大きな影響を及ぼした『Whole Earth Catalog』という冊子があります。
これがその『Whole Earth Catalog』です。
(私が持っているのは 01971年版) ![]()
このカタログは、01968-01972年まで継続的に刊行されていた、Whole Earth=地球上のあらゆるものに関する「商品カタログ」です。
ただ、無条件に何でもかんでもで掲載されるわけではなく、
1)Understanding Whole Systems(全体システムの理解)
2)Shelter and Land Use(シェルターと土地の利用)
3)Industry and Craft(産業と民芸)
4)Communications(コミュニケーション)
5)Community(コミュニティ)
6)Nomadics(遊牧民族)
7)Learning(学習)
のように分類され、それぞれのカテゴリーにおいて、編集者・スチュアート・ブランドの厳選された眼によって選ばれたものだけが掲載されています。
その基準がこちら。
FUNCTION
1) Useful as a tool,(役に立つ道具である)
2) Relevant to independent education,(自立教育に関係がある)
3) High quality or low cost,(ハイクオリティー、もしくはローコストである)
4) Easily available by mail.(郵便で簡単に手に入る)
カタログの大きさはタブロイド版で、かなり大きく読み応えがあります。
パラパラめくって眺めるだけでも楽しい。
Zenに関する紹介もあります。
(Zen Mind, Beginner's Mindの頁)
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スティーブ・ジョブズは、02005年6月に行われたスタンフォード大学卒業式の講演においても、講演の結びとして『Whole Earth Catalog』を引用しています。
Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma ―which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.When I was young, there was an amazing publication called The Whole Earth Catalog, which was one of the bibles of my generation. It was created by a fellow named Stewart Brand not far from here in Menlo Park, and he brought it to life with his poetic touch. This was in the late 1960's, before personal computers and desktop publishing, so it was all made with typewriters, scissors, and polaroid cameras. It was sort of like Google in paperback form, 35 years before Google came along: it was idealistic, and overflowing with neat tools and great notions.
Stewart and his team put out several issues of The Whole Earth Catalog, and then when it had run its course, they put out a final issue. It was the mid-1970s, and I was your age. On the back cover of their final issue was a photograph of an early morning country road, the kind you might find yourself hitchhiking on if you were so adventurous. Beneath it were the words: "Stay Hungry. Stay Foolish." It was their farewell message as they signed off. Stay Hungry. Stay Foolish. And I have always wished that for myself. And now, as you graduate to begin anew, I wish that for you.
Stay Hungry. Stay Foolish.
Thank you all very much.
(英文はスタンフォード大学のプレスリリースより引用)
【日本語訳】
あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。
私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした。スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。言ってみれば、グーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたのです。理想主義的で、すばらしい考えで満ちあふれていました。
スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。70年代半ばで、私はちょうどあなた方と同じ年頃でした。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。ハングリーであれ。愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っています。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。ハングリーであれ。愚か者であれ。
(訳文は日本経済新聞の記事より引用)
このように、スティーブ・ジョブズも『Whole Earth Catalog』に多大なる影響を受けたうちの一人であことがよく分かります。
ジョブズ曰く、「まるでGoogleが出る35年前に遡って出されたGoogleのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念が、それこそページの端から溢れ返っている」という表現がぴったりの本であると、改めて読み返して感じます。
『Whole Earth Catalog』最終号の背表紙がこちら。
Stay hungry. Stay foolish.
ハングリーであれ。愚か者であれ。
ジョブズ自身、いつもそうありたいと思っていたことばであり、これからの時代を担う若者達にもそうあってほしいと願うことばでもありました。
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もう一つ、ジョブズの講演引用部分のことば、「あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください」
というのは、例えば
唯当(まさ)に日日(にちにち)の行持、其報謝の正道なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私に費やさざらんと行持するなり。
光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、身命は露よりも脆(もろ)し
何れの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか過ぎにし一日を復び環(かえ)し得たる、徒(いたず)らに百歳生けらんは恨むべき日月(じつげつ)なり、悲むべき形骸(けいがい)なり、設(たと)い百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬび)と馳走すとも、其(その)中一日の行持を行取(ぎょうしゅ)せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり、此(この)一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、此(この)行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし
【現代語訳】
何か特別に報謝のやり方があるのではなくて、日々の生活の上に自然と行ぜられていくやり方である。
それはこれがご恩報謝であると意識して行ずるようなことでなく、鳥の空を行き、魚の水に住むように、鳥と空と相識ることなく、魚と水と相識ることなく、 しかも空に涯なく、水に限りなく悠々たるようにあることが、恩を知り恩を報ずることの端的であり至極のすがたである。
私共の日々のいのちを大切にして、恣意に費やさないように行ずることである。 それは、鳥と空、魚と水のようになっているとき、自然とそのように行ぜられていることになっている。
月日の過ぎゆくはまことに速やかであり、それは矢よりも早い。
この月日の流れの中に生きていく私共のいのちは草の葉にやどる露よりもはかない。
どのようなよき手だてを用いて見ても、過ぎ去りし日を呼びもどすことは出来ぬ。
かくて意味もなく百年の年月を生きても、それは只はかなき生のいとなみのみというべく、無駄な年月であり、つまらぬ形骸(むくろ)というべきである。
されど、そのように物の世界の中を走りまわったような百歳であっても、その中で一日でも、真実の道理に従った生活ができたならば、その一日の行持の功徳は、あまねく一生の全体を蓋うだけでなく、更に又そのようなすばらしい百年のいのちをもう一度過ごしたのと同じ徳があることになる。
この一日のいのちは尊ぶべきいのちであり、尊ぶべき身体である。
真実の道理に従った一日の行持、それは特別の一日でなく、極めて平凡な一日であっても、それが輝ける仏の御手の中の 一挙手一投足であることに気がつき、仏の御手を使い、仏の御足を歩むことであることに気づく。無量寿の仏の御いのちを歩むことであると気づかせて頂く。 そう気がついて見ると、いままでいたずらに過ごして来たと思っていた年月全部が、それがそのままに仏の御いのちの中のいとなみであったことに気づく。 このような行持を保ち得て、仏の御いのちをいのちとして生かされるこの自らのいのち、それは今までいたずらなるものと思っていたが、実は心より敬愛すべき身心である。
のような(これは一例ですが)思想が根底にあると考えられます。
2月16日のSOTO禅インターナショナルの講演会「スティーブ・ジョブズと北アメリカの禅」
では、このあたりを掘り下げていければと考えております。
昨日、2月26日は禅宗・曹洞宗の開祖道元禅師の誕生日、ロング・ナウ的には道元禅師「00812歳」の降誕会を迎えました。
横浜開港150周年の関連事業として開設された「みんなでつくる横濱写真アルバム-市民が記録した150年-」 プロジェクトには様々な貴重な資料が集められています。
その中の一枚の写真に注目してみます。
![]()
青木橋 1958年 (CCオリコンさん)
神奈川・本覚寺門前から見た青木橋交差点。
市電、三ツ沢方面と横浜駅(現東口)方面との分岐点で、信号所が立っていた。横浜駅の周辺に建物は何も無い。
1958年といえば、日本がようやく占領時代を終え戦後復興の第一歩を歩みだしたころです。
そして、今年(2012年)私が同じアングルで撮影した写真がこちら。
現在私が勤務している神奈川県第二宗務所は、写真の右端にある建物です。
二枚の写真には53年もの時間の経過があります。 ![]()
青木橋越しに見える横浜駅周辺のビル群、そしてかつてあった市電の軌道と信号所。
ずいぶん変化したものです。
しかし、写真をさらに詳細に見ていくと、変化していない部分も数多く発見できます。
一部拡大して並べてみます。
モノクロ(並んでいる上または左)の写真が 1958年
カラー(並んでいる下または右)の写真が 2012年です。
青木橋の防護フェンス。おそらく更新はされているでしょうけれどほとんど形が変わっていません。
写真から発見することはたくさんあります。
そして、同じ場所からの眺めを定点観測的に捉えると、時代の変遷を捉えやすくなります。
街の何気ない写真も、保存、整理していくことが大切です。
青木橋付近の別角度からの新旧写真を並べた 神奈川宿青木橋今昔 も併せてご参照ください。
テレビや新聞には数々の広告がが流されているけれど、昨年3月に開業した九州新幹線の開業記念CMのように心に残るものはほんの一握り。
しかし、この東芝のCMには見入ってしまいました。
「1日目、電球をLED電球に取り換えた。10年。3653日。僕とLED電球の日々は、はじまった」
環境に優しいLED電球・・・
「この電球に変えると二酸化炭素排出を○○kg削減します」
「電気代が90%以上安くなります」
このような安直なコピーは簡単に浮かびます。
けれども、そんなことよりも、LED電球の寿命10年間で、その明かりがどれほどの日常生活を照らし出していくのか。
そのほうが安直なことばを並べるよりもよほど伝わってきます。
蛇足になりますが、スティーブジョブスも、新製品のプレゼンにあたっては、スペックが云々、ということは言わず、その新製品によってどのようなことができるのか、どんな体験が出来るのかについて具体的に提示しています。
i-phoneやi-padのCMを見れば明らかですね。
i-padの性能や、画面の解像度がどんなに凄いのかは敢えて語らず、
どこでどのように使うことができるのか。
ライフスタイルをどのように変えてくれるのか。
そういったことにきっと一般消費者の関心はあるのです。
「変わらないようで、変わってゆく毎日。同じ日は1日としてない。10年、3653日、十年前は想像しなかった自分・・・」
それぞれの場所のそれぞれの照明は、10年後にどのような情景を照らしてくれているのでしょうか。
さらに蛇足
最近流れているACのコマーシャル。
どこかで見た光景だな~と思っていたら、上大岡を望む光景だったんですね。
■関連リンク
東芝10年カレンダー公式版(PDF)
年の瀬を迎え、新聞、テレビなどでは今年の総括として「十大ニュース」などがまとめられています。
2011年は、さまざまな東日本大震災をはじめとする災害・原子力発電所の事故と、日本にとって大きな年でありました。
当ブログでも。毎日の記事より一年を振り返って十大ニュース風にまとめてみました。
2011年の総括です。
| できごと | 関連ブログ記事 | ||
| 1 | ドイツ声明公演 | 記事1 記事2 記事3 | 文化庁の助成金をいただいてのドイツ3都市での公演でした。 |
| 2 | 東日本大震災 | 1 2 3 4 5 6 7 8 ほか | 忘れることの出来ない年になりました。 |
| 3 | 演劇「彼方、蓮台野にて」 | 記事1 記事2 ほか | 本堂に本格的な舞台を築いて行われました。 |
| 4 | 横浜の記憶を写真で残すためのシンポジウム | 記事1 | 学ぶことの多いシンポジウムでした。 |
| 5 | 節電の一年 | 記事1 記事2 記事3 | エネルギーの大切さが身にしみた年でもあります。 |
| 6 | 中国琵琶と声明の世界 | 記事 | シャオロンさんとの久し振りの共演です。 |
| 7 | 貞昌院に京急大師線レール設置 | 記事1 記事2 | 京急レッドトレインガーデンで落札したレールです。 |
| 8 | 第13回ゆめ観音アジアフェスティバル | 記事1 記事2 記事3 記事4 | 継続は力なり。鎌倉市長様にも参加いただきました。 |
| 9 | 皆既月食とダイヤモンド富士 | 記事1 記事2 | スカイツリー越しに見る皆既月食は圧巻でした。 |
| 10 | 再びサイパン・テニアンへ | 記事1 記事2 記事3 ほか | 地獄谷など前回行けなかった場所も巡ることができました。 |
振り返ってみると、今年も個人的にもお寺にも様々なことがあった一年でした。
また、多くの方々とのご縁が広がった年でもありました。
(写真はスカイツリーと皆既月食)
残念ながら、東日本大震災の影響で延期となってしまいましたが、開催されていればトップニュースになったであろうティク・ナット・ハン2011来日ツアー も予定されていました。
ここに挙げきれなかったものも含め一つ一つが大切な思い出であり、学びでもありました。
来年もきっと様々なことがあるでしょう。
新たな出会いを楽しみにしています。
今年一年間お世話になりました皆さまに心より感謝申し上げます。
来年がより良い年でありますように。
■関連ブログ記事
2010年の十大ニュース@当ブログ
2009年の十大ニュース@当ブログ
曹洞宗の大本山總持寺(横浜市鶴見区)では、修行僧たちは毎日毎食後に太鼓を合図に「百間廊下(長廊下)」を雑巾で拭き清めています。
この際に、当役の修行僧がジョウロを両手に持って長廊下脇のタタキ部分を一気に走りながら2本の真っ直ぐの水の筋をつけていきます。
そして廊下のゴール地点でジョウロをくねらせ水の筋を曲げます。
これは、鶴見事故の犠牲者(事故直後、この廊下に御遺体が並べられ安置されていた)への慰霊と、「みたま」が安らかなることを祈る水の筋です。
水の筋は長い線香とそこの先から出る煙を表しています。
もう一つ。
總持寺の大梵鐘は、毎日午前11時から撞いています。
大梵鐘は1分30秒間隔で九声。(八・九声目は30秒間隔)で、修行僧の鐘司非加番の当役です。
鐘司非加番は大梵鐘を撞き終えると、三宝殿の「桜木観音」前で線香を立て慰霊法要(立三拝、観音経読経、回向、立三拝)を営みます。
この二つは、一般世間にはあまり知られていないことですが、桜木町事故・鶴見事故以降、大本山總持寺で毎日営まれている鉄道事故被災者慰霊供養です。
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日本が敗戦からようやく立ち直り始め、高度経済成長期に入った時期に、立て続けに甚大な鉄道関連の事故が発生しました。
戦後五大事故と呼ばれるものです。
(1)桜木町事故 1951年(昭和26年)4月24日、東海道本線(現・根岸線)桜木町駅構内で、工事作業を誤り垂れ下がった架線に列車が接触し短絡(ショート)したことで発生した車両火災。死者106人、負傷者92人。
(2)洞爺丸事故 1954年(昭和29年)9月26日、青函連絡船「洞爺丸」が台風15号(洞爺丸台風)にあおられ沈没。原因の一つには運行管理者の判断ミスがあった。洞爺丸事故の死者は1155人、世界有数の海難事故となった。
(3)紫雲丸事故 1955年(昭和30年)5月11日、宇高連絡船「紫雲丸」が貨物船の「第三宇高丸」と衝突し沈没、死者166人、負傷者122人。修学旅行中の小学生・中学生が多数死亡した事も世間の非難を買った。
(4)三河島事故 1962年(昭和37年)5月3日、常磐線三河島駅構内で信号無視によって脱線した下り貨物列車に下り電車が衝突、さらにそこへ上り電車が突っ込み二重衝突に。死者160人、負傷者296人。
(5)鶴見事故 1963年(昭和38年)11月9日、東海道本線鶴見駅~新子安駅間で脱線した下り貨物列車に上りの横須賀線電車が衝突、その先頭車が下り横須賀線電車に突っ込み二重衝突となる。死者161人、負傷者120人。
これらの事故の背景には、戦後急激な経済成長に伴う輸送量増加対策に追われ、安全対策が追いつかなかったことが背景にあるとされています。
うち、桜木町事故、鶴見事故は横浜で発生した事故で、特に鶴見事故は大本山總持寺の間近で発生したものです。
桜木町事故(さくらぎちょうじこ)は、1951年(昭和26年)4月24日13時45分頃、神奈川県横浜市の日本国有鉄道(国鉄)東海道本線支線(京浜線、現在は根岸線の一部)桜木町駅構内で発生した列車火災事故である。ドアが開かなかったため脱出できず、多くの死傷者を出した。犯罪的所業によるものではないが、桜木町事件と呼ばれることもある。この事故後、自動扉つきの客車内には乗降扉非常圧搾空気開放弁(非常ドアコック)の設置と表示が義務化され、緊急時にドアを乗客が手動で開けられるよう法律が改正された。(ウィキペディア桜木町事故項)
鶴見事故(つるみじこ)は、1963年(昭和38年)11月9日21時40分頃に日本国有鉄道(国鉄)東海道本線鶴見駅 - 新子安駅間の滝坂不動踏切(神奈川県横浜市鶴見区)付近で発生した列車脱線多重衝突事故である。
なお、当日には福岡県大牟田市の三井三池炭鉱でも死者458人を出す大爆発事故が発生しており、「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」と呼ばれた。
事故地点における貨物線(品鶴線)走行中の佐原発野洲行き下り貨物列車(EF15形電気機関車牽引45両編成)後部3両目のワラ1形2軸貨車(ワラ501)が突然脱線。引きずられて架線柱に衝突した後に編成から外れ、隣の東海道本線上り線を支障した。そこへ同線を走行中の横須賀線電車の久里浜発東京行き上り2000S列車と下り線を走行中の東京発逗子行き下り2113S列車(いずれも12両編成)がほぼ同時に進入した。
90km/h前後という高速のまま進入した上り列車は、貨車と衝突。先頭車(クハ76039)は下り線方向に弾き出され、架線の異常を発見して減速していた下り列車の4両目(モハ70079)の側面に衝突して串刺しにした後、後続車両に押されて横向きになりながら5両目(クモハ50006)の車体も半分以上を削り取って停止した。その結果、下り列車の4・5両目は車端部を残して全く原形を留めないほどに粉砕され、5両目に乗り上げた形で停止した上り列車の先頭車も大破。上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事となった。(ウィキペディア鶴見事故項)
⇒毎日新聞 昭和毎日 桜木町事件 / 国鉄鶴見事故
今年7月に、中国新幹線が浙江省で衝突事故を起こし、40人が死亡、172人もの方々が負傷されました。
このときの世論は概ね、「さすが中国クォリティー」「日本ではありえない事故」「日本の新幹線は死亡事故を一度も起こしていない世界一安全な鉄道だ」・・・・などという論調が溢れていたと感じています。
しかし、その世界一安全とされる日本の鉄道も、数え切れないほどの甚大な事故と、犠牲となられた方々の上に成り立っていることを忘れてはなりません。
戦後五大事故の第一となった桜木町事故では、列車の三段窓が、乗客が外に逃げられない構造であったために、車両火災の際に逃げられず多くの犠牲者が発生しました。
これにより列車には「非常用ドアコック」が設置され、乗客が中から脱出できるように改良が加えられましたが、三河島事故の際には、その「非常用ドアコック」が逆に災いし、乗客が線路上に脱出避難し始めたところに対向列車が突っ込んできて多くの犠牲者が発生しました。
事故対策が必ずしも良い結果をもたらす訳ではないという教訓です。
それでも、一連の事故により、日本の鉄道は近代的保安確立への向けて原因究明と自動列車停止装置(ATS)設置などの開発など対策が徹底的に重ねられました。
結果、五大事故以降、昭和58年には過去10年、責任事故による死者がゼロという記録も達成し、新幹線では現在も責任事故による死者がゼロという記録を続けています。
このように、鉄道の世界に限らず私たちの豊かな生活や安全は、これまでの度重なる事故や災害などを乗り越えた上にあるのです。
先日お会いした京急広報の方も、何度も鶴見事故慰霊で總持寺に来られたそうです。
京急だけでなく、首都圏の鉄道に係る方々は、ほとんど大本山總持寺に参拝されているはずです。
犠牲となられた方々の慰霊はもとより、その方々の夢や願いを後世に繋いでいくことを誓い、事故の教訓が後々生かされ同じ過ちを二度と繰り返さないことを祈られているのではないかと思います。
日本の鉄道が他の国に例を見ないほど世界一安全で正確といわれるようになった下地には、この日本人特有の「祈り」のこころが刻まれているからなのだと感じます。
災害・事故で忘れられない年となった2011年も、もう年の瀬を迎えます。
今年の重大ニュースが新聞、テレビで話題となる時節となりました。
この一年を振り返り、省みて、よりよい新年を迎えることができますことを願います。
■関連ブログ記事
過ちや失敗を繰返さないために
■関連リンク
大本山總持寺境内にある鉄道事故関係慰霊碑等について
桜木町電車事故死者慰霊碑(桜木観世音菩薩立像)/鶴見事故慰霊碑
いつもお世話になっている仙台の酒屋さんを通して、石巻・平孝酒造『感謝の手紙』が届けられました。
以前ご紹介した『希望の光」と対になる地酒です。
『希望の光』は、震災、津波で生き残った醪(もろみ)により造られた力強い味の酒。
そして『感謝の手紙』は、地元の多くの人々の想いが込められた特別な新酒です。
酒蔵からの「感謝の手紙」が裏に貼られています。
現在、弊社では震災で壊れた蔵の復旧工事を進めながら、何とか新しい酒造りを再開しております。復旧工事にあたりましては、現状復旧ではなく、より高い次元で酒が造れる設備を導入いたしました。酒質の向上で応えることこそ、御愛飲頂いている皆様に対しての恩返しであると共に、震災なんかに負けていないことの証明にしたいと考えております。(中略)
私達、日本酒の蔵元は日本各地に多く点在し、其々の町の明かりを灯していると思っております。日本文化の担い手としての自負を胸に、これからも地域の明かりを灯して参りたいと存じます。そして、全国にいる精鋭の蔵元達と、これからも質の高い酒造りで凌ぎを削りながら、日本酒業界を盛り上げて参りたいと存じますので、今まで以上の応援を宜しくお願いします。(裏ラベルより抜粋)
お酒とともに、特別に仕込み水を詰めた瓶も同梱されていました。
本当に嬉しい心遣いです。
この時期、全国各地から贈り物を頂きます。
(心よりの贈り物有難うございます)
東北からのものの中に、梱包材として地元の新聞が使われているものがありました。
改めてじっくりと読み込んでしまいました。
線路をオークション販売=重さ500キロ、限定1点―京急
線路売ります。重さ500キロ、送料別で―。
京浜急行電鉄は16~18日、川崎市の大師線で実際に使われていたレールや枕木のセットを、東京都港区の複合施設「シナガワグース」に16日開業する展示コーナー「京急レッドトレインガーデン」でオークション販売する。
京急によると、商品は長さ1メートルに切った重さ約50キロのレール2本と、長さ2・4メートル、重さ約160キロの枕木2本、専用かご「パイスケ」に入った砕石約15キロなどのセット。総重量は約500キロという。レールは1989年製で、昨年度まで使用されていた。
1点限定で16、17日は午前11時半~午後8時、18日は午後6時まで受け付ける。競売は5000円から始め、送料と設置費用は別に必要となる。
売り上げの一部は東日本大震災の被災地に寄付する。京急広報課は「鉄道会社初の試みだと思う。誰がいくらで買うのか、そもそも売れるのか分からないが楽しんでほしい」としている。
(時事通信 2011/12/12)
さすが京急。
粋なことをしますね。
是非入札したいところですが・・・一点ものなら落札は難しいかも。
いったい幾らの値がつくのでしょうか。
そして何よりも16日にオープンする「ポポンデッタ with 京急レッドトレインガーデン」が楽しみです。
⇒SHINAGAWA GOOSに「ポポンデッタwith京急レッドトレインガーデン」オープン!
名称 ポポンデッタwith京急レッドトレインガーデン
場所 品川駅高輪口徒歩3分 複合施設「SHINAGAWA GOOS」 2階
開業日 2011年12月16日(金)午前11:30から
営業時間 11:30~20:00
(1)京急レッドトレインガーデン(京急の鉄道資産の展示/京急の歴史年表の展示)
(2)ポポンデッタ シナガワ グース店(鉄道模型販売/京急グッズをはじめとした鉄道グッズ/大型のジオラマ(長さ4.2m×幅2.2m,線路の総延長約48m)
昨年末より曹洞宗神奈川県宗務所に通っております。
事務所は本覺寺様の御厚意により横浜駅に程近い場所にあります。
交通の便の良い場所です。
この場所は、かつての東海道神奈川宿があった場所です。
赤○が本覺寺です。
かつての東海道の道筋がよく判ります。
現在の宮前商店街から青木橋を渡り、鶴屋町と台町付近の高台を抜ける街道は現在も残されています。
地図上の「神奈川」駅は、京浜急行の神奈川駅ではなく、東海道線の神奈川駅で、現在の横浜駅より数百メートル東京寄りにありました。
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約100年前(左写真)と、現在、ほぼ同じアングル(青木橋から眺めた本覺寺方面)の写真を並べてみました。
東海道線沿いに走る国道一号線は片側3車線の道路となっています。
かつてあった理髪店、そしてお堂は、国道拡張により無くなってしまっています。
また、山門(日本初のペンキによる塗装がされたことで有名)から真っ直ぐ伸びていた参道は、やはり国道拡張のために写真左方向にぐっと曲げられています。
なお、現在の参道沿いの本覺寺会館に宗務所があります。
台風15号の塩害の影響で、山門両側のイチョウがだいぶ被害を受けています。
同じ場所からの眺めを定点観測的に捉えると、時代の変遷を捉えやすくなります。
街の何気ない写真も、保存、整理していくことが大切なのです。
折角の機会なので、これからも宗務所周辺の史跡を巡っていきたいと思います。
■関連ブログ記事
平常どおり何事も無く走っている電車・・・・・というキャプションを付けても違和感が全く無い光景。
しかし・・・・
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8月に書いた 時間のながれ のフォロー記事です。
2011年5月25日(震災発生後2ヶ月半)と8月26日(同5ヶ月半)、そして10月26日(同7ヶ月半)の同じ場所の記録の一部です。
↑5月25日 野蒜駅の北、鳴瀬川/吉田川沿いの水田は まだ海水が引いていなかった。
↑8月26日 少し上流の水田では稲穂がたわわに実っていました。
↑10月26日 雑草は綺麗に刈り取られて土が掻き回されています。来年には作付けができそうです。
写真中央部、震災以降仙石線の車両が同じ場所(野蒜駅-陸前小野駅間)で止まったままになっています。
冒頭の写真は、今週撮影した「止まったままの」仙石線の車両です。
仙石線は単線のため、野蒜駅で上下線がすれ違うダイヤになっています。
ちょうど地震発生時刻の直前、14時46分に野蒜駅を出発した石巻行き快速が、野蒜駅から数百メートル走ったところで地震により停車。
7ヶ月半も 同じ場所に放置されたままになっているのですが、不思議なほどに汚れが全く無くピカピカ輝いています。
どなたかが磨いているのでしょうか?
それとも風雨によって自然に汚れが落ちるのでしょうか。
しかし、車両の足元を見ると、錆だらけの線路が時間の経過を物語っています。
線路の向こうのほうはススキに埋もれてしまっています。
なお、野蒜駅を同じく14時46分に仙台あおば通方面に出発した電車は、やはり野蒜駅から少し仙台方向に進んだところで停車。
その後津波により流されてしまいました。
ヘリコプターから中継された、くの字形に曲がって住宅地にぶつかっている衝撃的な映像は、このあおば通行きの電車だったのでした。
⇒宮城・東松島市、仙石線列車が「く」の字(TBSニュース 2011/3/13配信)
仙石線はルートを高台に変更して敷設しなおすことを検討しているそうです。
そうなると、この部分の線路は廃線になるのでしょうか。
いずれにしても、一日も早い鉄道の運行再開を願います。
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「是非、現在の門脇小学校を見ていってください」
石巻水産の社員Aさんの案内で、震災直後火災に見舞われてしまった門脇地区に向かいました。
門脇地区の非難指定場所は門脇小学校であったため、多くの方が車を使って避難し、校庭には車が並んでいました。
そこに津波が襲いかかり、駐車していた車同士が激しくぶつかり合った衝撃で火災が発生したとされています。
その火は小学校校舎にまで延焼してしまいました。
また、門脇地区の他の場所でも火災が発生し、延焼してしまっています。
(当時の記録写真を、本の工房 真羊舎さんのブログ、津波と火災の後の門脇町と南浜町で見ることが出来ます)
現在は、校庭の瓦礫は撤去されています。しかし校舎はそのままの姿で残されています。
焼けただれた教室の中も見ることが出来ましたが、教室内の写真は遠慮させていただきました。
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震災直後、小学校の児童たちも多数学校に残っていましたが、先生たちが教壇を並べ桟橋を作り誘導により住民ともども裏山へ避難することができたため、たくさんの命が救われました。
この校舎は、震災の記憶を残し後世に伝えるために保存する方向で調整されているそうです。
反面、児童の多くが犠牲となった大川小学校は保存して欲しくないという意見が多く、恐らく取り壊しになるのではないかということでした。
その場所で家族、親族を失った方々にとって見るに耐えないものなのです。
そして、ここでは書くことが出来ませんが、ニュースでは報道されない様々な部分の話も多く伺いました。
「震災は建物だけでなく、人の心も壊してしまった」という言葉が重くのしかかります。
校舎北側にあるイチョウも、火災と津波の影響でだいぶ被害を受けているようです。
それでも沢山のギンナンを実らせていました。
今回の宮城県訪問の一つのきっかけとなったことは、ドイツ人写真家(FOTOGRAFIE Michael Santifaller氏)が、4年前に訪れたことのある仙台~松島の現状を実際に目で確かめてみたい。
そして、様々な方とお話をしたいということを相談されたことが契機でした。
Michael さんは、今年3月11日の震災のあった時刻にはウクライナ・キエフ(チェルノブイリ原発に近い都市)にいて、日本で大変大きな地震が起きたニュースを日本人の奥さんから一番に受け取ったそうです。
その後、来日の機会を調整していて、ようやく10月のこの機会ということになりました。
ドイツでは日本の原子力発電所事故のニュースが連日大きく報道されていて、まるで日本全体が放射能汚染されているような印象を持っている方も少なくありません。
日本の正しい状況を写真家の仕事として正しく伝えていきたいという思いを携えて来日されました。
石巻では、まずD源院様に拝登させていただきました。
D源院は、石巻北東部の高台にあり、石巻市街を見渡すことが出来る場所に有ります。
震災発生時から、多くの方が避難され、一時は400人もの方々がD源院本堂、客殿で集団生活を送られていました。
その詳細は上写真新聞記事、さんぜ通信のブログにてりんしょう様が書かれていますので、文末の関連リンクをご参照ください。
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避難所生活の中で子どもたちは合間の時間に写佛や石仏彫刻をしたそうです。
海外寺院(ハワイ正法寺)からのメッセージ
一時は400人にものぼった避難者は、仮設住宅に移る方、親類の家に移る方など徐々に減少し、8月にはD源院避難所解散式が行われました。
その後も、毎朝御詠歌を講員の方々が奉詠に来たり、子どもたちが遊びにやってきたり人の往来が絶える事がありません。
地域と密接に関っている寺院の一つの例といえます。
震災直後からの葬儀について、そして半年以上過ぎ、未だ行方不明となっている方々の葬儀のあり方、グリーフケアについて、Michael Santifallerさんを交え詳細にお話しを伺うことができました。
その後、街を見渡すことが出来る墓地で、津波発生時の状況を伺いました。
震災発生時、本堂の仏具が悉く倒れ、香炉の灰が散乱する中で、その片づけをしていると、地域住民の住民の方々がお寺に非難のために続々と集まってきました。
とにかく、非難に来られた方々の受入れのために建物内を整理していたたために、津波第一波の様子は見ておらず、改めて市街地を眺めると既に市街地はほとんど津波の底に沈んでしまっていたそうです。
引き波で多くの建物は損壊し、また地盤沈下により、現在でも大潮の際には一日に二度の冠水被害が多くの地域で引き続き起こっています。
石巻市では、リフォームであればその場に留まることが出来るのですが、損壊家屋を取り壊すと、その場所に建築をする許可が下りません。
また、復興全体計画に関る市の方針が未だ打出されていないことが住民の不安の一因となっているようです。
お世話になったD源院様の本堂で、Michael Santifallerさんと般若心経を唱えさせていただきました。
表面的な被災地の状況だけでなく、深淵の部分にも触れることができたのではないかと感じます。
Michael Santifallerさんは日本滞在で体験したことをドイツにきちんと伝え、また放射能汚染などのような風評による誤解が間違えてあるということを正しく表現したいと語っていました。
「心のケアなんてできない。共に悩み、涙を流し、供養の時を重ねることで心も落ち着き、人は前を向ける。それが寺の役目です」
(D源院住職様のことば)
被災地だけに限られたことではない。
どの寺院でも当てはまることですし、葬儀、年回法要、供養とは何かについての答えが凝縮されていることばです。
木の屋での缶詰の洗浄作業は、この日は午後2時過ぎに終了となりました。
何故まだ日も高いのに作業を終えなければならないのかというと、
昼過ぎから木の屋の前の道路脇側溝から水が溢れ出してきて
まもなく道路がこのように冠水し始めました。
この日は午後3時ごろに大潮を迎えるのです。
東日本大震災では、沿岸の広範な地域で地盤沈下が発生しました。
国土地理院のGPS測位による速報では石巻市・牡鹿半島で120cm、女川町で89cm、気仙沼市で74cm、岩手県陸前高田市で84cm、大船渡市で73cmの沈下が確認されています。
「もう、今日の作業は終了なので、象徴的な場所をご案内します」
木の屋の社員Aさんの車で各所を案内していただきました。
石巻漁港の周辺も地番沈下が著しく、主要道路(それも全車線ではなく一部車線)には砂利が敷かれて嵩上げされています。
砂利が敷かれていない部分は、このように海水の浸水が見られます。
台風と大潮か重なった際にはさらに嵩上げ道路も冠水し、被害が拡大してしまうそうです。
↑この場所は、かつては中央分離帯付き片側2車線の道路でした。
木の屋・石巻水産だけではなく、沿岸部の工場群の復興のためには
・工場を一旦更地にする
・敷地全体の土地を嵩上げする。
・その工程が終了してから工場を再建する
という、長い道のりがあります。
自治体によって応急の防潮堤が造られ、大型排水ポンプで排水処理を行っているそうですが、抜本的対策としての土地の嵩上げは、ほとんど手がついていない状況です。
地盤沈下による浸水で、工場再建のめども立てられず、マルハニチロ傘下の工場が既に閉鎖されてしまったり、他の工場でも撤退する動きも出始めています。
石巻水産を例にとれば、標高の高い場所にある工業団地に工場用地は確保してあるけれども、水産加工に必須である排水ができない場所であること、港から離れているために完全移転は難しい。
途方も無く長い道のりであるけれども、漁港近くのこの場所に工場を再建することを目指します、力強く語られました。
漁港では、仮設魚市場の建設が始まっていました。
国により、自治体により、一刻も早い具体的な対策が行われ、復旧復興が進みますことを期待します。
そして長い目での支援が何より求められています。
宮城県の沿岸地域に行って居りました。
神奈川県第二宗務所に管内御寺院様からお寄せいただいた梅花法具を届けることと、ドイツからのカメラマンの案内ということが今回の主な目的です。
その中での様々な出会いを順次書いていきます。
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仙台方面から国道45号線を北上、石巻市内に入ると巨大な缶詰型のタンクが道路の中央分離帯に横たわっているのが目に付きます。 ![]()
このタンクには(木)石水と書かれています。
木の屋石巻水産のロゴマークです。
海岸部にあった工場敷地内に設置されていた重油タンク(往時は鯨油を貯めていたそう)が津波により流されてきたものなのです。
木の屋石巻水産といえば、知る人ぞ知る金華さば缶を生産している水産会社です。
石巻は昨年の水産水揚高全国第3位の巨大港・石巻港を抱え、漁港の前は魚町(さかなまち)という町名であることが象徴するように日本有数の港町でした。
しかし、東日本大震災による巨大な津波第一波が地震発生後30分後に到達し、街の全域が波に飲まれました。
津波が引くまで丸3日間、水位が高い状態がつづいたそうです。
缶詰の倉庫、事務所は現在も震災時そのままの状態となっています。
「木の屋」の看板は無事でしたが、波により曲がってしまいました。
現在は真っ直ぐに戻されています。
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倉庫内部の壁に水位の跡が残されています。
第一波、第二波の水位はこの倉庫の天井付近。その後3日間に亘り2メートルほどのところに見える跡の水位のままだったそうです。
倉庫の中には100万個近い缶詰があったそうですが、大量の瓦礫と泥に埋もれてしまった状態でした。
震災直後、支援物資が中々届かない状況の中、地域の住民たちは木の屋の倉庫から流出した缶詰を食べて元気を取り戻しました。
また、倉庫内の大量の瓦礫と泥を片付ける中で、流されてしまったと思われる缶詰の多くが倉庫内にあることが判り、社員全員、各地から集まったボランティアたちにより少しづつ缶詰の発掘作業が行われていきました。
水も供給されない中の作業は困難を極めました。
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100万個の缶詰のうち、1/3は潰れてしまったり、品質が悪化してしまい食べることが出来なかったそうですが、残りの2/3は食用に問題なく、そのうち半分を水洗いして 「感謝の缶詰」として頒布されれることとなりました。
↑残念ながら食用にならない缶詰たち。
向こうに見える空地に缶詰工場があって、冒頭の巨大タンクが設置されていました。
現在も社員、ボランティアたちが協力して缶の洗浄作業が進められています。 ![]()
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缶の洗浄作業は11月半ばで作業が終了となるそうです。
それまでの間、洗浄ボランティアに参加希望される方は、木の屋へ連絡をお願いします。
数に限りが見えてきていますので、無くなってしまう前に行かれることをお薦めします。
今回特にお世話になった木の屋の社員Aさん。
有難うございました。
この「発掘缶」には、
・震災の記憶から立ち直り、前を向いて歩きたいという石巻の人々の想い、
・工場はなくなってしまったけど、一歩ずつ、少しずつでも復興を進めていきたいという私たち社員全員の想い
が詰まっています。
この缶詰を購入いただいたお客様に、約束をさせてください。
私たちは必ず、復興します!
だから、この缶詰の味を決して忘れないでください。
石巻の漁業が復活するまで、この缶詰はもう作ることが出来ません。
まだ数年はかかるとは思います。
でも、石巻の漁業と私たちの復興、その2つが揃ったとき、
必ずまた皆様に美味しい三陸の海の幸の缶詰をお届けさせていただきます!
その日まで、是非引き続き私たちを応援してくださいますようお願い申し上げます。
(木の屋からのメッセージ)
■関連リンク
木の屋石巻水産「感謝の缶詰」
貞昌院の裏山は、日限山まで続いており、この一帯にはかつて丸山という こんもりした山がありました。
(1975年 貞昌院で撮影した航空写真:以下のパノラマは●地点より撮影)
上写真の一年後、1976(昭和51)年に市営地下鉄上永谷駅が開業、この前後に行われた丸山台再開発事業により、このあたりは一変します。
駅が開設された当時は、丸山台は造成工事完了直後で、まだ更地の区画が並んでいました。
駅前広場やイトーヨーカドーも、まだありません。
今日のブログで紹介する写真は、丸山台の造成が一段落したころの様子を貞昌院の裏山から眺めた写真です。
パノラマにするつもりで撮影したものではないので、繋ぎ目が不自然な箇所があることをご了承ください。
はるか向こう側に野庭団地が見えます。
野庭団地は一足先の 1973(昭和48)年に入居が始まりました。
対し、丸山台は
1971(昭和46)年11月 丸山地区土地区画整理組合発足
1974(昭和49)年3月 造成工事開始
1976(昭和51)年2月 造成完了、排水、道路、電柱工事完了、その後仮換地、換地後、分譲事業が始まる。
1976(昭和51)年9月 上永谷駅開業
1981(昭和56)年4月 丸山台小学校開校
丸山台の住宅街も少しではありますが、埋まってきている様子がわかります。
丸山台小学校は前年に開校、駅前広場が完成する直前の写真です。
1982(昭和57)年 駅前広場が完成。 直後にベルセブン、イトーヨーカドー・ラポルトビルが完成、開業。
1985(昭和60)年 上永谷駅の開業から約9年目に市営地下鉄は舞岡まで延伸します。
このように、丸山台は、山を大規模に造成して出来たゆるやかな丘に生み出された街なのです。
そして現在へ。
小学生、中学生の頃、休みの日には友達と毎日のように自転車であちこちに出かけていました。
(散策の中で様々な街の発見があるわけで、今のPhotologのスタイルはおそらくこの時代に確立されたのだと思っています)
珍しいものがあれば写真に撮っていたのですが、ただ、当時はデジタルカメラがあるわけではなく、フィルム代、現像代、プリント代もお小遣いの範囲では無駄に使えるはずもなく、写真は大切に撮影していました。
その中で編み出した?方法は、ダークバック、現像タンクとリール、そして現像液、定着液をヨドバシカメラで買ってきて自分で現像するというものでした。
さらにモノクロの長尺フィルムを使えばかなりリーズナブルですし、しかもその日のうちに現像できますので重宝しました。
当時撮影したフィルムから、折をみてこのブログで幾つかご紹介していきたいと思います。
これは新幹線の工場、そしてそこで造られている0系の車両。
場所は、京浜急行金沢文庫と金沢八景の間にある東急車輛横浜工場です。
フィルムには1980年4月12日(土)ネオパンSS・ミクロファイン2倍増感と記載されています。
(東急車輛横浜工場付近の空中写真:国土変遷アーカーブより)
工場の隣には横浜市立大学があり、大学につながる道の踏切から望むことができました。
思わず新幹線を発見して嬉しかったことを覚えています。
さて、写真には線路が3本写っていますね。
また、新幹線車両の上には交流、直流の表示がありますね。
京急と新幹線の線路幅は一緒ですが、京急は直流、新幹線は交流。
また、JR在来線は京急、新幹線より線路幅が狭い。
東急車輛横浜工場では、新幹線のほか、京急、東急、JR(当時は国鉄)ほか海外の車両までをも造る会社ですので、それぞれに対応した線路幅、電圧が用意されているのです。
京急の金沢八景から逗子線の神武寺にかけては、JR在来線にも対応した線路が引かれ、製造されたJR車両は逗子線を通って横須賀線に運ばれます。
さて、日本の高度成長を支えてきた新幹線O系車両は、東急車輛のプレスリリース
にあるように、
東急車輛産業遺産第3号として0系新幹線電車前頭部を保存します
東急車輛製造株式会社(本社:横浜市金沢区、社長:金田 一朗)は、今年8月に創立62周年を迎えることを記念して、日本の高度成長期を支えた高速車両である0系新幹線電車の先頭部を東急車輛産業遺産第3号として指定し、当社の横浜製作所内に保存することとしました。0系新幹線電車は1964年(昭和39年)10月東海道新幹線開業時から使用された国内最初の高速鉄道専用車両です。東京-新大阪間の「ひかり」「こだま」号に使用され、最高運転速度は210km/hで、営業列車では当時の世界最速を誇りました。開業当初は12両編成でしたが、需要増加に伴い16両編成に増強され、名実共に日本の鉄道輸送の大動脈を担った車両です。1964年から1987年(昭和62年)まで38次に亘って合計3216両が新製され、当社は1967年(昭和42年)6次車から製作に参入、492両を製作し国鉄に納入しました。
今回保存する車両は36次車の博多方先頭車であり、1985年(昭和60年)1月に製作されました。JR東海に継承後1998年(平成10年)6月まで東海道・山陽新幹線で「こだま」号を中心に使用され、廃車後は静岡県の佐久間レールパークでシンボル的な前頭部が保存されていました。2009年11月同所の閉園に伴い2010年7月にこれを譲り受け、日本の高度成長期を支えた高速鉄道専用車両としての活躍を永く伝えていくため、東急車輛産業遺産3号として指定し、誕生したこの地に永久保存することとしました。(※一般公開はしておりません)
というように、製造された工場内に戻ってきて永久保存されるようになったそうです。
残念ながら一般公開されないそうですが、何だか感慨深いニュースです。
なお、当時は鉄道の車両工場は許可を得れば撮影も簡単にできましたし、時には中も案内してくれたりしました。
おおらかな時代でした。
最近は写真撮影すらできないそうですので、ルールは守るようにしましょう。
■関連ブログ記事
鉄道博物館
貞昌院の前には片側3車線の幹線道路(環状2号線)が通っています。
この道路が整備される前は、片側一車線の道路でした。
幹線道路の開通によって、車で遠くへ出かけるときには便利になりました。
反面、広い地域から車が集中するようになり渋滞が度々発生するようになり、却って旧道を通ったほうが早いことも間々あります。
一番不便な点は、道路の反対側にある場所へ行く場合です。
片側一車線であればそのまま右折すれば済むのですが、片側3車線、さらに中央分離帯や川が道路を通っている構造のため、しばらく進んでUターンしなければなりません。
さらに厄介なのが右折の矢印信号のある交差点です。
現行の道路交通法では、このように右矢印信号が表示されている場合は、その方向以外に進行することができません。
右折の矢印信号でUターンすると「信号無視」となり、交通違反となるのです。
ただ、この信号無視については、あまり周知されていないのか、わざとしているのか判りませんが、右折矢印信号でUターンする車が目立ちます。
試しに交差点でしばらく観察してみましたが、むしろ大部分の車がUターンしている状態です。
このような問題を受けて、来年4月1日には道路交通法が改正され、右折矢印信号でもUターンできるようになる予定(ただし、転回禁止の標識がある場所を除く)です。
ようやくの改正ですが、これにより多少は不便さが解消されるのではないかと期待しています。
それにしても、規則は、その内容を共有して成り立ちます。
認知度の低い規則は何らかの対策が必要でしょう。
右折の矢印信号でのUターン禁止以外でもこのような事例はたくさんありますね。
電気、ガス、水道、交通、通信など、日常の生活や産業活動に無くてはならない施設をライフラインと呼びます。
大災害の際には、このライフラインが断絶するこすことにより、被災地の人々の生活、避難所の生活に大きな支障が生じました。
また、病院でのライフラインの障害は命にかかわりますし、被災地復興の障害となります。
従って、一刻も早いライフラインの復旧が求められるわけですが、東日本大震災のように津波により広範囲に甚大な被害をもたらした大災害では復旧が難航し、なかなか回復しないこととなりました。
ライフラインの普及がどういう状況であったかを纏めている資料がありましたので、その結果を引用しながら考えてみます。
土木学会地震工学委員会「ライフラインの地震時相互連関を考慮した都市機能防護戦略に関する研究小委員会」資料
注意事項
・水道・都市ガス・電力の停止戸数の解消過程および復旧率について,東日本大震災と阪神・淡路大震災との比較を行った.最後のデータの5 月31 日は地震発生から82 日目であり,兵庫県南部地震では4 月8 日に相当する.
・東日本大震災の電力については,東北電力管内のみを対象とした.
・阪神・淡路大震災における水道被害は,兵庫県内のみを対象としている.
・阪神・淡路大震災における都市ガスの復旧過程では,1995 年2 月28 日に,倒壊・焼失した約152,000戸が復旧対象から除外された.しかし図21では,最大停止戸数からの復旧戸数を差し引いた値を示したため不連続となっていない.また図23では,「復旧率=(復旧対象戸数-停止戸数)/復旧対象止戸数」としているため不連続となっていない.
阪神淡路大震災では、地震直後に260万戸が停電したものの、数時間後には100万戸へと、半数以上が復旧しています。
6日目までにほぼ100%まで復旧しました。
電気の復旧は1週間以内、電話は2週間、水道とガスは3ヶ月程度が全体復旧の目安期間でした。
水道、ガスの復旧が遅れる要因は、供給経路が道路の埋設管(地下)にあることにより、地盤の変形によって管路が損傷を受けた場合に、その場所を特定すること、道路を掘り返して修復することが困難であるからです。
電気や通信のような架空線の場合は、容易に復旧が可能であることは、感覚的にもわかると思います。
電信柱と電線によって街の美観が損なわれる というデメリットもありますが、災害からの復旧の面から考えると、電信柱と電線のメリットもあるのです。
今年3月に発生した東日本大震災では、電気の復旧率90%になるまでに5日間を要し、それ以降95%程度の復旧率で推移し中々100%に達しませんでした。
この理由として、(1)津波等電気設備、幹線が損害をうけた。(2)地域全体で家屋建物が流失してしまった。(3)移転等によりインフラは健全だが送電できないもの。(5)原子力発電所事故による立入制限区域
等々、復旧に長期化が予想されることが挙げられます。
例えば東松島市宮戸島では、5月下旬になってようやく電線の工事が進み、6月になって一部に電気が復旧、水道の一部復旧は8月に入ってからです。
「震災の被害の地域差によってライフラインの復旧時期が大きく変わる」というのが今回の震災の特徴といえます。
未だライフラインが回復していない地域の早期回復を願います。
携帯電話の復旧状況を見てみましょう。
通信のトラフィックジャムもあったはずですが、それでも震災発生当時は半数程度の基地局で通話通信が可能でした。
このことが、多くの命を救い、また遠く離れた家族親類と連絡を取り合う手段となりえたことを示唆しています。
但し、震災発生翌日には復旧率がほぼ0になってしまいます。
震災後続く停電により、基地局のバッテリーが切れてしまったためです。
また、4月7日に発生した余震による停電でも基地局の停止により半数近くが不通となっています。
携帯電話は、その普及に伴い、重要なライフラインとなりました。 震災発生初期の段階での途絶を防ぐことができるよう、今後、さらに震災に強いシステムを構築することが求められます。
震災発生後のライフライン復旧の目安を知っておくことは、震災のための備蓄品の量を決定するための重要な手段となります。
今後、さらに詳細な分析がなされていき、データが発表されていくはずですので、留意し活用していくことが大切といえましょう。
明治14年ごろに描かれた貞昌院の絵図を2つ並べてみます。
(左)社寺明細帳図・貞昌院所蔵 (右)社寺明細帳図・神奈川県立金沢文庫所蔵
同じ絵図が何故2つあるのでしょうか。
その理由は、明治時代、日本が国策として天災地災など、不測の事態に対応できるように配置図を保存するために全国一斉調査を行ったことによります。
内務省社寺局により各府県に「神社寺院及境内遙拝所等明細帳書式」(後述)として通達され、寺社ごとに4部作成され、1部は内務省、残り3部は社寺、郡区役所、戸長役場で保存されました。
「神社寺院及境内遙拝所等明細帳」の「書式」は次のように細かく定められています。
■社寺製図凡例
1.社寺境内の建物などの配置を細密に模写する目的は、後日天災地異または不測の事態にあった場合でも、かつての配置を捜索考証するのに役立つからである。よって、その図面を保存することは重要であるから、4部を作成し、本庁(内務省社寺局)へ提出すること。そのうち3部は調査の上、それぞれ社寺、郡区役所、戸長役場にてこれを保存すること。その図面を作成するに当たっては次の項目に従うこと。
1.境内の地形を測り、その方位を定め、地種の等級を図中に明示すること。
1.祠堂、その地建物を画く場合、その位置と築造の2点に注意すること。
1.社寺殿堂ほか、装設してある灯籠、手洗鉢、唐獅子、石仏、瑞籬(玉垣)、板牆(みずがき)、土塀等については、境内外を問わず配置のままを記載すること。境内地形線をその境界に挿引して、区分を明示すること。
1.社寺の規模、境内の面積を客観的に観るために、すべて1/100の縮尺とする。製図者を見つけられないなど製作が困難な場合は、現状を細写するだけでもよい。
1.境内、池沼もしくは巨木、仮山など、一般の地形と異なるものがある場合は、これを詳記すること。その大小や形状を記することも前項に準ずること。
1.境界の周囲、町村にかかるものは、その町村名を記すこと。
1.社寺所在の地に接続する周辺道、および名所、旧跡、山河、瀑布(滝)などは、その名称と距離とをその方位に当て、記入すること。
1.これまでの項によるもののほか、すべて境内風致にかかわり、または将来の備考となるべきものは出来る限り掲載し、滞りなくこれを行うこと。原文:『松本ナミ家文書』「役場執務・寺社一二の二の(六)」(横浜開港資料館蔵) kameno意訳
細かく規定された書式の範囲で、絵師の特徴が出た絵図が全国各地で描かれました。
また、同じ貞昌院の絵図でも、寺院所蔵版と役所提出版を比較してみると、山の描き方、屋根の陰影の描き方など、細かい点で差異が見られます。
せっかくデジタルデータ化したので、2つの画像を重ねてみました。
本堂、庫裏といった主要部分については、きちんとトレースされています。
けれども、周囲の建物、参道など主要な建物から遠くなるにつれて寸法の差異がでるようです。
山の尾根線などはだいぶ違っています。
両者の差異を詳細に見ていくとさまざまな発見があります。
日本は自然災害の多い国です。
東日本大震災、新潟の水害、台風12号による土砂災害等々、特に今年は数百年ぶりの自然災害が相次いで発生しました。
また、木造建築は火災等で失われる危険性も高いものです。
そのことを前提として、天災地災など、不測の事態に対応できるように配置図を国策として作成させ、その図面を保存するということが行われていたという事実は重要な意味をもつものであります。
■関連ブログ記事
貞昌院の絵図が金沢文庫に66年目の終戦の日を迎えました。
戦渦により犠牲になられたすべての方々に心より哀悼の意を表します。
さて、一昨日、カタストロフィーと寺院の役割 という記事を書きました。
その続いを少し。
さまざまな事象が、カタストロフィーモデルに当てはめて考えることができるということで着目されている理論です。
典型的な例を図に表してみました。
ルネ トムのカタストロフィーモデルと呼ばれるものです。
時間軸が手前から奥へと進んでいくと考え、次々にやってくるゆるやかな双曲線(図の手前の青い双曲線)が、次第に鋭角的な波頭型に変わり、それがさらに進行すると、突然不連続現象が現れます。
これがカタストロフィーの不連続面です。
この不連続面は、実際の社会現象では例えば明治維新、東京大空襲、横浜大空襲、原爆投下、終戦、バブル崩壊、大規模住宅開発、大震災、大津波・・・・大きな社会的事象が起きると、局所的あるいはある程度広範囲に歴史的な不連続面が生じる典型的な例として挙げられます。
日本においては、「終戦の日」が最も大きな不連続面の一つに挙げられるのではないでしょうか。
過去の終戦に関するブログ記事を併せて列記します。
65年目の終戦の日
星条旗の下に生きた日系人たち
松根油と戦時中の永谷
太平洋戦争空襲~終戦の日
この不連続面では、過去から未来へ向けての「記録」「記憶」が欠落してしまいます。
その欠落を埋める役割として、寺院、僧侶が重要な役割を果たしています。
寺院は、カタストロフィーの不連続面においても、よほどのことが無い場合を除いて、場所を移動せずその場所に「在り続け」、地域に密着して記録を残し続けています。
そして、その記録を伝承している代々の住職、僧侶が居ます。
寺院は、不連続面により断絶されてしまった地域の記憶を蘇らせる時間軸を結ぶための太い糸となっているのです。
さらに、災害時の寺院、僧侶のネットワークが大きな役割を果たしています。
大災害直後は、地元に密着した現地の寺院、その周囲のネットワークが災害拠点として大きな役割を果たしました。
その後、全国を結ぶ寺院のネットワークにより、情報共有、ボランティアの輪が広がっていきまいた。
必要なところに必要なものが届けられる拠点としての寺院の役割は、今回の大震災でも大きなものとなっています。
そのような寺院の、そして僧侶たちの一つひとつの役割が繋がって(時間軸の縦方向、同じ時間で空間的に横方向に広がる強い繋がりが)結果として大きな力となっているのだと思います。
もう一つの話題も。
お盆の時期、戦没者慰霊で灯される「灯明」は、迷いなき真実の智慧、闇を除き、闇を明るく照らす除暗遍明という大切な明かりです。
火は、
時には恨みを込められたものとなり、
人の命を奪うものとなり、
平和の象徴となり、
生きる力を与えるものとなり・・・
さらに、蛇足的に付け加えれば、以前ブログ記事 眼に見える世界は蝋燭の炎の形 で書いたとおり、私たちが今、直接見ることができる世界を図に表すと蝋燭の炎のような形になります。
(理由は上記ブログ記事を参照ください)
私たちが「今」眼にしているものは、すべてが蝋燭の炎の表面の部分に並んでいます。
また、眼に届くものの姿は、蝋燭の炎の表面を辿って私たちの眼に届けられます。
時間軸は下にいくほど過去に遡るのですから、見えているものは必ず過去の姿であることがわかります。
しかしながら、蝋燭の炎の表面の部分は見える可能性があるとはいえ、全て見ることはできないわけです(ぐるっと360度周囲全体を同時に見ることは不可能ですし、ある物体の裏側を同時に見ることも不可能です)から、私たちが捉えることができるものは、蝋燭の炎の表面の部分の、さらにごく僅かの部分だけなのです。
この蝋燭の炎の内側の部分は、過去の(歴史の)世界となります。
そして、蝋燭の炎の外側の部分は「絶対に見ることが適わない」世界となります。
カタストロフィーのモデル図は、まるで日本を襲った大津波のような形をしています。
私たちが目に見える世界の範囲を図に表すと、まるで灯明の炎のような形になります。
今日はお盆の最終日。
それぞれの家にとって、ご家族を失うということは、その家にとってはカタストロフィーの大きな波がやってきたのと同じことなのかもしれません。
機会あるごとに故人に思いをはせ、ご先祖様へのご供養を行う、この日本の良き伝統は、世代間を繋ぎ、それぞれの家のカタストロフィーの大きな波を乗り越えるための役割も果たしています。
終戦の日に、そしてお盆の日に、あれこれととめどなく書いてみました。
8月9日付けの朝日新聞 横浜版に記事を掲載していただきました。
「66年目の戦後」災後を歩む 特集の枠です。
東海テレビで「怪しいお米セシウムさん」のテロップが流れたのは4日前。
テロップに関ったのは東海テレビ50歳代の社員だそうで、このようなテロップを作成し放送したことはもちろん許されることではないし、東海テレビを含めて放送業界全体で検証していかなければならない事件だと考えます。
さて、身近な周囲を見回してみれば、例えば最近スーパーなどに行くと昨年産の米が飛ぶように売れている現状があります。
近所のスーパーでは銘柄を選ばなければまだ買うことが出来ます。
しかし、そのうちに在庫も尽きてしまいそうな勢いです。
東京に近い地域ではまったく在庫がなくなってしまっている店も多く、また在庫があっても購入制限がかけられていたり、また、古米の卸問屋と小売店の取引価格は急騰しています。
早場米の高知県産の新米ですら売れ行きが悪いそうです。
東日本大震災直後に発生した買占めが米穀市場では再び発生しているのです。
政府は、2011年産の東日本の新米について、放射線の検査を二重に行うことを打ち出しています。
よって、市場に出回るのは暫定基準値より低い米のはずです。
それでも、消費者が古米獲得に走るのは、検査体制や基準値自体が信用できないことを含め、「怪しいお米」という疑念を払拭できないということなのでしょう。
消費者心理に、言葉には発しないけれども、その奥底に隠された「怪しいお米セシウムさん」という感情が潜んでいるのだとしたら、古米を買い占めた消費者を責めることはできるのでしょうか。
米は毎日の食生活に欠かせないものであり、日本文化は米中心に育まれてきたことを考え合わせると、なんともやるせない気持ちです。
もう一つ、やるせないニュースといえば京都五山送り火で、岩手県陸前高田市の松で作られた薪使用する計画が、薪に含まれるかも知れない放射能が拡散される懸念があるということで中止となった ということです。
陸前高田市の薪350本には、震災遺族からのメッセージが既に書き記されていて、16日に京都で五山送り火として再び燃やされるはずでした。
(右写真は毎日新聞記事より引用)
この計画は、大分市の美術家、藤原了児さんの発案により京都五山送り火保存会の理事長を経て、藤原さんの知人である陸前高田市の旅館経営、鈴木繁治さんが被災地での薪集め、メッセージの呼びかけを行い準備が進められていました。
ところが、計画が報道されたころから京都市や関係者の自宅に「放射能汚染された灰が飛ぶ」「子供に後遺症が出たらどうなるのか」「琵琶湖の水が飲めなくなる」などと抗議の電話やメールが寄せられるようになったということです。
保存会では薪の放射能検査を独自に行った結果、全ての薪から放射性セシウムもヨウ素も検査されませんでした。
しかし、「不安に思う人がいるのなら押し通すことはない」という判断で岩手県陸前高田市の薪が京都で燃やされる計画は無くなりました。
保存会の理事長は陸前高田市に出向いて、この経緯を説明し深謝の上、今夜(8月8日)精霊の「迎え火」として陸前高田市で燃やされました。
理事長の実直な心の実行により計画に携わった多くの方々の思いは晴らされたのかも知れませんが、それでも後味の悪さは残ります。
このような事例はこれから数多く出てくると思われます。
風評と実害と、そして放射性物質への尽きない疑念。
そんなことにいつまで振り回されなければならないのでしょうか。
■関連ブログ記事
やるせない風評被害の現実
放射性物質に汚染された地域を浄化するために ヒマワリ や アブラナ を植えるプロジェクトが提唱されています。
ただし、ヒマワリ や アブラナ に放射性物質を吸い上げる力があるのだとするのであれば、正しい理解に基づいて行わないと却って汚染を拡大する結果を招く恐れがあるので注意が必要です。
広まるヒマワリ作戦、間違えれば汚染拡散も東京電力福島第一原発事故による周辺土壌の汚染を解消しようと、放射性物質を吸収するとされるヒマワリの種まきが、福島県内で進められていることに対し、「方法を間違えると汚染拡大の恐れもある」と、専門家から慎重な対応を求める声が起きている。放射性物質を吸収したヒマワリは、放射性廃棄物としての処理が必要だが、処理方法が確立されていないからだ。 石川県内からも現地に種を送る動きが活発化する中、専門家らは事前の情報収集の必要性を指摘している。 ヒマワリなどキク科やアカザ科の植物は、放射性セシウムを吸収するとされる。
農林水産省は、同原発周辺の土壌から放射性物質を吸収するのにヒマワリなどがどの程度効果があるか、5月から福島県飯舘村で実験を行っており、8月に刈り取って吸収量などを分析する。
ヒマワリに吸収効果があるという結果が出た場合は、原発周辺で植え付けを検討しており、「燃やしても放射性物質が外に出ないような焼却施設を開発する」として、専用処分場の建設も視野に入れる。だが、現時点で処分場所も種まきに際してのマニュアルもなく、同省は「(緊急時避難準備区域の)30キロ圏内などでは、実験結果が出るまで行わない方が良いのでは」としている。
新潟大の野中昌法教授(土壌環境学)によると、吸収した放射性物質はヒマワリに蓄積され、いずれ処分しなければならない。 ただ、焼却すれば放射性物質が飛散する恐れがあり、種まきの際に土を耕すと地表の放射性物質が土壌深くに混ざってしまう。汚染を拡散させる危険性があり、「種まきは将来的な処理方法を考えた上で、正しい知識を持って行う必要がある」と指摘する。
(讀賣新聞 2011年7月17日 )
寒地土木研究所月報№646 2007年3月号解説「ファイトレメディエーション(植物を用いた地盤の浄化法)について」の修正について
平成23年(2011年)福島第一・第二原子力発電所事故に関連して、ファイトレメディエーション(地盤浄化)に関する当所の資料「解説 ファイトレメディエーション(植物を用いた地盤の浄化法)について(寒地土木研究所月報第646号)」を引用される方が増えております。このことに関して、資料の内容について訂正を行いましたのでお知らせします。
訂正の趣旨
本解説は、重金属による土壌汚染対策手法のひとつとして植物の重金属吸収能力を利用した浄化方法について紹介したものです。
ファイトレメディエーションに関して、一部正確性が欠如した表現が含まれておりましたので、下記の通り修正を致しました。
訂正内容
「上記の5種類以外にも放射性物質を吸収する能力も研究されている例があり、それによるとヒマワリの根を用いた水耕栽培試験によりセシウム、ストロンチウムを蓄積することが判明した内容である。」
紹介した事例は、放射性物質を水溶液から吸収して植物体内に蓄積されるものであり、放射性物質を消滅させるものではありません。空気中や根の届かない範囲の放射性物質に対する効果は期待できませんし、全ての放射性物質に効果があるかどうかも不明です。また、土壌の浄化には、植物の除去・運搬などの処理を行う必要があります。植物を植えたから問題が解決するというものではなく、その処理まで含めた対応が必要であることに御留意いただきますようお願いします。
本解説を引用された方々にお詫び致します。
(独立行政法人土木研究所 寒地土木研究所)
さらに、宇宙農業研究の放射能汚染除去への貢献として、ひまわり作戦を提唱している JAXA宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究所宇宙科学研究所宇宙農業のサイトには
との記述があります。
少なくとも、国や研究機関によるきちんとした放射性物質除去に関する実証実験が行われないうちは、被曝線量管理の手段を持っていない素人が 除染を目的としたヒマワリの播種を行うこと は控えたほうがよさそうです。
効果があるのであれば、刈り取ったヒマワリ自体に放射性物質が集まっているということですし、効果が無いのであれば、ヒマワリを植えること自体意味が無いことになります。
むしろ、福島県のホームページに記載されている
手引き(PDF:1,804KB)
モデル事業結果(PDF:372KB)
パンフレット(PDF:2,927KB)子供向け放射線対策パンフレットについて
未就学児童用(PDF:1,456KB)
小学生用(PDF:1,519KB)
中学生用(PDF:1,098KB)
保護者用(PDF:1,225KB)
を地域全体で協力して進めていったほうが、即効性がありますし、一度除染を行えば継続的に放射線の影響は抑えられます。
上記の福島県による生活空間における放射線量低減対策について、特にパンフレット(PDF:2,927KB)はよく纏められています。
生活空間の中で、どのような場所に放射性物質が集まりやすいかを理解し、それを効率的に取り除いていくことが除染のポイントとなります。
除染を実行するに当って、いちばん厄介な場所は水田だと考えます。
田植えが行われた水田は、水が張られています。土の表面に薄く堆積した放射性セシウムが拡散され、また、周辺環境から水によって集められた放射性セシウムが流れ込んでしまいます。
農林水産省は今日(7月3日)、近く収穫期を迎えるコメについて、収穫の前後2段階で放射性セシウムを調査する方針を発表しました。
収穫後の本調査で暫定規制値(500ベクレル/kg)を超えた地域のコメはすべて出荷停止として廃棄処分を義務づけ、他の食品より綿密な二重チェック体制を取ることになりました。
今年はかなりの地域のコメが廃棄処分となってしまう可能性があります。残念なことですが、食の安全を確保するためには必要な措置であると考えます。
以下は実用化に向けて研究が進められている話題ですが、復興構想会議に参加されている玄侑宗久師が提唱して有名になった細菌、ロドコッカス・エリスロポリスにも期待を込めたいところです。
緊急提言 玄侑宗久
日刊工業新聞(4/6)の報道によると、セシウム137 を約10 分の1まで減少させるロドコッカス・エリスロポリスという細菌があるらしい。国立環境研究所の富岡典子主任研究員らがすでに10 年前から研究し、その効果も実証確認しているというのである。海では使えないらしいが、校庭や農地の除染に役立つのかどうか、文科省や農産省には早速にも調査していただきたい。
(第6回 復興構想会議提言より引用)
ロドコッカス・エリスロポリスが除染に大きな役割を果たすことが実証できれば大きな成果となります。
放射性物質を消滅できないという前提を覆すことができるからです。
以下、日刊工業新聞の記事を引用します。
国立環境研、細菌使い放射能を10分の1に-水浄化で注目
国立環境研究所の研究グループが過去に行った放射性物質を取り込む細菌の研究で、水中の放射性物質が放射線を出す能力(放射能)を10分の1まで下げる細菌を発見していた。福島第一原子力発電所の事故で放射性物質の環境汚染が懸念される中、浄化手段としてあらためて注目される。ただ「簡単に増えるため大量培養は難しくないが、海水の中で利用できないことや温度や酸性度の条件で制約がある」(冨岡典子主任研究員)など実用化には課題があるようだ。
冨岡主任研究員らの研究グループはチェルノブイリ原発事故をきっかけに1988年から約10年間、細菌が放射性物質を取り込む現象を研究した。当時高精度な放射性物質の監視(モニタリング)装置がなかったため、細菌によるモニタリングの可能性を探るのが当初の研究目的だった。
(日刊工業新聞 2011年04月06日)
一日も早く美しい大地が戻りますよう願っています。
■追記
当選者名が「汚染されたお米セシウムさん」 「不適切」と東海テレビが謝罪
2011年8月4日放送された東海テレビの番組の中で、東北地方の米の当選者の名前として「汚染されたお米 セシウムさん」という文字が画面に出てしまい、局が謝罪文を掲載した。
この日朝に放送された情報番組「ぴーかんテレビ」で、視聴者プレゼント「岩手県産ひとめぼれ 10kg」の当選者が発表された。
■「視聴者の皆様に不快な思いを与えたことに対し、深くお詫び申し上げます」
その当選者の名前が「怪しいお米セシウムさん」「汚染されたお米セシウムさん」。東北の農家が放射能の風評被害に苦しむ中、それを揶揄するという、とんでもなく不謹慎な内容だ。
その後、番組内で、福島智之アナが「今、幸せ通販の映像の中で、違う映像が出てしまいました。考えられないような不謹慎な内容でした。本当にすみませんでした」と謝罪。局のHPにも
「番組途中、『夏休みプレゼント主義る祭り』の当選者をお知らせする内容に不適切な記述が誤って送出されました。大変常識を欠いた不謹慎な内容が画面に出てしまい、視聴者の皆様に不快な思いを与えたことに対し、深くお詫び申し上げます」
という謝罪文が掲載された。「誤って」とは書いてあるが、具体的な経緯については書かれていない。ネットでは、リハーサルで使うためのダミー用の映像が間違えて流れてしまったのではないかという指摘も出ている。このシーンの動画がすぐYouTubeにアップされ、「背筋が凍った」「放送事故とかいうレベルじゃないですよね?完全に悪意もあるし、被災地をバカにしてますよね?」といった非難のコメントが殺到している。
(J-CASTニュース 2011年8月4日)
これは絶対に許せない「事件」です。とてつもない悪意を感じます。
外国人向けのゲストハウスに設置する家電製品で特に不便に感じることは、操作スイッチ類の表記の不親切さです。
例えば、洗濯機はこんな感じです。
これでは、日本語を読めない方にとっては操作することは相当困難でしょう。
(日本語を理解していても、機能を理解することは難しいと思われます)
そこで、このような紙を作って壁に貼っています。
洗濯機に限らず、エアコンやテレビのリモコン、電磁調理器の操作パネル・・・・・
日本で発売されている家電製品のほとんどが、操作パネル、取扱説明書どちらも日本語のみの表記となっています。
デジタルカメラや携帯電話の中には言語を選べたりインターネットから英語版の取扱説明書がダウンロードできるものもあります。
けれども「白物家電」の場合は、日本語以外の説明がほとんどありません。
取扱説明書が難しいのであれば、せめて操作パネルの多言語版の説明シールだけでも添付(もしくはダウンロードできるように)して欲しいものです。
製品によっては、単に不便だけでなく、使用を誤ると危険を伴うものも少なくありません。
家電メーカーに是非お願いしたいことの一つです。
■追記
同じ趣旨のことを書いている人が居た!
English Translations for Korean Washing Machine & Water Heater
そうだよね~、こんなパネル見ても分からない。
般若心経は、最もポピュラーなお経の一つですので、さまざまな経本・経典に掲載されています。
夏のこの時期は、般若心経を読経する機会が普段よりも多くなりますので、それぞれを比べてみると区切り方(句点の打ち方)がバラバラであることに気付きます。
(※補注・曹洞宗僧侶は、般若心経を句点の位置で一拍おくという読み方はしません)
とりあえず、身近で目に付く範囲で調べてみると・・・・・
| 摩訶般若波羅蜜多心経 |
曹洞宗宗務庁発行の経本です。
わかりやすいように句点を●で表しました。
| 摩訶般若波羅蜜多心経 |
同じく曹洞宗宗務庁発行の在家用の経本です。
ほぼ同じですが、細かい点に違いが見つかります。
不垢不浄不増不減 とか、最後の 羯諦●羯諦 の部分が異なりますね。
| 摩訶般若波羅蜜多心経 |
曹洞宗大本山總持寺安居中に使っていた経本です。
いきなり出だしから 行深般若波羅蜜多時照● というように、句点の位置が違います。
また、本文中も宗務庁版に比べて句点が多くなっています。
| 摩訶般若波羅蜜多心経 |
永田文昌堂発行のものは、大本山總持寺日課諸経要集に近い区切り方をしています。
ただ、まったく同じというわけではなく、 究竟●涅槃 の部分が違います。
惜しい!
曹洞宗だけでもこれだけ違うのですから他宗派は言わずもがなです。
あえて引用しませんが、ウィキペディアから般若心経項を見てみると
| 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 |
句点のほかに読点、中黒・・・・・・
自由ですね~
原典に近いテキストは
| 般若波羅蜜多心經 大正新修大蔵経収録テキスト 唐三藏法師玄奘譯 |
東京国立博物館所蔵重要文化財『梵本心経および尊勝陀羅尼』(梵字による最古の般若心経とされる)
このようにざっと見回しただけで、同じものは無いといっても良いほどです。
なお、般若心経は漢文読み下しをすることにより、意味をとることができます。
読み下しの観点から見るに、個人的には次のような区切りがすっきりしていて良い感じです。
| 摩訶般若波羅蜜多心経 |
補足1 経典によっては打磬点(だけいてん=鳴らしものを打つ場所)記号が記載されていますが、今日のブログでは省略しています。
補足2 漢字の差異の検証も省略しています。
■関連ブログ記事
■蛇足
アウトドア般若心経 by みうらじゅん
私たちがドイツで声明公演を行っていた時期を同じくして、フランス・パリではジャパンエキスポ2011が開催されていました。
ジャパンエキスポは、毎年7月フランス・パリで行われる、日本のポップカルチャーと、書道や武道・茶道・折り紙などの伝統文化を紹介する日本文化のフェスティバルです。
今や日本文化といえば、マンガ・アニメ・ゲームを中心とし、音楽・モードを含めた日本のポップカルチャーがその代表格となっていますが、どうしてどうして、日本の長い伝統で培われてきた伝統文化も大きなブームとなっています。
ジャパンエキスポ会場ではマンガやアニメのコミックやDVD、関連グッヅ販売、ゲーム体験、サイン会、コンサート、ファッションショー等々・・・さまざまなプログラムが組まれ、毎年フランス国内はもとよりヨーロッパ諸国から17万を超える入場者を集めるヨーロッパ最大規模の日本フェスティバルです。
ジャパンエキスポ2011 概要
開催日: 2011年6月30日(木)~7月3日(日) 11:00~19:00(4日間)
会場: フランス パリ・ノール ヴィルパント展示会会場 Parc d'Exposition Paris Nord Villepinte
入場料: 6/30(木)9ユーロ、7/1(金)12ユーロ、7/2(土)14ユーロ、7/3(日)12ユーロ。週末3日間パス31ユーロ。4日間パス35ユーロ。
入場者数: 前回2010年は17万4千人来場
日本の文化として「禅」も位置づけられており、禅のブース Butsu Zen Zone もありました。
Try Zazen meditation! With Butsu Zen Zone, everything is in the mind, Zen, serene and a bit offbeat!
Existing in Japan since the 13th century, this practice linking body and mind is entirely part of Japanese culture. Zen masters initiate you to sitted meditation, Zazen, at Japan Expo.
On the hype, Kawaii and fun booth of Butsu Zen Zone, practice is illustrated by the new Zen aesthetic of the Western lands thanks to our artists who regularly publish in Japan. True Buddhas answer your deepest questions, even the most Banzai ones.
What is Zen?
Zen is mainly about practicing Zazen, a word coming from Za (to sit) and Zen (meditation).
Zazen is nothing but sitting peacefully and being intimate with oneself. It does not rely on a dogma or ideology. It is a school of concentration, attention, self-knowledge and letting go.
This practice has been transmitted from master to disciple, from people to people, for 2.500 years. The quiet position of Buddha is the perfect image of Zen.
Sitting quietly, thinking about nothing in particular. Letting thoughts flow after becoming aware of a moment and coming back to being attentive to the position of the body and to breathing. This way, our mind, wholly aware of what surrounds it, remains available to every new moment.
This is the essence of Zen: focusing on the posture and breathing.
Zen in the Western world
Master Taisen DESHIMARU taught and transmitted the practice of Zazen in Europe from 1967, when he arrived in France, to 1982 when he died.
He is the heir of the purest tradition transmitted from the Indian Buddha Shakyamuni, Chinese Bodhidharma and Japanese Dogen. Disciple from Master Kodo SAWAKI, one of the greatest in Japan, he strongly desired to help contemporary men, whom he could feel were unbalanced, and make them understand their lives and themselves more deeply thanks to Zazen. His teaching was very concrete and deep inside everyday life. He often said: “Don’t separate the spiritual and the material. You must take up contradictions.”
In the current crisis of our civilization, Japanese art of living together, pervaded with Zen, can feed the world culture of the 21st century.
(Japan Expo 2011のサイトより引用)
会場の雰囲気もなかなか良いようで、
We were able to staff the stands at Paris and Montreuil mainly with members of Neuilly and Tolbiac dojos, and then had the help of the major southern dojos near Marseille (where we did over 250 introductions, with fans sometimes queuing for a zafu!), so the participation of different sanghas was invaluable. It is a unique experience to present the practice I shin den shin to strangers, even for a near beginner!Even if seated zazen is demanding, what we presented is a strong but joyful practice, and we do not see any reason to leave the monopoly in Buddhist smiles and laughter to the Dalai Lama. The public must have been aware of this atmosphere at the Butsu Zen Zone, sensing the open-mindedness, joy and considerable humour. In short, it was a lot of fun!
In any case, it seems that the motionless beauty of the zazen posture in the middle of this friendly chaos has struck people’s minds because, after participating three times, we are now among the ‘events not to be missed at Japan Expo’ and the organisers insist on our continued presence.
という記述もありました。
フランスを拠点とするAZI(Association Zen Internationale)のサイトに JapanExpoの参加レポートが掲載されていました。
Zazen à la JAPAN EXPO
(写真はAZIのサイトより)
折角のJapanExpoですので、日本から禅僧が積極的に参加して、ブース出展することを検討してもよいのではないでしょうか。
「本物」が与えるインパクトも大きいと思います。
日本が世界に誇る文化たる禅へ理解をより深めるために。
声明ドイツ公演渡航まで一週間となり、仏具の最終点検が行われました。
航空貨物として運搬するため、丁寧に梱包し、運送会社へ引き渡していきます。
同時にインボイスの作成などなど、事務的な作業も進めます。
まもなく出発なのだな~と実感が湧いてきます。
今回の渡航の中を取り持ってくださっているのが、声明研究家のドイツ人Rさんです。
おそらく曹洞宗では初めてとなるこの国際的な事業は、Rさんの力無くしては実現しなかったことでしょう。
R氏は声明研究家であると同時に、日本文化の優れた理解者、紹介者でもあります。
日本を代表する文化といえば、今ではアニメ、MANGA、ギャルファッション・・・・そんな風潮でありますが、能や鼓、尺八といった伝統音楽、その源流となる声明などなど、日本人ですら気付かない素晴らしさを熱心に説かれるドイツ人です。
また、その人脈の広さは特筆すべきであり、鼓の大倉正之助さんをはじめ、日本の伝統音楽家はほとんど関わっているといって過言ではありません。
けれども、日本の伝統音楽への欲求や評価も高いのに、現地の日本政府高官の方々は日本の伝統音楽にそのようなものには興味が無いという現実があるようです。
2年前の宗教音楽際のオープニングを声明が飾り、大反響だったにも関わらず係らず、その場に政府高官の方の出席はありませんでした。
能や尺八の公演でも然り。
日本の伝統音楽は、退屈で詰まらない、取るに足らないという先入観が日本人に根付いているようなのです。
Rさんもそのことを指摘されていました。
一種の風評被害のようなものなのでしょう。
今日、東日本大震災支援コンサートが横浜市南区の寺院で開催されたので参加してきました。
東日本大震災支援コンサート
東日本大震災の被災地では、現在懸命の復旧作業が行われておりますが、復興への道のりはまだまだ始まったばかりでこれからが長丁場です。
また、放射性物質検出の報道以来、近隣農家の方々は風評被害によって生活に大きな打撃を受けておられます。
私たちにできることは、被災地の一日も早い復興を願うこと、被災者の方々へ熱い思いを届けることだと思います。
今回、このような思いを同じくする多くの方々が集結することにより、支援コンサートが実現できることになりました。
(演奏会パンフレットより)
この演奏会は、やはりドイツ人のRさんと関わりの深い尺八奏者の田嶋直士さんが主催されたものです。
田嶋さんは、エンジニアとして大手メーカーに勤めていましたが、虚無僧が吹く尺八本曲に出会い、20代半ばに会社を辞めて尺八の道に入られました。
吹奏の場を求めて全国行脚するなど修行を重ね、「直簫流田嶋会」を創設、洋楽との共演など新しい試みにも積極的にチャレンジし、国内のみならず海外公演を毎年行って高い評価を受けていらっしゃる方です。
もちろん、ドイツでも公演経験は多数あります。
ちなみに、この寺院は3年前、横浜市仏教会の涅槃会で会場となった寺院です。
会場には、新鮮な野菜が並べられています。
これらは震災で風評被害を受けている福島県産の野菜たちです。
地元農家からは次のようなメセージが添えられています。
この度の東日本大震災による東北地方太平洋沿岸地域は地震・津波の被害はもとより当地福島県は収束の見えない原発事故による復旧作業も進まない状況にあります。
また、農業面におきましても放射線等の問題もあり、丹精込めた野菜は大半が廃棄処分されるとともに、販売可能な品目についてもスーパーマーケット等からは福島県産は敬遠され出荷されても値がつかないなど、大打撃を受け、今後の再生産の意欲も失いかねない状況でした。震災後一ヶ月が過ぎ、当地も桜の開花とともに再起を目指し、一歩一歩前を向いて動き始めました。
尺八はヨーロッパでは Zen Music として親しまれています。
その源流は禅宗の一派である普化宗です。
そのようなこともあり、田嶋さん曰く、洞窟やさまざまなホールで演奏を行ってきたけれども、本堂で行う演奏会が一番しっくりとくるそうです。
シンプルな楽器ですが、そこから奏でられる音色はとても幅広いものです。
洗練された楽器であることを感じます。
来週から始まる声明のドイツ公演でも、このあたりに踏み込んでいけたらと考えています。
さて、今日のブログのタイトルは風評被害と先入観というものにしました。
日本の伝統音楽の評価が日本国内において必ずしも高くなかったり、理解されない原因の一つには先入観があると考えます。
同時に、日本のみならず世界中に広がっている福島県産(あるいは日本産)の農産物などに風評被害にも、先入観と無理解がその原因にあると思います。
風評被害とはどのようなことかを考えるに 「事件、事故、災害、汚染などの社会問題が報道されることによって、実際は安全とされる食品、製品、商品、企業などを、間違った認識により危険視し、消費行動や観光、取引を停止することによる経済被害 」といったことになるでしょう。
風評被害が風評被害となる前提には、「実際は安全とされる」という部分が重要になります。
安全とは何かを、科学的な根拠に基づいて確認されることが必要となります。
ですから
どこが(何が)安全で、どこが(何が)安全でないのかという明確な基準が必要なのだと思います。
それが分からないし明確でないから、余計に風評被害は広まっていくのです。
政府、自治体には、一定基準に基づいた緻密な測定を行っていただき、速やかに公開して欲しいものです。
そのことこそが風評被害を少しでも軽減させることに繋がるものだと考えています。
昨日の神奈川新聞に「被災者ののグリーフケアが鍵」いう記事が掲載されていました。
震災発生より宗教者たる僧侶は様々な行動をしてきました。
大規模な災害は、葬儀のありかたにも考えさせられる問題を提起しています。
まもなく3ヶ月を迎えようとするこの時期に、改めて考え直し、今後に向けて考えることも必要だと思います。
被災者のグリーフケアが鍵数多くの犠牲者を出した東日本大震災。火葬場の処理能力を超えた遺体を前に、被災地の一部自治体は土葬に踏み切った。だが遺族らの土葬に対する抵抗感が強く、遺体を掘り起こして遍く離れた自治体に送り、火葬するケースが続出している。尊厳ある送り方とは何か。遺族感情にどう寄り添えばいいのか。葬法をめぐる議論は、突然の死とどう向き合うかという問題を提起している。
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犠牲者を追悼する行脚で、津波被害が甚大だった町を歩く僧侶と牧師ら=宮城県南三陸町
約300体の遺体が土葬されている仮埋葬地=宮城県東松島市□土葬と遺族感情
▽割り切れない
「被災地で土葬に対する批判的な意見が多く出たことに最初は驚きました」と話すのは宗教学者島田裕巳さん。数十年前の日本で土葬は当たり前で、火葬が全国に広がったのは戦後、行政が火葬場を各地に建てるようになってからだという。
「火葬はあくまでも遺体の処理方法で、土葬にしたからといって遺族は自分を責める必要はまったくない。問題は死者をどう弔うかにある」と島田さん。だが、遺族感情がそう簡単に割り切れないこともよく理解できるという。
「最近は簡単な家族葬も増えているが、今回は突然の大災害による悲劇的な死。残された家族にとって、通夜、葬儀・告別式、火葬といった通常のプロセスでちゃんと弔ってあげたいという気持ちは大きいはず」また、土葬の現場では、自衛隊が埋葬の準備や身元不明遺体の搬送などを担当することが多かった。島田さんは自衛隊の活動を評価しながらも「遺族の中には自分たちの手で十分に弔えたという意識を持てない人もいるのでは」と指摘する。
▽価値観の変容
東北各地の死者の祭り方や民間信仰を調べてきた東北大の鈴木岩弓教授(宗教民俗学)も「東北地方の一部地域では1970年代まで土葬の風習が残っていた。人々の価値観が大きく変容したことをあらためて実感した」と語る。
「火葬という観念が時間をかけて広がったことで、土葬を法律違反、または非衛生的といったマイナスイメージでとらえるようになった。もちろん土葬は、条例で禁止している一部自治体を除き、墓地埋葬法に違反するものではないですが」
鈴木教授によると、韓国も葬法をめぐる状況は似ている。「死後焼かれるのは辱めを受けるのと同じ」という儒教的な思想から土葬が一般的だったが、最近は土地の有効利用の問題もあり、若い世代を中心に火葬が増加しているという。
国を問わず、葬儀のスタイルは時代とともに変遷していく。「ただ、昔は土葬が多かったと言っても意味がない。すでに人々の価値観は変わっている。今回の震災では、身近な人を亡くしたり、緊急避難的に土葬をせざるを得なかったりした人たちのグリーフケアが一番重要だ」と強調する。
「グリーフ」とは英語で「深い悲しみ」を意味する。問題は土葬の是非ではなく、納得いくかたちで弔うことができたかという遺族感情。こういう大災害のときこそ、宗教界も立ち上がるべきだと、鈴木教授は言う。▽垣根を越えて
実際、被災地や土葬の現場では、宗派を超えて僧侶らがボランティアで読経をあげる姿が各地で見られた。宮城県では、仏教会やキリスト教連合などの宗教関係者が中心となり、医療や生活支援の専門家らと連携した「心の相談室」を立ち上げた。葬法などの疑問に答えるだけでなく、遺族のグリーフケアをさまざまな分野で支援することを目的にしている。
土葬問題が映し出した遺族感情。未曽有の大災害で大事な人を突然失った人たちの悲しみをいかに鎮め、希望を持たせることができるのか。「死の生々しい記憶を乗り越えていくことで、人は前を向くことができる」(鈴木教授)。
そのためには行政、宗教、各種団体の垣根を越えた取り組みが鍵となりそうだ。
(神奈川新聞 2011/5/30より記事と写真を引用)
鈴木教授の指摘するように、問題は「火葬」か「土葬か」ということよりも、遺族の中に充分な供養を行えていなかった、納得できる形で弔うことができなかったという感情が残されているとすれば、それは大きな問題なのだろうと感じます。
ただ、この記事中で欠けている点を挙げれば、被災地に於いて、被災者の菩提寺、そして地元の寺院はそれぞれ活動をされているということに触れていない点です。被災者ののグリーフケアは、物理的に不可能な場合を除いては菩提寺、地域の寺院が最優先で行っているということを指摘させていただきます。
記事中写真にある東松島の墓地には震災発生一ヵ月後に参拝させていただきました。その場にいた役所の方に伺うと、火葬場の順番が空き次第、掘起こして荼毘に附していくということでした。
この日も、数区画で荼毘に附される準備が行われていました。
その場には菩提寺の僧侶の姿もありました。
土葬はあくまでも火葬までの仮埋葬であるとすれば、記事にある土葬の風習が云々というのは少々的外れな論議であるように感じます。
震災発生からまもなく3ヶ月。
被災者ののグリーフケアのための行政、宗教、各種団体の垣根を越えた取り組みが求められる時期に来ている、と記事は結んでいます。
外がどんなに嵐でも
雲がどんなに厚くとも
雲の上は
いつだって
抜けるような青空。
(新井満)
石巻の地酒 日高見 希望の光
石巻は、太平洋と北東北を縦断する北上川の河口に開けた港町ということで、江戸時代には、伊達藩と南部藩の米の集積地として栄え、日本有数の酒所として発展しました。
東日本大震災によって酒蔵の大半が被災しました。石巻には未だ電気、水道が復旧していない地域がありますが、一丸となって復興に向けて頑張っています。
被災を免れた醪(もろみ)を救うべく、造りの別無く全て一緒に絞ったのがこの「希望の光」です。
平年のお酒に比べて力強い、太い味わいになったそうです。
いわば再現の無い今年限りの貴重なお酒ですので、本尊様に献じてからじっくりと味わってみたいと思います。
南三陸の杉 輝かせたい
(朝日新聞 2011/5/16夕刊)
三陸は優れた品質の杉を生み出す林業の盛んな地域でもあります。
津波の直撃を歴史的に何度も受けている製材所では、そのたびに被災した人のために直ぐ製材を開始してきたそうです。
今回も、製材機も流され、会社の復活には時間がかかるとの事ですが、既に仮事務所で材木の販売が開始され、秋には工場を再開させるそうです。
・価格が若干高い
・節模様、もしくは節穴が発生する
・杉材の場合は、赤い木肌模様が生じる
というデメリットもありますが、今年から数年に亘っては特に被災地の国産材を用いた塔婆を利用することも一つの復興支援となることでしょう。
南三陸の杉塔婆・・・貞昌院では具体的に南三陸の杉塔婆+モンゴルへの植林支援の組合せを考えてみようと思います。
一寺院のみの運動のみならず、寺院と製材所の連携によってより広がっていくといいですね。

先人の知恵浸水防ぐ 宮城県南「浜街道」
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県南の沿岸部で、津波の浸水が江戸時代の街道と宿場町の手前で止まっていたことが、東北大東北アジア研究センターの平川新教授(江戸時代史)らのグループの調査で分かった。平川教授は「過去の津波の浸水域を避けて、街道が整備された可能性が高い。自然と共存するための先人の知恵ではないか」としている。
グループは震災後の国土地理院の航空写真を基に津波浸水域図を作製し、旧街道や宿場町の地図と照合した=地図=。現在の岩沼市にあった「岩沼宿」から水戸へと続いていた、太平洋岸の主要街道「浜街道」に着目。岩沼宿から宮城県山元町の「坂元宿」までの街道と宿場の大部分が、浸水域からわずかに内陸部に位置し、被害を免れていた。
浜街道周辺はほぼ400年おきに津波に襲われている。1611年には慶長三陸津波が発生し、仙台藩領内でも1783人が亡くなったという記録が残る。
街道や宿場は交通や流通の結節点として、人が密集する地域の要衝。平川教授は「慶長津波を受けて、街道や宿場を今の位置にした可能性もある」との見方を示す。
仙台以北の沿岸部についても今後、詳しく分析する考え。
平川教授は「明治以降の近代化や宅地開発などで、津波経験の記憶は薄れてしまった。先人が自然災害の教訓をどう生かしていたかを丹念に調べ、今後の復旧に生かすべきだ」と話している。
(河北新聞 2011/04/25)
「津波のときは井戸を見ろ」 先人の教えで津波避け助かる
先人の教え、津波から住民守る 宮古市の姉吉地区
東日本大震災では、先人から伝わる教えの大切さ、重要性を改めて思い知らされる報道が数多くありました。
いくつかピックアップして冒頭にまとめましたが、そのなかで、一番着目するべき記事は、「津波の浸水が江戸時代の街道と宿場町の手前で止まっていた」という東北大学平川教授の研究結果です。
右上図を見ると、見事に今回の津波の浸水域と江戸街道の線が一致しています。
重要な街道と宿場町の位置決定にあたって、慶長津波などの記録から先人の教えを重要視して、安全な場所に造ったのでしょう。
このように、長期間の間隔をおいて繰り返される災害に対しては、薄れがちな災害の経験や記憶を大切に受継ぎ生かすことが重要であることを改めて思い知らされます。
関東地方に住んでいる者にとっては、関東大震災はもう80年前の話です。
しかし、その時に残された記録、体験者の教訓は常に心の中に留めておく必要があるでしょう。
先人の教えは貴重です。
貞昌院の先々代、先代住職が記録した関東大震災の記録を改めて見直してみます。
大正十二年九月一日
関東大震災、午前十一時五十八分、突如上下動の大激震、咄嗟に起り其の震動極めて峻烈、凄槍極る災厄をもたらし、許多の財宝と生霊とを烏有に帰せしめてしまった。当地域の約五割に及ぶ家産は全潰、殆んど残る家屋は半潰に近い。第一震後も約一分おき位いに余震が襲来し、生ける心地だに無い。その中にあって村民は一致協力、火災の発生防除に全力を尽くす。時恰も昼餉用意の最中、戸外避難の前に、火気の存する所には水をかけ、或は鉢などにて蔽い、当永野地区(注:横浜市港南区上永谷・野庭町)からは全く火災を生ぜさせなかった。
正午を過ぎて間もなく、横浜市街地上空は黒煙濠々渦巻いて空高く立ち込め、物凄い光景が当地区から見られる。時折大爆音を耳にす。横浜港沖合に富士火山系に亀裂を生じ大噴火を成しつつありと流言が飛ぶ。後に、石油、ガスタンクの爆破と分る。
各所に山崩れ起り、道路埋没して交通途絶数ケ所生じたが、全村民総出動で土砂を切り開き、三日後には全箇所開通した。
九月二日正午近くより、刻一刻、戦慄すべき流言が宣伝され、村民挙げて戦々競々と、各小部落互に山の中に小屋を設け、老人婦女子は、まとまって、小屋にかくれ、青年、屈強な男子は、各要所要所の部署に就き、見張り、警戒の任に当たる。間もなく軍隊が到着し全村民安堵し、安き眠りに就くことを得た。
(『永野郷土史』貞昌院28世 亀野源量大和尚による記録より一部抜粋)
関東大震災は、昼を迎える直前に発生しました。
地震の揺れによって、地域の半数の建物は全壊、ほとんどの建物は半壊の状態となってしまいました。
その後も1分おきに続く余震。
関東大震災により、貞昌院の伽藍も倒壊してしまいました。
関東大震災の被害を受ける以前の貞昌院は、絵地図に見られるように、茅葺屋根でした。
貞昌院の伽藍は、明治19年(1886年)の火災から再建された(明治34年再建)直後、関東大震災により倒壊という甚大な被害を受けます。
しかしながら、大震災翌年には茅葺から亜鉛葺きの本堂として再建されました。
地域の方々、檀家さんのご尽力の賜物だと感じています。
復興への力強さを垣間見ることができる顕著な事例です。
『永野郷土史』において、関東大震災の総括として、亀野寛量大和尚は次のように記述しています。
大震災に付随して起る災害については、関東大震災の記録等から次の点が挙げられる。1 大火災の発生
人家の密集地帯程被害が大きい、家屋倒壊の死者よりも火災による焼死者の方が断然多い。
東京府内 焼死者 56,774人(警視庁調)
溺死者 11,233 / 圧死者 3,608 / 負傷者 31,372
東京府の例を見ても一目瞭然である。
横浜市 総戸数 93,840戸 / 焼失戸数 55,826 / 倒壊戸数 18,149
家屋にしても地震による倒壊よりも火災焼失の方が数倍に上っている。
殊に悲惨を極めたのは正金銀行(現県博物館)の建物の堅牢なるを思うてここに避難した多数の人が折角の頼みも甲斐なく猛火の包囲に雪崩を打って地下室に入り込んだまま折り重って全部蒸焼になってしまったことである。2 水道、電気、電話、道路、電車、汽車の通信交通は全面に途絶する。
3 余震の継続
大地震の後は引続き、地鳴りを伴った余震が引っきりなしに襲ってくる。
大地の各所に亀裂を生じ余震によって亀裂に挟まることがあるので、注意せねばならない。4 伝染病の発生
5 海嘯(つなみ)の襲来
海辺近くに放した場合直ちに配慮しなければならない。6 流言蜚語が横行する。
人心が極度の不安に襲われると常識では考えられない程、冷静さを失い、馬鹿馬鹿しいとさえ思うことを信じきってしまうことになるものである。
関東地方在留の朝鮮の方々には誠に申訳けない程の気の毒な思いをさせたものである。7 食糧飲料水の不足
食糧倉庫の焼失、交通機関の杜絶から他地域から食糧が得られない、勿論精米所もその機能を失っているので精米は出来ない。
当時どの家庭でも空びんに玄米を入れ竹棒でつっついて白い米を得るのが一仕事であった。8 失業者の続出
商店、工場の焼失により、職を失う者の数増大し、失業者問題は社会秩序維持の上に最も重大なものとなってくる。大要以上のようなことが震災に伴って波生することを覚悟せねばならない。都市造りに最も重要視しなければ ならないことは思いきった多くの空地、緑地を持つこと である。
(『永野郷土史』貞昌院29世亀野寛量大和尚による提言 より)
時代を超えて学ぶべきことが多い記録、提言です。
私たちは後世の人のためにどれだけのものを残すことが出来るでしょうか。
教区東堂様が先日遷化され、本葬儀にむけて差定帳・記念誌を作成しています。
その中にも、学ぶべきことばが幾つもありました。
・「頼りになるのは他人(ひと)の力、頼りにならないのも他人(ひと)の力」
・「常に最悪を想定して行動せよ」
・「思っちゃいけない。やろうと思った時はしなかったとき。思う前に行動しよう」
・「出来事は全部必然、偶然はない」
(泉区T寺東堂様のことばより)
深い深い教えです。
先日宮城県沿岸部で目の当たりにした光景は、津波によって甚大な被害を受けた一面の瓦礫でした。
環境省によると、瓦礫の総量は宮城県だけでも1800万トン(車や土砂を除く)にのぼる見通しです。
阪神・淡路大震災で発生した瓦礫の量は約1400万トンとされていますから、宮城県だけでこの量を上回っています。
岩手県、福島県など他の地域を含めると、総量はどれ程になるのでしょうか。
毎日懸命の瓦礫撤去作業が行われておりますが、作業にかかわる方は本当に大変だと思います。
心より応援申し上げます。
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振り返ると、大正12年に発生した関東大震災において、震源地に近かった横浜は甚大な被害を受けました。
官公庁やグランドホテル・オリエンタルホテルなど石造・煉瓦造りの建物は一瞬にして倒壊し、更に火災によって外国領事館の全てが焼失、工場・会社事務所も90%近くが焼失してしまいました。
震災発生が昼食の時間帯と重なったこと、台風が接近していたことにより、広範囲が焼失し一面瓦礫の光景へと変貌してしまったのです。
死者・行方不明者は神奈川県だけで3万2千人、日本全体で10万5千余とされています。
さらに、横浜に居留していたアメリカ、ヨーロッパ諸国の貿易商のほとんどが横浜から神戸や海外へ流出してしまい、当時日本経済を支えていた生糸などの貿易拠点としての横浜の地位が極端に低下してしまいます。
「横浜はもう立ち行かない」「東京へ合併しては」など、絶望的な感情が市民を覆いつくしたそうです。
街や港湾施設の復興の妨げになったのが、大量に出た瓦礫。
この瓦礫をどのように処理するかが大きな課題でした。
その問題に、中心的に立ち向かったのが、当時横浜市助役だった楢岡徹氏です。
大量の瓦礫を使って横浜港を埋め立てする計画を立案しました。
1863年頃 フランス波止場完成(現、山下公園中央部)
1923年 9月20日 震災後の市の復興試案の中で海岸遊歩道として立案される
1923年10月10日 震災の折に発生した瓦礫の集積場として指定される
1923年10月14日 横浜都市計画案の中で、海岸遊歩道構想が海岸公園として計画される
1923年11月15日 公園計画が政府案に組み込まれる際に、その名称が山下公園に確定する
1925年 6月 着工
1930年 2月28日 完成
1930年 3月15日 開園(年表はウィキペディアより引用)
計画立案から約7年の歳月をかけて出来上がったのが「山下公園」。
今や横浜のシンボルとして欠かせない存在です。
山下公園は、このように関東大震災の瓦礫によって出来た公園なのです。
みんなでつくる横濱写真アルバムに、開園当時の山下公園の写真が掲載されています。
⇒http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/3028/
洗練されたデザインの公園の完成は、関東大震災から復興する横浜の原動力として横浜市民の心に刻まれることとなりました。
東日本大震災で甚大な被害を受けた地域も、復興に向けて力強く進むことを願っています。
東日本写真保存プロジェクトが受付を開始しました。
東日本大震災で失われる前の風景や思い出、被災地の現在のありのままの姿 、被災地にのこされている思い出の品物の様子、復興の過程の様子などなど、震災の記録を写真でのこすプロジェクトです。
※お願い: 復旧活動や安全確保の妨げにもなりかねない、個人的な見物や写真撮影を目的とした被災地への立ち入りは自粛いただきますようお願い申しあげます。
宮城県沿岸部の中で、日本三景・松島の湾内は海上に点在する島々によって津波のエネルギーが受け止められ、その分被害が軽減されたと言われています。
そのために、松島は、だいぶ島の形が変わってしまいました。
松島のホテルの中は、既に営業しはじめているものもあり、松島観光船も営業を再開する準備に入っています。
私たちが宿泊したホテルも、松島のホテルです。
しかし、宿泊客は災害復旧関係者、ボランティアばかり。
街では、観光客に足を運んで欲しいそうです。
しかし、全体的な大震災復興の道筋が見えない中、また余震が続く中ではなかなか観光客の出足は伸びそうにありません。
地域でお金を消費するということも復興支援の一つだと思うのですが・・・・
4月11日の夜、大きな余震があったため、東北自動車道が通行止めになり、南三陸・気仙沼方面に行っていた東京宗務所の皆様が帰れなくなり、急遽私たちと同じホテルに宿泊することとなりました。
再び情報交換をすることもできました。
炊き出しを行ってきた避難所では、これまで炊き出しが行われたことが無く、大変に歓迎されたそうです。
避難所による格差は大きく、物資面だけをとってみれば食べ物も物資も届いている場所もあれば、最低限の食料すら届かない場所もある(避難所格差)ようで、必要なところに必要なものが届くための体制作りが早急に必要なようです。
そのようなことがようやくわかり始めてきた段階なのでしょうか。
昨日のブログ記事に書いたとおり、寺院・僧侶はそれぞれが地域に根付いたそれぞれのネットワークを持っています。
寺院・僧侶の持つネットワークは、行政の手の行き届かない部分を埋める重要な役割を果たします。
追記
この美しい松島も、「住宅再建」か「景観保全」かという難しい問題に直面しています。
東日本大震災の津波被害からの復興をめぐり、日本三景の一つ「松島」が揺れている。
津波から身を守るため高台への移転を求める地元の要望に、国宝級の美しい景観を守るための法規制が立ちはだかる。
住宅再建か、景観保全か。担当の文化庁は簡単には判断できずにいる。
■被災住民「安全な高台に家」
「同じところに家は建てたくない」
「松島」の一つ、桂島(宮城県塩釜市)でノリ養殖業を営むUさん(52)はため息をついた。Uさんが約8年前、約1500万円かけてリフォームした2階建ての住宅は、津波で流された。浜辺近くの約5千万円のノリ乾燥施設も失った。それでも、養殖を続けたい。「この年でほかに働く場所はない。行く場所もない」
桂島では華のうち、50戸が全半壊した。被災者の多くは漁業を続けるため、より安全な近くの高台に移りたいが、希望は簡単にかないそうもない。
同島を含む周辺1万2600ヘクタールは、国の特別名勝「松島」に指定されているからだ。
地区内は文化財保護法に基づき、文化庁の指導で県が作る県保存管理計画で7段階に分けて建設を制限。
76ヘクタールの桂島の高台の多くは、建造物の新築が認められていない「特別保護地区」と「1A地区」だ。
高台は規制の壁で新築できない。低地は津波の心配がある。このジレンマに被災者は悩んでいる。
松島全体の被害の全容はまだ分かっていないが、「奥松島」の名で知られる同県東松島市の宮戸島も壊滅的な被害を受けた。人口約1千人。13日現在でも半数が避難生活を続けている。
外洋に画した四つの浜は夏には海水浴客でにぎわい、民宿で生計を立てる住民も多い。ここでも「安全な高台に建てたい」との希望が目立つ。
地元の村井嘉浩知事は規制緩和に動き出した。
先月30日の県災害対策本部会議で、阿久津幸彦・内閣府政務官に建築規制の緩和を要求した。
県が期待を寄せるのは文化財保護法125条4「非常災害のために必要な応急措置を執る場合、保存に影響を及ぼす行為については影響の軽微である場合は、この限りでない」 県側は、この例外規定を家屋に適用して「弾力的な運用を」と求める。
ただ、松林と切り立った岩肌の景観が失われると、中長期的には観光産業がダメージを受けかねない。指定区域内の自治体関係者の一人は懸念する。「いったん規制を緩めれば、収拾がつかなくなる恐れがある」
■文化庁「世代超えた宝だ」
被害調査で現地入りしている文化庁の本中真主任調査官は13日、同県塩釜市の渡辺誠一郎教育部長と会談した。前日の東松島市と同様、「規制」についての議
論は平行線をたどった。渡辺部長「復興にとって規制は大きな課題。保護と復興を調和させる選択肢を示してほしい」
本中調査官「住んでいる方がまず大事だが、特別名勝の価値を守ることを前提とした計画をまとめていただきたい」
被災地の「復興優先」の声に文化財保護の必要性の訴えがかき消されることを同庁は懸念する。
(朝日新聞2011/4/14)
非常に難しい問題です。
地元住民にとっては、より安全な場所に住居を構えたいということは当然の心情でしょう。
しかし、松島は日本を代表する名勝地です。
そこに無秩序に住宅が立ち並んでしまったら、松島の価値が失われます。
後世に文化財を残すことも私たちの大切な役割です。
この論議は、慎重に審議されていく必要があるでしょう。
東日本大震災では、3月11日午後から翌12日午前9時までに出された緊急地震速報13回のうち、4回分が長野県北部での地震を栃木県で地震発生などのように適切な予測でなかったそうです。
原因は離れた場所で同時に地震が発生したため、それぞれのデータの分離ができなかったことによるものと考えられています。
今回のように幅広い震源域をもつ震災では仕方の無いことでしょう。
仮に適切でない予報が多く出されても、身を守る行動は怠り無くする必要があります。
新幹線 揺れ9秒前にブレーキ
今回の地震で、東北新幹線は地震の揺れをいち早く検知するシステムが作動して、最初の揺れの9秒前、最も大きい揺れが起きる1分10秒前に非常ブレーキをかけて減速を始めていたことが分かりました。JR東日本は、この効果もあって新幹線が脱線を免れたとみて、データの詳しい解析を進めています。地震発生当時、東北新幹線は27本の列車が乗客を乗せて走っていましたが、いずれも脱線せず停止しました。JR東日本は、東北新幹線の沿線のほかに、太平洋沿岸にも岩手県の宮古や宮城県の牡鹿半島などに9つの地震計を設置し、揺れをいち早く検知して列車を減速させる「早期地震検知システム」を備えています。今回は、東北新幹線の線路からおよそ50キロ離れた牡鹿半島の地震計が、午後2時47分3秒に運転中止の基準となる「120ガル」という地震の加速度を捉えました。このため、システムが自動的に架線を停電させ、走行中の新幹線は一斉に非常ブレーキをかけて減速を始めました。このうち、線路沿いの地震計が最も大きな揺れを観測した仙台駅と、1つ北の古川駅の間には「はやて27号」と「やまびこ61号」が走っていましたが、JR東日本がデータを解析したところ、これらの列車が非常ブレーキをかけた9秒後から12秒後に最初の揺れが始まりました。そして1分10秒後に最も強い揺れが起きていました。このとき新幹線が何キロまで減速できていたかは分かっていませんが、JR東日本は強い揺れの前に減速を始めていたこともあって、新幹線が脱線を免れたとみて、さらに詳しくデータの解析を進めています。
(NHKニュース 4月5日配信)
震災の際に、新幹線をはじめ、鉄道に導入されている地震警報システム(通称「ユレダス」)の効果が顕著に発揮されています。
「ユレダス」とは、Urgent Earthquake Detection and Alarm System の頭文字をとったものです。
国鉄鉄道技術研究所の開発したシステムで、地震の際に即座に運行中の列車を止め、あるいは急ブレーキをかけることで被害を最小限に抑える仕組みです。
特に新幹線は一秒間に6~70メートルほど進みますので、ブレーキをかける1秒の遅れが大惨事を引き起こしかねません。
2004年に発生した新潟県中越地震では、震源直上にあった「ユレダス」が地震のP波を検出して僅か1秒以内に警報を出し、付近を走行中の全ての列車に非常制動がかかりました。
この時は「とき325号」が脱線してしまいました。
震源に近かったため、警報からS波到着まで2秒もなかったことが原因です。
それでも、死傷者を出さなかったという意味は大きく、大きく揺れ始める前に急ブレーキが作用したということが功を奏したといえます。
このシステムが無かったとしたら、脱線だけでは済まなかったことでしょう。
東日本大震災でも、「ユレダス」が大きな役割を果たしました。
今回は震源が三陸沖合いだったこともあり、S波が到達する少なくとも9秒前には急ブレーキが作動していたようです。
東北新幹線では合計27本の列車が乗客を乗せて走行していましたが、どの列車も脱線を免れました。
つくづく緊急地震速報のシステムは世界に誇るべき技術だと感じます。
東日本大震災で東北新幹線は、高架橋など多数箇所に被害を受けたものの、東京~那須塩原間、盛岡~新青森間は既に運転を再開しています。
明日には盛岡~一ノ関、4月12日には那須塩原~福島、4月下旬には全線にわたり運転再開する見通しとなりました。
鉄道技術者の総力を挙げた復旧作業に心から賞賛したいと思います。
東北新幹線の全通が復興の大きな原動力となることでしょう。
| There's an old folk warning that if you throw a frog in boiling water he will quickly jump out. But if you put a frog in a pan of cold water and raise the temperature ever so slowly, the gradual warming will make the frog doze happily . . |
イギリスの人類学・社会学・言語学者、グレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson)が紹介した有名な寓話です。
蛙を熱湯に放り込むと、熱さに吃驚して蛙は直ぐに飛び出します。
しかし、水の中に入れて、ゆっくりと加熱していくと、蛙は水温が上がっていることを感じ取ることができずに、茹で上がって死んでしまうというものです。
状況を的確に捉えて対応することができず、遅々として入る情報に対処療法的にしか対応できない組織と、それに属する人の心理を説いたものです。
何とかなるだろう、たぶん大丈夫・・・事実の深刻さに気付くのに時間がかかり、気が付いた時には手遅れになってしまうという警鐘です。
日本人は世界各国より大震災の際も「冷静でパニックを起こさない」「怒鳴り合いもけんかもない」「本当に強い国だけがこうした対応ができる」と報道されています。
とても素晴らしいことだと思います。
誇るべきことでもあります。
しかし、それゆえの短所もあります。
「何とかなる」「喉元過ぎれば暑さ忘れる」「長いものには巻かれろ」「皆で渡れば怖くない」・・・・
本当はとても深刻な状態なのに、その事象を少しづつ悪化しているような捉え方をしたり、オブラートに包んだような表現をしたり、すぐ身近まで迫って来ないと気が付かない。
そして気付いた時にはもう手遅れ。
そうならないことを願います。
政府が世論に押されてようやくSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の被曝予測図を出したのは3月23日になってからのことです。
つまり予測ではなく、事後発表。
事故発生から一週間ほどの東電、政府、原子力保安員の記者会見を改めて振り返ると、それらが適切だったかどうか疑わしいことも多い。
海外ではいち早く被曝予測を行って公表しています。
事故の重大さを適切に捕らえ、迅速な事後対応が適切に行われていれば、事態が深刻かつ長期化しなかった可能性があります。
原子力発電所への対応が障害になり、政府がなかなか被災地復興に全力を注げない状況にも、もどかしさを感じます。
今一度、災害復興に立ち向かう体制をきちんと見直す時期ではないでしょうか。
この度の東北地方太平洋沖地震により被災されました多くの方々、そしてご家族の皆様方に、心よりお見舞い申し上げます。
日本で起こった大惨事に大変胸を痛めたクレモンティーヌより、「上を向いて歩こう」が届きました。
(クレモンティーヌ公式サイトより)
| 上を向いて歩こう | Ue o muuité arukoo crois en ton étoile Ue o muuité arukoo (*refrain) |
(訳: meguro75 さん)
今日は近隣の小学校で卒業式が行われました。
私は、民生児童委員として毎年小中学校の卒業式に出させていただいています。
今年の卒業児童は150名。
最初に犠牲となられた方々への黙祷から始まりました。
校長先生の祝辞で、震度7を記録した宮城県栗原市の中学校で地震発生から4日後に行われた卒業式のことを紹介されていました。
体育館が使えず、会議室行われた簡易的な式だったそうですが、
「こんな大変な時に卒業式なんてできないと思っていた」「みんなで力を合せて、前を向いてがんばる」
被災地の卒業生たちの力強いことばです。
震災の爪あとはあまりにも大きい。
三陸沿岸では目を覆いたくなるような惨状が広がっています。
宮城県北部では、2008年の震災からようやく復興の兆しが見えてきた中での大震災。
けれども、被災地の子どもたちは、しっかり前を向いてがんばっているのです。
卒業式そのものが行われなかったり、延期する学校も少なくありません。
けれども、卒業式が延期となった学校では、震災から立ち直った日にいつでも卒業式の式典を開くことができるよう、紅白幕をそのままにしているそうです。
このような時だからこそ、子どもたちを暖かく送り出していきたいと考える学校側の思いです。
私たちが子どもたちの未来のために出来ることは何でしょうか。
いろいろと考えましたが、まずは、栗原市の卒業生と同じく「みんなで力を合せて、前を向いてがんばる」ことでしょう。
今年の卒業式は特に心に残る卒業式でした。
東日本各地を襲った巨大地震発生から3日目を迎えます。
時々刻々と甚大な被害状況が伝えられています。
市町村全体が壊滅的な被害となった地域も多く、被害状況の全容を掴むまでにはかなりの時間が掛かることが予測されます。
未だ救助されずに取り残されている多くの方が、一人でも多く、一刻も早く救出されることを願います。
そして、改めて犠牲となられた方々に心より哀悼の意を表します。
現地からどのような支援が求められているのかを見極め、国民が一丸となってこの地震に立ち向かう必要があります。
寺院として、僧侶としてはどのような支援ができるのでしょうか。
注意しなければならないことは、むやみにボランティアとして現地に赴くことは、却って現地にとって邪魔になることです。
被災地から遠く離れた場所からの支援としての基本として考えられることは、
(1)まずは災害で命を落とされた皆様に謹んで弔意を表し、被害が拡大しないことと復興を願い法要を営むこと、
(2)電力消費を可能な限り抑えること(節電)、
(3)そして金銭的な支援でしょう。
これから各地で被災者を支え、復興に向けた活動が本格化されていくことと思います。
阪神淡路大震災の際には、国や地方自治体、民間の各関連団体が連携をして災害支援活動が行なわれました。
その教訓を生かして、組織的に効率的な支援が為されることを期待します。
阪神淡路大震災の震災復興支援に関する組織的な記録として、曹洞宗国際ボランティア会(現SVA)のまとめた貴重を以前ブログ記事でご紹介しましたが、再掲いたします。
阪神・淡路大震災ボランティア緊急救援活動の軌跡 よろずかわら版縮刷版
発行:神戸 : SVA(曹洞宗国際ボランティア会)神戸事務所
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震災直後の行政の対応が問題になった阪神大震災であるが、我々の組織もこのような事態に対するノウハウは全くなかった。全国曹洞宗青年会と各地の青年会などが連携し活動を組織化したのだが、初動の段階は一般ボランティアと同じように神戸に向かった数人の僧侶によって行われた。炊き出しも最初は4、5人が小さな鍋で行ったが、十日の内に1日2万食を作ることを可能にしたのである。全国にまたがる宗門僧侶のネットワークが機材、食材をとぎれることなく提供し現場の活動を支援した。それは、神戸で活動するボランティアの自活をも支えてくれたのである。初期の段階ではいろんな混乱はあったが、個人と組織、現場と地方がうまくかみ合っておこなった活動であった。僧侶、学生、一般のボランティアが一つ屋根の下で融合しつつ活動した様子は日頃の組織を越えた自由さがあった。僧侶もほかのボランティアに混じり、生き生きとしていたように感じた。それぞれがそれぞれの社会的立場を意識していなかったのではないであろうか。ほとんどの僧侶は亡くなった多くの方たちのための慰霊もだが、ほかもそうであったように今苦悩している被災地の人々に対し何かできないかと集まってきていた。宗教は本来苦悩して生きている人を助けるためにあるというのが釈迦の説く仏教の実践である。
「施食」という言葉がある。一般には食事を施しなき精霊のために供養をすることであるが、さらにはお互いが持っている貪りの心を抑え、生きている一切のものにもまた亡者にも慈悲をめぐらしてゆくという仏教の持つダイナミックな宗教観がこれにはある。我々僧侶も炊き出しを通じ被災者と対峙した。そして彼らの言葉を近くで聞きながら、援助とは施食とはそして宗教者とは、と自らに問いかけたのではないであろうか。『全国曹洞宗青年会の救援活動の記録』 (1996,全国曹洞宗青年会十期会長のことばより引用)
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過去に被災地のに居た僧侶たちは被災地でどのような活動をしてきたのか纏めた資料を、今後の被災地支援に役立てることができるはずです。
未だ救助されずに取り残されている多くの方が、一人でも多く、一刻も早く救出され、一日も早い復興がなされますように。
福島第1原発で炉心溶融か=付近でセシウム検出―保安院
経済産業省原子力安全・保安院は12日、東日本大震災で被災した東京電力福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)1号機で、核燃料棒が高温で溶ける「炉心溶融」が起きている可能性が高いと発表した。
保安院によると、1号機周辺で、放射線医学総合研究所のチームが放射性物質のセシウムを検出。セシウムは核燃料棒に含まれており、融点が高いことから、炉心溶融を起こしている可能性が高いと推測されるという。
保安院などによると、同原発1号機は12日午前から原子炉冷却水の水位が低下。一時は核燃料棒が冷却水の水面から露出し、核燃料の損傷が懸念されていた。
(時事通信 3月12日(土)14時11分)
東京電力福島第1原発の1号機で炉心溶融の可能性があるという発表がなされました。
仮に炉心溶融(メルトダウン)が進み、制御不能となると、計り知れない甚大な被害が想定されます。
その事態だけは何としても避けていただきたいものです。
ブログ記事 太陽光発電の国ニッポンの復権を で記載したとおり、日本における発電の割合は、比較的バランスの取れた内訳を取る施策のもと、全体のおおよそ4分の1を原子力発電によって賄っています。
そして、原子力発電所は沿岸部、海に面した敷地に作られています。
したがって、今回の大震災のように沿岸部に多発的に発生し、しかも津波を伴うような甚大な災害の場合、それこそ「想定外」の事態を引き起こします。
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原子力発電では様々なレベルの事故を想定していますが、そのうちの最悪の事態が炉心溶融(メルトダウン)です。
これは、原子炉の温度制御が出来ず、温度が上がりすぎ、燃料棒が溶融して流れ出してしまう現象です。膨大なエネルギーのために原子炉が破損してしまいます。
温度制御を行うための冷却水が失われて炉心の水位が下がるため、燃料棒が水面上に露出してしまうことが原因です。
何故炉心溶融が最悪の事故となるかというと、燃料のウランが核分裂して発生する「死の灰」Cs-137(セシウム137)が拡散してしまうからです。
セシウム137は、人体に取り込まれやすく癌の原因となる物質です。
しかも、半減期は30年もあり、土や農作物に入ってしまうと、除去することが困難で、食物を通した体内被曝を引き起こします。
それこそ発電所周辺の広大な土地が将来に亘って立ち入ることの出来ないエリアとなり、何百何千万人もの癌患者を発生させてしまうということも、決してSFの世界のお話ではありません。
仮に1979年に発生したスリーマイル島の原子力発電所のような事故が首都圏の近くで発生した場合には、如何に危険な状態となるかが伺えます。
○原子力安全・保安院等の対応
【3月11日】
14:46 地震発生と同時に原子力安全・保安院に災害対策本部設置
15:42 福島第一原子力発電所にて原子力災害対策特別措置法第10条通報
16:36 福島第一原子力発電所1、2号機にて事業者が同法第15条事象発生判断(16:45通報)
18:08 福島第二原子力発電所1号機にて原子力災害対策特別措置法第10条通報
18:33 福島第二原子力発電所1、2、4号機にて原子力災害対策特別措置法第10条通報
19:03 緊急事態宣言
20:50 福島県対策本部は、福島第一原子力発電所1号機の半径2kmの住人に避難指示を出した。(2km以内の住人は1864人)
21:23 内閣総理大臣より、福島県知事、大熊町長及び双葉町長に対し、東京電力(株)福島第一原子力発電所で発生した事故に関し、原子力災害対策特別措置法第15条第3項の規定に基づく指示を出した。
・福島第一原子力発電所1号機から半径3km圏内の住民に対する避難指示。
・福島第一原子力発電所1号機から半径10km圏内の住民に対する屋内待避指示。
【3月12日】
5:22 福島第二原子力発電所1号機にて原子力災害対策特別措置法第15条通報
5:32 福島第二原子力発電所2号機にて原子力災害対策特別措置法第15条通報
5:44 総理指示により福島第一原子力発電所の10km圏内に避難指示
6:07 福島第二原子力発電所4号機にて原子力災害対策特別措置法第15条通報
6:50 原子炉等規制法第64条第3項の規定に基づき、福島第一原子力発電所第1号機及び第2号機に設置された原子炉格納容器内の圧力を抑制することを命じた。
7:45 内閣総理大臣より、福島県知事、広野町長、楢葉町長、富岡町長及び大熊町長に対し、東京電力(株)福島第二原子力発電所で発生した事故に関し、原子力災害対策特別措置法第15条第3項の規定に基づく指示を出した。
・福島第二原子力発電所から半径3km圏内の住民に対する避難指示。
・福島第二原子力発電所から半径10km圏内の住民に対する屋内待避指示。
(原子力安全・保安院「地震による原子力施設への影響について(13時30分現在)(第14報)より) →最新の発表はこちらをクリック
続報で1号機で爆発が起こったという情報(15時30分)もあり、最悪の事態に陥るかどうか瀬戸際のところだと思われます。
というより、是が非でも回避してもらわなくてはなりません。
また、私たちも政府や原子力安全・保安院など、しっかりした情報源からの情報を見極めて、チェーンメールや噂などの怪しい情報に惑わされることが無いよう心がける必要があります。
(追記)20:45 枝野官房長官の会見によると、爆発は1号機格納容器と建屋との間で起こった水蒸気爆発であり、格納容器に破損は無いとのことです。
この会見の内容が正しければ、最悪の事態は現在のところ回避できていることになります。
引続き続報が望まれるところです。
ここからの話は、この事故が落ち着いてから考えていかなければならないことですが、私たちの豊かな生活が少なからず原子力発電により支えられているということ、想定外の最悪の事故と隣り合わせにあることを常に念頭に置く事が必要でしょう。
そして、もしも原子力発電施策を見直すのであるのなら、現実的にどうしたら良いのかを提示して考えていかなければなりません。
首都圏の電力を賄う発電所がいくつも停止になってしまい、工場が稼動し始める14日 月曜日の電力供給が大丈夫かどうか心配です。
3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とする国内観測史上最大のM8.8の地震が発生し、宮城県北部では震度7を観測する大きな揺れとなりました。
さらに3時15分にもM7.3の余震、引続き茨城県南部で震度6弱を観測する地震と、多発的に大きな地震が起きています。
この地震の影響で仙台新港には高さ10mの津波が押し寄せた他、北海道から沖縄県まで広い範囲に津波が押し寄せました。
これら地震の揺れと津波の引き起こした被害はどれほど甚大なものであるか把握すら出来ない状況となっています。
被災されました皆様には心からお見舞い申し上げ、亡くなられた方には弔意を表します。
今回の地震が発生した時に真っ先に頭に浮かんだのは、地震発生の一週間前、3月4日に52頭ものイルカが茨城県の砂浜に打上げられたニュースです。

(写真は毎日新聞より引用:砂浜に打ち上げられたイルカに海水をかける地元住民ら=茨城県鹿嶋市の下津海水浴場で2011年3月5日)
これだけ巨大な地震が発生するまでには、海底プレートに(私たち人間に感じることが出来るよりも遥かに微かな)何らかの兆候があったのだろうと推測されます。
当時、専門家のは、何らかの病原菌により引き起こされた行動ではないか?という可能性を軸に原因を調査していくという報道でありました。
しかし、(これはあくまでも私個人の推測ですが)イルカのこのような集団行動が大地震の予兆であったと誰が予測したでしょうか。
日本では、地震発生を初期微動発生から数秒後に地震が起こるであろうという予報システムは最近整備され運用されるようになりました。
しかし、数日後に地震が起きるであろうということを予測するまでには至っていませんし、同時多発的に地震が発生した場合には正確に機能しないことが懸念されます。
今後、動物の持つ能力が解明され、地震予知がより適切に行われるようになれば、地震被害を食い止める大きな役割を果たすことになるでしょう。
この分野での研究が進むことを期待します。
ただただ、「後になって思えば」という事ばかりで、大自然の中で人間の力が如何に微小なものであるか、ということを思い知らされるばかりです。
貞昌院本堂で行われた劇団 IDIOT SAVANT theter company による舞台『彼方、蓮台野にて』がタウンニュース港南区版に掲載されました。
姥捨て山は、深沢七郎の小説『楢山節考』で有名となりました。
東北地方を中心にかつてあった貧しい村の辛くて悲しい掟です。
姥捨てをした息子は「それ」を成し遂げた場面で「母を置いていくことなど出来るはずがない。・・・僕はあなたを棄てられない」と悩み、苦しみます。
集落では盛大な葬儀が準備され、葬送の儀式が行われました。
経済的に豊かになった現代では、姥捨て山のようなものは無くなったのでしょうか。
劇はその後、街中の交差点を渡ろうとして途中で転んでしまい、横断歩道の真ん中で赤信号になってしまったお年寄りを嘲笑する若者の場面に切り替わります。
老人ホームに送り込まれるお年寄りたち。病気になっても見舞いに行くわけでもなく、亡くなっても葬式、供養もされない。
その若者も心が満たされているかといえば、必ずしもそうではない。
続く。・・・続く。・・・・続く。
鬼の面をつけた老婆はそう叫んで劇は幕を閉じます。
お面が凍りつき、歪み、割れ、この世の果てに馴れていく時に、この物語は安臥することができるのでしょうか。
姥捨て山は現代でも続いている。
却ってかつての貧しい村の方がマシだったのかもしれない。
劇の訴えかける問題は私たちに深く、重く圧し掛かってきます。
ここからは蛇足です。
現代では、山間部や離島を中心に、過疎化や高齢化が急速に進行しています。
その進み方が急激過ぎるために、集落自体の自治やインフラの管理、冠婚葬祭などの生活機能すら維持できず、そのまま消滅に向かうという深刻な問題が発生しています。
もはや子どもたち、未成年者が姿を消し、一人暮らしのお年寄りや、その予備軍だけが残されている集落であり、「限界集落」と呼ばれています。
集落をこの視点から分類すると次のようになります。
55歳未満人口比50%以上「存続集落」・・・跡継ぎが確保されており、共同体の機能を次世代に受け継いで行ける状態
55歳以上人口比50%以上「準限界集落」・・・現在は共同体の機能を維持しているが跡継ぎの確保が難しくなっており、限界集落の予備軍となっている状態
65歳以上人口比50%以上「限界集落」・・・高齢化が進み、共同体の機能維持が限界に達している状態
そして誰もいなくなった「消滅集落」・・・かつて住民が存在したが完全に無住の地となり、文字通り集落が消滅した状態
日本のにおいては少子高齢化の進行により「準限界集落」にある集落は急速に「消滅集落」への道を辿ります。
姥捨て山は悲しい慣わしです。
しかし、それすらも「続く」ことさえ出来なくなり、集落が(もしくは自治体さえも)消えて無くなってしまう時代を迎えていることを真剣に考えていくことが必要でしょう。
今回の記事はkameno私見によるまとめです。
松ケ崎横穴古墳群の現状
松ヶ崎古墳現地調査
の記事を併せてご参照ください。
平成23年1月24日に行なわれた現地調査により確認された横穴墓の位置を出来るだけ正確にプロットしてみました。
(さらに正確な位置図は港南歴史協議会により出される予定です)
ここに記載されている①~⑦は仮符号です。この番号付与の理由は後述しますが、名称をどのように付与するかにより曲解や誤解、事実誤認が生じることが今回の事例でよく判りました。
そのあたりも後述致します。
まずは現地調査のまとめとこれまでの調査記録の突合せをします。
表:松ケ崎の南斜面に分布する横穴古墳群のまとめ
| 仮符号(内寸計測順) | ① | ② | ③ | ④ | ⑤ | ⑥ | ⑦ |
| 『神奈川県埋蔵文化財調査報告・港南台』 (昭和51年刊) | 松ケ崎の南斜面に分布する横穴古墳群は、不揃いだが上、下二段に分列して、8穴が開口している。 | ||||||
| 『港南の歴史』 (昭和54年刊) | 1号墓 | 2号墓 | 3号墓 | 4号墓 | 5号墓 | 記述なし | 記述なし |
| 歴史協議会による現地調査(平成23年1月24日) | 確認 | 確認 | 確認できず | 確認できず | 確認 | 確認 | 確認 |
昨年夏に書いた 松ヶ崎横穴古墳群の現状 のブログ記事においても、この遺跡に分布する横穴墓を①~⑦の表記をいたしました。
その理由は、『神奈川県埋蔵文化財調査報告・港南台』でいうところの「松ケ崎の南斜面」は、旧港南台高校敷地南部の舌状台地(冒頭の航空写真中央の緑地部分)全体を指すと考えるのが妥当であろうからです。
『港南の歴史』 では、当時馬場先生により調査確認できた1号墓~5号墓の位置と内寸が測定、記録されました。
ところが、港南台高校及び地域の歴史研究者は、別途⑥の横穴墓1箇所だけを認識しており、これを松ヶ崎古墳としておりました。
両者は、それぞれの場所を「松ヶ崎古墳」と呼んでおり、この状況は今回平成23年の実地調査まで続きました。
さらに、その⑥の横穴墓を『港南の歴史』の5号墓と誤認したことにより、「西面1~5号墓」「南面1~5号墓」というように「5穴から成る横穴群が2つある」という幻を生み出しました。
この幻が「⑥⑦の横穴墓の左側にさらに3つの横穴墓があるはずである」という誤解を生み出したのです。
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平成23年1月24日の調査では、⑥の横穴墓は『港南の歴史』の5号墓とは違う横穴墓であることが確認できました。
そして、⑥の横穴墓は、この日に初めて内寸が測定されています。
少なくとも言える事は、西面4号、5号墓という命名は不適切であり、もしも⑦を西面4号墓、⑥を西面5号墓と表記する文献があったとしたら、それは今後大きな誤解を招く元となりますので注意が必要です。
あたかも西面にさらに3つの穴がある(あった)という事実誤認の源となるからです。
また、西面、南面という表記も疑問です。
航空写真や地図を見て判るとおり、松ヶ崎舌状台地に分布する横穴群のある面は「南東」「南西」向きです。
仮に2つの古墳群に分けたとしても、南面という呼称がどの面を指すのかが不明瞭となります。
数十年後に同様な誤解を生む源となりましょう。
| 仮符号(内寸計測順) | ① | ② | ③ | ④ | ⑤ | ⑥ | ⑦ |
| 位置(北緯・東経) | 35.220856N | 35.220861N | 35.220876N | 35.220885N | 35.220920N | 35.220911N | 35.220919N |
| 位置特定・内寸計測年度 | 昭和51年 | 昭和51年 | 昭和51年 | 昭和51年 | 昭和51年 | 平成23年 | 平成23年 |
※これまでこのブログでは一貫して同じ仮符号により表記してきました。
※このブログ記事に対するご意見は、コメント欄などにより、私に直接お届けくださいますようお願い致します。
今日の朝日新聞「青鉛筆」に元三大師のおみくじに関する記事がありました。
おみくじには、大きく和歌調のものと漢詩調のものにに大別できます。
このうち、元三大師によるおみくじは五言四行の形式をとるのが基本です。
一般的に元三大師として知られますが、比叡山延暦寺の中興の祖・第18代天台座主良源大和尚(912年10月15日-985年1月26日)のことです。
良源大和尚は、実在の人物であり、中世以来、独特の信仰を集めています。
特に「厄除け大師」として「角大師」「豆大師」「厄除け大師」などさまざまな別称を持ちます(左図参照)。
元三大師が作られたとされるおみくじは、その起源は中国南北朝から室町初頭ごろの「天竺霊籤」とされ、それが日本に入って「元三大師百籤」「観音みくじ」として流行したようです。
これが発祥とされています。
「元三大師百籤」の特長は、第一番大吉から第一百番凶まで、一連の番号になっていることです。
記事にあるとおり、富山県真国寺のおみくじのように古いものほど凶の割合が多い傾向にあるようです。
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さて、貞昌院に伝わるおみくじは、天神おみくじで菅原道真の和歌を使用したものです。
江戸時代、安藤広重の(1797-)の時代に江戸中橋正木町で作られました。
版木が残っているおみくじとしては、恐らく日本で一番古いのではないかと思います。
(これより古い版木が残るおみくじをご存知の方はお知らせください)
貞昌院のおみくじの凶の割合は半端でなく多いのです。
何しろ50%以上が凶ですから。
永田住職の仰るように、「自分を省みて成長するチャンスの意味が込められている」と考えるのが適切でしょう。
昔の人もそのように考えていたのではないかと思います。
■おしらせ
貞昌院を会場に区民企画講座 わがまち「貞昌院のおみくじ」に関する講座を開催します。
1月29日午前9時30分より 貞昌院にて
2日午後0時35分ごろ、神奈川県箱根町塔之沢の国道1号で、箱根駅伝に出場中の国学院大の監督らを乗せた乗用車が沿道左側にいた観客と接触、50代の男性3人がいずれも足に軽傷を負った。
県警小田原署によると、現場は片側1車線の緩い右カーブ。男性運転手は「反対車線の沿道から応援している観客が飛び出してくる気配があったので、とっさに左にハンドルを切ったら、ぶつかってしまった」と話しているという。
現場は往路第5区の千歳橋付近。箱根駅伝を主催する関東学生陸上競技連盟によると、車は運営管理車と呼ばれ、選手や沿道の安全管理のため各校1台ずつ配置されている。
(毎日新聞2011/1/3)
箱根駅伝は年々沿道で応援する方が増えてきてることを実感します。
歩道一杯に人が溢れる場所もあり、大会運営者や警察、ボランティアの皆さんたちの大変な尽力によって選手たちが安全に競技できる環境が作られています。
それでも、毎年様々なアクシデントが発生しています。
今年は、安全管理を行うべき運営管理車が沿道に突っ込んでしまうという事故が発生してしまいました。
幸いにも競技自体に影響は無かったのですが、報道にあるように、「反対車線の沿道から応援している観客が飛び出してくる気配があった」ということが真実であれば、飛び出した観客も咎められるべきでしょう。
いずれにせよ、巻き込まれた50代の男性3人は本当に災難でした。
昨年(2010年)は箱根山下りの6区で山梨学院と併走していた中央大学の山下選手が、恵明学園前の下りカーブで、コースに飛び出した沿道ファンの旗を避けようとして転倒、その先の観客の中に突っ込んでしまうというアクシデントもありました。
山下選手は冷静に競技に戻り、なんとか襷を繋いだものの、走り終えた山下選手の靴は血だらけでした。
少し前では、1987年(箱根駅伝の全国中継が始まった年)に最終10区で順天堂大学の工藤選手が、道路上に興奮して飛び出してきたファンと接触し転倒するという事件も発生しています。
2008年、私が応援に行った2区ではこのような光景を目の当たりにしました。
よく見ると、旗の先が首に当たりそうです。
これは本当に危ない。
選手にとって迷惑この上ないでしょう。
皮肉なことに、この旗は駒澤大学の応援旗です。
応援する際には必ず歩道縁石よりはみ出さず、旗も選手に向けて振っては決していけません。
沿道での応援は選手たちにとっては大きな励みになることは確かです。
しかし、走っている選手の邪魔になったり、競技を妨げることがあっては決してなりません。
(1)応援する場所選び
これは大事なポイントです。まずは選手たちが右カーブを走った先の沿道がベストです。
図で示すと右のような感じです。選手が左から右に走るとすると、赤●がベストポジション。
ガードレールがあると尚良いです。前にはみだして応援する観衆もありません。
望遠(300mm)で撮影すると上の宇賀地選手の写真のように正面からの姿を撮ることができます。
同じ地点で撮った焦点距離50㎜相当の写真↓を比べると、どのような場所で撮影した写真なのかよく判ると思います。
(2)なるべく簡潔に
カメラはEos-kiss とタムロンの28-300mmレンズを使っています。
これがあれば充分です。
三脚や脚立は他の方に迷惑となるので使わないほうがよいでしょう。
(3)たまには少し下のアングルから
足の筋肉、フォームがよく判ります。
応援の旗が撮影の邪魔にならないこともメリットです。
(4)横からの姿もなかなか良い
走る姿を横から眺めることが出来るのが沿道での応援の醍醐味です。
テレビ中継ではなかなか見ることが出来ません。
選手たちの走る勢いも感じられます。
この写真↓は昨年、総合優勝目前の東洋大学です。
沿道の応援の様子も一緒に写すことができました。
いずれにしても、撮影は最低限度にして、応援を主にすることも大切ですね。
選手たちの頑張りを思いっきり応援したいものです。
Na hi verena verāni sammantīdha kudācanaṃ
Averena ca sammanti esa dhammo sanantano.
実にこの世において 恨みは恨みによって鎮まらない。
恨みを持たないことで静まる。これは永遠の真理である。『法句経』第1章5番
原始仏典の一つでお釈迦様の語録である『法句経(ダンマパダ)』からの引用です。
このことばは、大船観音ゆめ観音アジアフェスティバルにおいても平和宣言文の中で引用して使わせていただきました。
お釈迦さまは「怨みを持って怨みに報ぜば、怨みやまず。徳を持って怨みに報ぜば、怨みすなわち尽く」と説かれました。
大船観音の境内には、「原爆の火の塔」や「戦没者慰霊碑」等、平和への祈りが込められたモニュメントが多く立ち並んでいます。 その碑に刻まれた「核兵器もない、戦争もない、平和な世界を」めざし、慈悲の原点に立ち返り、平和共存の実現に努めることをここに宣言いたします。
(第12回ゆめ観音アジアフェスティバル 平和宣言文より一部引用)
この法句経のことばは、ある場面である方により使われたことにより有名になりました。
それは、1951年9月6日「サンフランシスコ対日講和会議(Treaty of San Francisco)」での場面です。
サンフランシスコ対日講和会議といえば、敗戦国日本をどのような処遇にするべきかを関連国が集まって協議した会議です。
特に、ソ連はアメリカ・ソ連・イギリス・中国で日本分割を決定するべきであると強固に主張します。
もしも会議の流れがそちらの方向に進んでいたら、北海道・本州・四国・九州がばらばらに分割されていた可能性もあります。
しかし、その流れを変えたのがスリランカ(当時はセイロン政府)代表として出席していたJRジャヤワルデネ元大統領(当時は財務大臣)の演説です。
ADDRESS BY HIS EXCELLENCY J.R. JAYEWARDENE
LEADER OF ThE DELEGATION OF THE GOVERNMENT OF CEYLON (SRI LANK) / AT THE CONFERENCE FOR THE CONCLUSION AND SIGNATURE OF THE TREATY OF PEACE WITH JAPAN - SAN FRANCISCO, USA / 6TH SEPTEMBER 1951 / HIS EXCELLENCY J.R.JAYEWARDENE IS PRESENTLY THE PRESIDENT OF THE SOCIALIST REPUBLIC OF SRI LANK
I consider it a great privilege to be afforded the opportunity of placing before this assembly of fifty-one nations the views of the Government of Ceylon on the draft Treaty of Peace which we have been invited to approve. My statement will consist of the reasons for our acceptance of this treaty, and I shall also attempt to meet some of the criticisms that have been levelled against it. It is true that I can speak only on behalf of my Government, but I claim that I can voice the sentiments of the people of Asia in their general attitude towards the future of Japan. I need not deal with the events that led to the formulation of the final draft of the treaty which we are considering. Mr Dulles, the American representative, and Mr.Kellneth Younger, the British representative, have given us a full and fair account of those events, beginning with the capitulation of Japan in August 1945. It may, however, be mentioned that there was a serious conflict of opinion between the four major powers as to the procedure that should be adopted to draft this treaty. The Soviet Union insisted that the four major powers alone - that is, the Council of Foreign Ministers of the USA, UK, China and the USSR -should alone undertake it, and that the power of veto should be reserved to them if any others were admitted for the purpose of drafting the treaty.The United Kingdom insisted that the Dominions should be consulted and the United States of America agreed with this. They also supported consltation with all the countries that took part in the war against Japan.
Among these countries, too, there was a difference of opinion as to the actual terms of the treaty actuated by various considerations, some by a fear of the raising of a new militaristic Japan, and others yet unable to forget the damage and horrors caused by the Japanese invasions.
I venture to submit that it was at the Colombo Conference of Commonwealth Foreign Ministers held in January, 1950, that for the first time the case for a completely independent Japan was proposed and considered. The Colombo Conference considered Japan not as an isolated case, but as part of the region known as South and Southeast Asia, Containing a large proportion of the world's wealth and population, and consisting of countries which have only recently regained their freedom, whose people were still suffering as a result of centuries of neglect. Two ideas emerged from that Conference - one, that of an independent Japan, and the other, the necessity for the economic and social development of the peoples of South and South-east Asia, to ensure which, what is now known as the Colombo Plan was launched.
Mr Kenneth Younger has explained how, after that Conference, a Working Committee of Commonwealth High Commissioners worked on a draft treaty, and later had consultations with the American representative, Mr Du11es.
The treaty now before us is the result of those consultations and negotiations. It represents some of the views that my Government had, and some of them which it did not have. I claim that at the present moment it represents the largest common measure of agreement that could be attained among the countries that were willing to discuss peace with Japan.
The main idea that animated the Asian countries, Ceylon, India and Pakistan, in their attitude to Japan was that Japan should be free. I claim that this treaty embodies that idea in its entirety.
There are other matters which are external to the question of Japan's freedom - namely, should that freedom be limited to the main islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, and Shikoku, or should it extend to several minor islands in the neighbourhood? If not, what should we do with those islands? Should Formosa be returned to China in accordance with the Cairo Declaration of 1943? If so, to which Government of China? Should China be invited to the Peace Treaty Conference? If so, which Government? Should reparations be exacted from Japan? If so, the amount. How is Japan to defend herself until she organizes her own defence?On the main question of the freedom of Japan, we were able to agree ultimately, and the treaty embodies that agreement. On the other matters, there were sharp differences of opinion, and the treaty embodies the majority views. My Government would have preferred it if some of those quetions were answered in a different way, but the fact that the majority don't agree with us is no reason why we should abstain from signing the treaty, which contains the central concept of a free and independent Japan.
We feel that the allied matters I mentioned earlier are not insoluble if Japan is free, that they are insoluble if Japan is not free.
A free Japan, through, let us say, the United Nations organization, can discuss these problems with the other free nations of the world and arrive at early and satisfactory decisions. By signing this treaty we are enabling Japan to be in a position to do so, to enter into a treaty of friendship with the Government of China if she decides to recognise her, and I am happy to state, enabling her to enter into a treaty of peace and friendship with India. If we do not sign this treaty, none of these eventualities can take place,Why is it that the peoples of Asia are anxious that Japan should be free ? It is because of our age-long connections with her,and because of the high regard the subject peoples of Asia have for Japan when she alone, among the Asian nations, was strong and free and we looked up to her as a guardian and friend. I can recall incidents that occurred during the last war, when the co-prosperity slogan for Asia had its appeal to subject peoples, and some of the leadders of Burma, India, and lndonesia joined the Japanese in the hope that thereby their beloved countries may be liberated.
We in Ceylon were fortunate that we were not invaded, but the damage caused by air raids, by the stationing of enormous armies under the South-East Asian Command, and by the slaughter-tapping of one of our main commodities,rubber, when we were the only producers of natural rubber for the Allies, entitle us to ask th1at the damage so caused should be repaired. We do not intend to do so, for we believe in the words of the Great Teacher whose message has ennobled the lives of countless millions in Asia, that (hatred ceasesnot by hatred, but by love'. It is the message of the Buddha, the Great Teacher, the Founder of Buddhism, which spread a wave of humanism through South Asia, Burma, Laos, Cambodia, Siam, Indonesia and Ceylon, and also northwards through the Himalayas into Tibet, China, and finally, Japan, which bound us together for hundreds of years with a common culture and heritage. This common culture still exists, as I found on my visit to Japan last week on my way to attend this Conference; and from the leaders of Japan, Ministers of State as well as private citizens, from their priests in the temples, I gathered the impression that the common people of Japan are still influenced by the shadow of that Great Teacher of peace, and wish to follow it. We must give them that opportunity.
That is why I cannot subscribe to the views of the delegate of the Soviet Union when he proposes that the freedom of Japan should be limited. The restrictions he wishes to impose, such as the limitation on the right of Japan to maintain such defence forces as a free nation is entitled to, and the other limitations he proposes, would make this treaty not acceptable not only to the vast majority of the delegates present here, but even to some of the countries that have not attended this Conference, particularly India, who wished to go even further than this treaty visualizes. If again the Soviet Union wishes the islands of Ryukyu and Bonin returned to Japan, contrary to the Cairo and Potsdam Declarations, why should then South Sakhalin, as well as the Kurile be not also returned to Japan?
It is also interesting to note that the amendments of the Soviet Union seek to insure to the people of Japan the fundamental freedoms of expression, of press and publication of religious worship, of political opinion and of public meeting - freedoms which the people of the Soviet Union themselves would dearly love to possess and enjoy.The reason why, therefore, we cannot agree to the amendments proposed by the Soviet delegate, is that this treaty proposes to return to Japan sovereignty, equality and dignity, and we cannot do so if we give them with qualifications. The purpose of the treaty then is to make Japan free, to impose no restrictions on Japan's recovery, to see to it that she organizes her own military defence against external aggression, and internal subversion, and that until she does so, she invites the aid of a friendly power to protect her, and that no reparations be exacted from her that harm her economy.
This treaty is as magnanimous as it is just to a defeated foe.
We extend to Japan a hand of friendship, and trust that with the closing of this chapter in the history of man, the last page of which we write today, and with the beginning of the new one, the first page of which we dictate tomorrow, her people and ours may march together to enjoy the full dignity of human life in peace and prosperity.
下線部分を和訳でご紹介します。
何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。
私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます。
セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国こ供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。
我国はそう(損害賠償を要求)しようとは思いません。何故なら我々は大師(釈尊)の言葉を信じていますから。
大師のメッセージ、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。(引用元)
JRジャヤワルデネ元大統領の演説中、「セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国こ供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害」は、主に日本帝国陸軍による印度洋作戦・セイロン島コロンボ空襲のことです。
この空襲により、連合軍の航空部隊、船舶に大損害を与え、さらにトリンコマリー基地空襲により空母ハーミスを撃沈、インド洋東西海域の制海制空権を日本帝国軍が掌中に収めます。
しかし、この後の拙攻により日本は敗戦への道を歩みます。
少なからずセイロン島に損害をもたらした日本に対し、JRジャヤワルデネ元大統領は「日本の掲げた理想に、列強国からの独立を望むアジアの人々が共感したことを忘れないで欲しい」と述べた上で、冒頭の『法句経』を引用し、日本に対する賠償請求を放棄し、日本が再び国際社会に復帰する道筋を作ってくれたのです。
この演説を日本人は知っておかなければなりませんし、決して感謝の心を忘れてはならないでしょう。
今月開催された第60回WBF世界仏教徒会議スリランカ大会の場で、日本代表として河野太通全日本仏教界会会長は、スリランカ大統領をはじめ世界各国から集まった仏教者代表、スリランカの仏教徒の前で、改めて1951年のJRジャヤワルデネ元大統領の演説に感謝し、改めて各国に与えた事実に懺悔と反省の意を表し、過ちを二度と繰り返すことの無いよう平和を誓うことを宣言しました。
会場からは万雷の拍手を受けました。
とても心に残る世界仏教徒会議でした。
実にこの世において 恨みは恨みによって鎮まらない。恨みを持たないことで静まる。
このことばは、被害者が使わなければ意味を持ちません。
加害者がいくら謝罪をしても、被害者が受け入れてくれなければいくら謝罪をしても事足りないのです。
「1000倍にして返す」=砲撃犠牲2兵士の告別式―韓国
北朝鮮による延坪島砲撃で死亡した21歳と19歳の韓国海兵隊員2人の告別式が27日午前、ソウル近郊の国軍首都病院で行われた。式の様子は主要テレビが生中継した。
同隊で最高の「海兵隊葬」で営まれた式には遺族や、辞任が決まった金泰栄国防相ら約600人が参列。上官は弔辞で、「われわれの愛する兵士を殺したことを後悔するよう、(北朝鮮に)100倍、1000倍にして返す」と語り掛けた。
李明博大統領は26日に弔問し、2人に勲章を授与した。砲撃ではこのほか民間人2人が死亡している。
(時事通信2010年11月27日)
今日の記事を書いていたら、このようなニュースが飛び込んできました。
釈尊の教えを実践することがいかに困難かということがわかります。
茶室裏庭のサフランが満開となりました。
例年よりもたくさんの花が咲いています。
薄紫の花の中に臙脂色の雄蕊が三本。
そのコントラストが印象的です。
この雄蕊は後で収穫した後、乾燥させて香辛料として使います。
サフランライスやパエリアの鮮やかな黄色は、このサフランの雄蕊によるものです。
2007年のミャンマーの軍事政権に対する僧侶や市民らの抗議デモのことを「サフラン革命」というように表現する報道が目立ちました。
「サフランの雌蕊色の法衣」ということで名づけられた呼称です。
サフランの雄蕊の色とミャンマー僧侶の衣の色は良く似ています。
ただし、ミャンマーではサフラン革命とは言わず、「黄金革命」と表現するそうです。
今日行なわれる(行われている)総選挙では、連邦議会と地方議会の1163議席を決める選挙です。
但し、軍人固定枠として、4分の1は既に軍政側に割り当てられています。
残りの4分の3の1163議席を巡って、37政党3071、無所属82人が立候補しています。
うち、軍政側は、軍政幹部を抱える連邦団結発展党(USDP)から1135人、旧軍政の国民統一党(NUP)から980人を擁立。それだけで2000人を超えています。
対し、民主化勢力はNLDから分離した国民民主勢力(NDF)が約160人程度に留まり、ミャンマー民主党と合わせても260人程度となっています。
アウン・サン・スー・チー氏は自宅軟禁を強いられ、NLDは今年5月に解党、今回の総選挙へ公式な参加はありません。
軍政側は、選挙監視団、外国メディアの入国を完全に禁止しており、事実上軍政主導で総選挙が行なわれます。
残念ながら総選挙を行なう前から結果は明らかです。
民主化が遠のくミャンマーは、今後どのようになっていくのでしょうか。
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ある事象を捉え、解釈するときには、とかく自分の都合の良い視点でものごとを見がちです。
さらに、国家や報道機関が情報を統制してバイアスをかけた報道を行なった場合、真実を見抜くことはさらに困難となります。
先の沖縄県の尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件では、中国国民は概ね下記のような情報ソースにより事件の状況を判断しています。
情報メディアを批判的に読み解いて、その真偽を見抜く力は残念ながら今の中国国民には期待できないでしょう。
(来源:搜狐) ![]()
「日本船からぶつかった」「日本の俳優が演じている」「倭寇の被害」…中国の反応
沖縄・尖閣諸島周辺で起きた中国漁船衝突事件の状況を撮影したビデオとみられる映像が、5日未明にインターネット上に公開されたことを受けて同日、最高検と海上保安庁が調査に乗り出した。石垣海上保安部(石垣市)が撮影した映像は、海保が編集した数種類のバージョンが存在。その中に、今回流出した計44分間のものとほぼ同じ長さに編集した映像があったことが判明した。映像は検察と海保しか持っていないため、内部流出の可能性が高まった。「犯人」をめぐり、永田町ではさまざまな憶測が飛び交っている。
ビデオ流出問題で、最初に動画が投稿されたサイト「ユーチューブ」への接続は、中国国内では当局により規制されており視聴できないが、すでに別のサイトには転載されており、同国内でも出回ることになりそうだ。ある中国語動画サイトにもコピーとみられる問題の動画が数本に分けて掲載され、5万回以上も再生されていた。中国語の書き込みでは「波を見れば分かるように、日本船からぶつかってきている」など、映像を素直に見ていないものが多いが、中には「日本の俳優が演じている」「偽物ではないのか」と中国船がぶつける映像が“でっち上げ”だと主張するものも。「明朝の時代からわが国は、倭寇(海賊)の被害を受けてきた」と問題をすり替えるコメントまであった。
中国共産党機関紙の「人民日報」は、日本の報道として、事実関係を伝えるにとどめている。だが、同紙系の「環球時報」は「中国の領土権と漁業権を侵害した日本の不法性は、覆すことができない」などと、やや感情的に述べている。
(2010年11月6日 スポーツ報知)
同じ衝突事件の状況を撮影したビデオを見ても、中国人の中にはこのような見方をするものも多いわけです。
翻って、日本であっても安心はできません。
マスメディアの流す情報が本当に正しいのか、バイアスが掛かっていないのかを真剣に考え、必要な情報を引き出し、適切に取捨選択して活かさなければなりません。
人間っていう生き物は、どうしても正確に事象を捉えることが困難であることを予め知っておく必要があるでしょう。
この記事の一番上にある渦巻き模様の「青」く見える部分と「緑」に見える部分が全く同じ色に見えるということが信じられますか?
世の中に溢れる情報を的確に読み取る力が、特にこの情報化社会では重要であるといえます。
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情報の見方・読み方・読み取り方
ロシアの大統領が帰属権を日本が主張する南クリル諸島を初めて視察ロシアの大統領ドミトリー・メドベージェフは、クリル諸島最南島の国後島(クナシリ島)を視察した。ロシアの大統領としては、モスクワと東京が1945年からその帰属権論争のため平和条約に署名できない状態であるクリル諸島を初めて訪問したことになる。
近々南クリル諸島を訪問する件については、メドベージェフ大統領は、9月のカムチャッカを訪問した際にも視察の意向を記者団に伝えていた。その時は、夏季の天候ではないため、この試みは成功しなかったが、彼は、「クリル諸島は必ず訪問する。なぜなら、これは我が国にとって非常に重要な地域であるからだ」と訪問を確約していた。この後、日本政府は、南クリル諸島(日本で北方領土と呼ばれている)は自国の領土であり、ロシアの大統領の南クリル諸島の訪問は2国間関係を複雑にしてしまうと言明し、訪問に懸念を表明した。
それに対し対外政策を担当する大統領行政府の情報源は、モスクワではメドベージェフのクリル諸島への訪問は近々の日本訪問に合わせた行動であると考えることが合理的であると言明した。実際、メドベージェフは11月13-14日に横浜でのAPECサミットに参加する計画をしているからだ。
(NOVOSTI通信 2010/11/2)
ロシア側の報道を敢えて引用してみました。
これだけ領土問題で周辺国に付け入られてしまっている現状を、どれだけの人が真剣に考えているのでしょうか。
メドベージェフ大統領が敢えてこの時期に北方領土を訪問した理由は、単にAPECへ合わせた行動というだけではなく、その背景に東シベリアの大規模油田があるように感じます。
大規模油田:JOGMEC ロシア東シベリアで試掘に成功独立行政法人の石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)は22日、ロシア東シベリアで進めているロシア企業との共同探鉱調査で、可採埋蔵量が1億1000万バレルと想定される大規模油田の試掘に成功したと発表した。この地域での日本による試掘成功は初めて。
JOGMECは探鉱調査の終了後、鉱区で保有する49%の権益を日本の民間企業に譲渡し、将来は日本の自主開発としたい考え。商業生産が実現すれば、太平洋パイプラインを通じて日本などアジア諸国への輸出につながる見込み。
ロシアの石油企業イルクーツク石油との共同調査で大規模な原油埋蔵が確認されたのは、イルクーツク州北部のセベロ・モグジンスキー鉱区。また同州内のザパドナ・ヤラクチンスキー鉱区でガス田、ボリシェチルスキー鉱区で油田とガス田がそれぞれ確認された。
東シベリアでは、イルクーツク州タイシェトと極東ウラジオストク郊外のコジミノを結ぶ全長約4800キロの太平洋パイプラインが14年末の完工を目標に建設中。今後、新鉱区の原油開発が順調に進めば、太平洋パイプラインに供給する主要油田となる。
原油確保を中東に依存する日本は供給源の多角化を目指しており、日本とロシアの両政府は03年1月、ロシア極東、シベリア地域での資源開発分野の協力で合意。JOGMECは07年からイルクーツク州でイルクーツク石油と共同探鉱調査を開始していた。(共同)(毎日新聞 2010年10月22日)
メドベージェフ大統領が北方領土を訪問した10日ほど前のニュースです。
日本の独立行政法人が資金の約半分を出し、しかも日本の最先端技術を導入して開発された油田です。
ここから、東シベリア・パイプラインをオホーツク海沿岸まで建設し、日本へ安定した資源を供給する計画で、2014年完成を目指しているところです。
メドベージェフ、訪中の一環で一連のエネルギー協定に調印
メドベジェーフ大統領は公式訪中の一環で10件以上の書類に調印する。その中には一連のエネルギー協力に関する協定がある。この旨、ロシア大統領補佐官セルゲイ・プリホヂコが訪問を直前にして発表した。
とりわけ、「トランスネフチ」と中国の国営石油会社(China National Petroleum Corporation, CNPC)との間で、中国への「東シベリア-太平洋」パイプラインのバイパスラインであるスコボロジノから石油パイプラインでの石油輸出の相互協力と実現に関する総合協定が結ばれる。
(NOVOSTI通信 2010/9/27)
なんと、一足先に東シベリア・パイプラインから分岐し中国の大慶までを結ぶパイプラインが既に今年9月に完成、胡錦濤国家主席とメドベージェフ大統領が出席して完工式が行われました。
メドベージェフ大統領は日本よりも中国への供給を優先することを明言しています。年内にもロシアから中国への原油供給が開始され、供給量については2030年までに年間1500万トンという内容で両国が合意しています。
先に書いたように、日本へ向けたパイプラインの完成は2014年とまだまだ先のことなのに。
このように、東シベリアの大規模油田油田からのパイプライン建設では中国に完全に先行されてしまいました。
日本の先端技術と膨大な資金を導入して開発したエネルギー資源を、みすみす中国に優先的に取られる構図も現実味を帯びてきました。
シベリアの資源を獲得するために巨額のパイプライン建設資金を提供し、日ロ関係を大幅に改善した上で北方領土問題解決を目論んでいた政府の「甘い」戦略が破綻となった場合、石油資源に対しても、北方領土に対しても、日本の出しうる外交カードを失うこととなります。
その意味で、この時期のメドベージェフ大統領の北方領土訪問は実に強かな戦略だと思えます。
既に北方領土に関しては、日本の経済支援など無くてもロシア側からの経済支援でやっていけるという見込みが立ったわけですから、このまま四島をみすみす返すことは無いでしょうね。
そして、北方領土問題に日本が強く切り出すと、東シベリアの油田の権益とパイプラインの建設に難癖をつけてくるでしょう。
このあたり、よく状況を把握した上で強かに交渉していかないと、中国、ロシアに良いように毟り取られてしまうことになりかねません。
領土問題を先延ばしして良いことは一つもありません。
駐露大使 帰任はAPEC後 追加措置せずロシアのメドベージェフ大統領が北方領土の国後島を訪問したことを受け、日本政府は4日、一時帰国させた河野雅治駐ロシア大使を、11月中旬のアジア太平洋経済協力会議(APEC)が終了するまでロシアに戻さない方針を固めた。一時帰国はロシアへの事実上の対抗措置だが、政府高官は「ロシア側が北方領土に関して新しい動きをしない限りアクションは起こさない」と述べ、新たな対抗措置は講じない方針を示した。
河野大使は3日に一時帰国し、菅直人首相や前原誠司外相らに対し、大統領の訪問の狙いや背景について「2012年の大統領選などを見据え、国内向けにアピールするとの要素が大きい」などと報告した。
報告内容を踏まえ、日本政府は河野大使の扱いについて、少なくとも日露首脳会談を行う方向のAPECまではロシアに戻さない方針を確認。メドベージェフ大統領は歯舞群島と色丹島への訪問を計画しているとされているが、日本政府はロシア側がこうした新たな行動を起こさない限り、政府として一時帰国以上の対抗措置を取らないことも確認した。
一方、大統領が国後島訪問を断行する前に、在ロシア大使館から外務省に対し「大統領は国後島を訪問するかどうか、10月末の東南アジア諸国連合(ASEAN)関連会合でハノイを訪れた際に決断する」と報告があったことも明らかになった。
(毎日新聞 11月4日)
まあ、現状では日本は強く出ることはできないでしょうね。
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全ビルマ僧侶代表委員会(All Burma Monks' Representative Committee=ABMRC)のアシン・ターワラ師と大船観音でお会いする機会を得ました。
2007年9月に行なわれた僧侶たちの『慈経』を唱えながらの平和的行進(「サフラン革命」「黄金の革命」)は記憶に新しいところです。
その先頭に立ったアシン師は、僧侶歴としてダンマサリヤ試験に合格、ダンマサリヤの称号を贈られていますが、2003年アウンサンスーチー氏とと会ったことが不品行とされ、宗教省から称号を取消されてしまっています。
2007年9月20日の午後1時30分頃、私たち僧侶がシュエダゴン・パゴダからスーレー・パゴダ、チャウタッチー・パゴダ、ンガーダッチー・パゴダ、そしてアランピャ・パゴダ通りを通り過ぎるとき、軍政の出先機関である連邦団結発展協会とスワンアーシンのメンバーが100人ほど現れ、様々な手段を用いてンガーダッチー・パゴダとチャウタッチー・パゴダ近辺の僧侶を妨害しようとした。しかし彼らの試みは、僧侶の団結のために効果をあげられなかった。この日、220,000名の僧侶、尼僧、学生、市民が行進に参加し、午後5時にスーレー・パゴダで終わった。
2007年9月22日の12時、僧侶たちはシュエダゴン・パゴダから行進を始め、ミェーニーゴン、国営放送局 、フレーダン通りの交差点、大学通り、そしてアウンサンスーチー氏の自宅を過ぎて国民民主連盟本部前へと向かった。7,000名以上の僧侶と20,000名以上の市民が行進に参加した。この日、アウンサンスーチー氏が自宅から姿を見せ、全ビルマ僧侶代表委員会の僧侶たちに稽首礼をした。そこで全ての僧侶は一斉に、悪と災いから護るパリッタ(護呪経)を15分ほど唱え、私たちはまた、スーチー氏のために『慈経』を唱えた。スーチー氏が私たちの読経を聞いている間、涙を流してひどく泣いているのを見て、私たちは心が張り裂けそうだった。
この日、きわだった出来事は、アウンサンスーチー氏の自宅へ向かう際、大学通りにあるピンヤ寮前で災いから護る読誦をしたことである。私たちの読誦の間、それを聞く人々が悲しげに泣いていたので、やるせない気持ちでいっぱいになった。
彼らが感じていた恐れや憎しみの心が、ただちに私たちの中へしみこんできたように感じられた。
アシン・ターワラ師は、最前線に立って軍事政権の行動に対する抗議を行いました。
私たちは僧侶であるので、あらゆる未解決の問題で血を流すことは望みません。解決のためには、対話と平和的手段を望みます。この国を支配する軍政は、斟酌する力量のある人々からなっているはずです。ですから、彼らは人々が何を望んでいるのか理解しなくてはなりません。ビルマの人口は少ないですが、領土としては生活に困ることなく豊かに暮らすのに十分な大きさがあります。さらに、ビルマは海上でも地上でも天然資源が豊富ですから、近代的な国家になり得るはずなのです。しかしそうなっていません。軍政の独裁者たちは、誰がビルマを世界で最も貧しい国の1つにしてしまったかを、自分自身に問うてみるべきでしょう。わずかな人数の独裁者たちは、国民のための国家予算を乱用して私腹を肥やしています。国際社会に対して、この国は貧しくなくて問題などないのだと鼻に掛けることは、ビルマ国民と世界に向けて自分たちの行為が紳士的でも良き為政者でもないと示しているのです。彼らの思考法とイデオロギーは狭く限定的であり、もはやビルマ国民を囲い込んで支配したり抑圧することができなくなっています。ビルマ国民は軍政下で貧困と飢餓に苦しんでいますが、それぞれが外の世界について知識をもっていますから、国際状況について自分の頭で考え、決断することができるのです。世界中の他の発展途上国と比べてビルマに発展が見られないのは、軍政の非常に劣った政治力のせいなのです。そのことに気がついていても、軍政は自らビルマの政治問題を解決しません。それどころか、7つのロードマップで世論を欺いて、足を引っ張っているのです。これは我々国民にとって不利益なことです。為政者がなすべき10の行為を鑑みて善い政治が行われれば、国家に平和が訪れ、人々は心身ともに幸福でいられることでしょう。もしその10の行為を鑑みない悪しき為政者が国家に独裁制を敷いたら、国民の尊敬を失うだけでなく、他の為政者の尊敬をも失うでしょう。必ずや、恥ずべき不名誉だけでなく衰退と敗北に直面するでしょう。ですから、私たちは軍政の独裁者たちに、本当の平和と民主化と自由で公平な政治は、全ての未解決の問題に対して理解をもって正しく取り組むこと、そして危険な手段ではなく合理的で考慮された、国内の全民族を交えた(民主化勢力、少数民族グループ、軍政の)三者会談によってのみ、本当に実現するのだと告げたいのです。最後に、もし軍政が解決へ向けていかなる動きもとらなければ、私たち僧侶は最後まで恐れることなくこの革命に人々とともに平和的に参加します。
(平和的行進におけるアシン・ターワラ師の抗議演説より)
その後、事態はあたかも沈静化したかに見えますが、決してそのようなことは無く、軍事政権による情報統制と反発する僧侶や市民を徹底的に排除した結果によるものです。
全ビルマ僧侶代表委員会書記長の任務を引受けることとなったアシン・ターワラ師に対しても軍政は徹底的に弾圧を繰り返し、逮捕命令が下されます。
アシン・ターワラ師はラングーンを離れてバングラデシュへ、そしてインド・ニューデリーに逃れ、その地で全ビルマ僧侶代表委員会事務局創設、軍事政権との闘いを続けられています。
大船観音胎内でビルマの平和、世界の平和を祈り法要を営みました。 ![]()
参拝ノートに平和のメッセージが刻まれます。
罫線を縦にして、下から上に書いていくのですね。
大意:平和の火が灯る特別な場所で、ビルマの安寧と世界の平和を祈ります。
![]()
平和の火(原爆の火)の前にて。
ビルマも核兵器を持つ国になるそうです。
北朝鮮経由での兵器輸入。日本は核兵器に取り囲まれているという状況を知っておかなければなりません。
そして、多くの仏教僧侶、仏教徒が迫害を受けているという現状にも常にアンテナを張っておくべきでしょう。
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久し振りに爽やかな晴天となりました。
抜けるような青空を超えて平和への願いが届きますことを切に願います。
末筆ながら風月庵様にはこのような機をいただき、心より感謝申し上げます。
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横浜市港南区の港南台、日野南、日野中央一帯の地域には、1969~70年に行なわれた調査により、上瀬遺跡、中谷遺跡、榎戸遺跡、小坪遺跡、松ヶ崎遺跡、安養院やぐら、大神やぐらなどの遺跡群が見つかっています。
例えば、現在のロイヤルホームセンター付近で発見された榎戸第1遺跡では縄文時代中期から後期にかけての集落遺跡26戸が確認され、港南区での最大級の大型遺跡群です。
しかし、港南台土地区画整理事業などのの大規模な住宅開発によって、それらが一気に失われてしまいました。
⇒ 歴史に学ぶ港南台の勉強会 根岸線の歴史と港南台駅誕生物語
『港南台遺跡調査報告書』(1978)を元に、現在の地図にかつてあった遺跡の位置をプロットしてみました。
現在は殆どが整地され、住宅地に飲み込まれてしまっていることが判ります。
かつて、このような遺跡があったという面影はありません。自分の住んでいる地域に、このような遺跡があったことすらご存知無い方も多いことでしょう。
より大きな地図で 港南台遺跡分布図 を表示
(K=古墳時代、J=縄文時代、Y=弥生時代、H=土師器・古墳時代 S=遺物・遺跡の散布地)
僅かに残されているのは、松ヶ崎横穴古墳群です。
ここは、港南台高校の敷地であったために運良く残されてきました。
港南台高校は2009年より上郷高校と統合され栄高校となりました。現在は立野高校建替えのために数年間立野高校が敷地を管理しています。
しかし、建替えが終わった後の敷地はどのように利用されるのか、あるいは民間に売却されるのか、今後の見通しがはっきりしていません。
松ヶ崎古墳群自体、適切に管理されているとは言えません。何時まで残していくことが出来るのでしょうか。
埋蔵文化財を取り巻く環境は、全国的に厳しさを増しています。
野ざらしのまま・・・・出土遺物が積み上げられた収蔵庫・・・・・たとえ遺跡のある土地が買い上げられたとしても、それらを管理していくための予算がつかず、放置されている事例がたくさんあります。
〈文化変調〉第4部・きしむ国の支援(中) 守った遺跡、生かせず
福岡市のJR博多駅に近い住宅地。4千平方メートル余の空き地に、雑草が生い茂る。
国史跡の比恵(ひえ)遺跡だ。古墳時代の貴重な倉庫群として2001年に指定された。建物の復元話もあったが、現在はほとんど手つかずのまま。近くの主婦(66)は「すごい遺跡とは聞いたけど......。今のままではもったいない」と話す。
遺跡の土地代は約15億円。国が8割と福岡市が2割を負担し、テニスコートだった民有地を買い上げた。だが、土地代の償還が終わらず、整備も始まらない。10年近く「塩漬け」状態が続いている。
原因は厳しい財政状況だ。福岡市は今年度、文化財保存整備費として約3億2千万円を遺跡整備などにあてるが、うち半分強は比恵遺跡の土地代の償還に消える。加えて、歴史的に大陸と交流の深い福岡には国史跡が12もあり、比恵遺跡を含め三つある未整備の史跡まで手が回らない。
「(比恵遺跡を)一般に開放できるのは、少なくとも10年先。財政を考えると、建物の復元は難しいでしょう」と、市教委文化財整備課整備第1係の大庭康時係長は話す。
文化庁の今年度の予算約1020億円のうち、ほぼ7分の1の約145億円が、史跡などのための土地購入費だ。だが、購入した土地が、なかなか整備・活用されない。埋蔵文化財をめぐる補助金に関して、国と自治体の歯車が、うまくかみ合っていない。
足りないのは金だけではない。先ごろ補助金の不正受給が発覚した埋蔵文化財の発掘調査事業。会計検査院の調べで、19自治体が29事業で、計約800万円の補助金を不正に受けていたが、19自治体のうち14自治体で、報告書が未刊行なのに、刊行したという虚偽の報告が行われていた。それらの自治体に、不正にいたった理由を取材したところ、ほとんどが「対象作業量に対する人手不足」をあげた。
その一つ、49万円の返還を求められた盛岡市は、小中学校の建て替え工事で予定外の発掘事業が発生し、後ろにずれ込んだことが、そもそもの原因だったという。さらに寒冷地では、雪が降る前にすべての発掘を終えることが優先され、報告書作成は、その後の作業になる。
市教委歴史文化課の袖上寛課長補佐は「最終的に冬場の負担が大きくなった。担当者が何とかなると判断していた」という。
戦後、日本の埋蔵文化財行政は、急速な経済発展に伴う開発から遺跡を守ることに力を注いできた。1960年代に平城宮跡(奈良市)で起きた、国道バイパスの建設計画への大きな反対運動などを契機に、遺跡の保存は全国的な潮流となった。75年に文化財保護法を改正し、保存体制を強化した。だがいま、各地の自治体からは、たとえ国に補助してもらっても、残りの負担分や人手を地元で用意できなければ、保存や整備は難しいといった悲鳴があがる。
(朝日新聞 2010年10月25日)
国も地方自治体も、財政状況が悪化する中で、一番削減しやすいのはこのような文化財に割り当てられる予算なのでしょう。
結果として、遺跡の整備が遅れたり、発掘調査報告書の刊行に支障をきたしたりしています。
文化財は、失われると取り返しが付かないことになります。
このような時期だからこそ、国、地方自治体、地元が一体となって問題解決に向けて立ち向かっていかなければなりません。
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記録的に暑かった今年の夏により野菜類が高騰しています。
しかし、これと全く逆の価格動向を見せているのがコメの価格です。
JAなどから出荷されるコメ全銘柄の平均価格は、2009年の1俵(60kg)当たり15,169円だったのが、2010年7月には14,214円に下落、さらに今年の収穫期に入っても新米価格が昨年のコメの価格を下回るケースも出てきました。
原因はコメ離れに加え、不況による消費不振、円高による外国産の食料品へのシフトがありましょう。
コメの在庫量は増加傾向にあり、さらに生産過剰が見込まれるとなれば、コメの価格が下落するのは当然のことです。
民主党のマニュフェストに掲げる農家への戸別所得補償事業によって、農家には0.1ha当たり15,000円の補填を行い、さらにコメの価格が過去3年平均を下回った場合は差額を追加支給することになっています。
この戸別所得補償事業に膨大な量の税金が投入され続けます。
けれども農家への個別所得補償は根本的な解決になっているとは思えません。
農家に個別所得補償を行なうよりも、需要を増やす施策のほうが如何に有効であるかは言うまでもありません。
小中学校や老人ホームの給食への米の割合を増やしていくことも一策ですし、何よりも世間一般のコメ離れを如何に食い止めるかが焦点となるでしょう。
もう一つ、日本の財政を圧迫しているのは、生活保護費です。
生活保護にかかる費用も長引く不況、高齢化などにより増加傾向にあります。
生活保護費を受給している世帯数は、1980年度から1992年度には減少傾向にありましたが、その後増加に転じ、2004年度には998,887世帯、2005年度には110万世帯(うち外国 籍約3万世帯)と増え続けています。2010年初頭には、実に130万世帯を超えました。
ここに挙げた2例は、日本の財政を圧迫するほんの一部の例でありますが、可及的速やかに対策を施さなければ国や地方自治体の財政は間違いなく破綻への道を歩むことでしょう。
そこで、一つだけ提言をさせていただきます。
生活保護は次の8種類からなります。
(1)生活扶助(2)教育扶助(3)住宅扶助(4)医療扶助(5)介護扶助(6)出産扶助(7)生業扶助(8)葬祭扶助
このうち、(1)生活扶助は衣食、その他日常生活の需要を満たすための扶助であります。
これらは現物支給にするべきであると考えます。
特に食料扶助のうち、主食としてコメを現物支給する仕組みを確立し、その分の生活保護支給費を減額する制度とすることを提言いたします。
<例>
■生活保護世帯に1人当たり年間60kg~100kg程度のコメを現物として(もしくは厳密にコメにしか換品できないお米券を)支給する。
■現物支給されたコメの価格相当の生活保護費支給額を減額して支給する。
そもそも生活保護とは、憲法第25条に規定される生存権に基づき、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに自立を助長する為の制度です。
現状では現金支給が原則となっていますが、そのために残念ながら不正受給や貧困ビジネスの温床も蔓延っています。受給申請を行なっても脚下される事例も少なくありません。
必要な方に、必要な支給が確実になされる施策が求められます。
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お盆でいただいた栗煎餅。
香ばしくてお茶に良く合います。大好きなお菓子の一つです。 ![]()
ちょうど、同じ時期に次のような記事が目に飛び込んできました。
東京新聞の筆洗欄より引用します。
クリの形をした、「栗(くり)せんべい」というお菓子について、公正取引委員会から不当表示だとクレームがついたことがあったらしい。理由は「クリが入っていないのに入っていると思わせるから」▼冗談みたいな話だが、永六輔さんが自著『商人』に書いている。それを知って怒った永さん、当局に、例えばこんなふうにやり返したのだそうだ。「では、キリンビールにはキリンが入っているのか?…かっぱえびせんにはカッパは入っているのか?」▼以後の経緯は知らないが、ネットで確認した限りでは、今も「栗せんべい」は売られているようだ。キリンやカッパ同様、実際、このお菓子を買ってクリが入っていないと抗議する消費者はいまい▼ただ、商品一般となると話は別だ。入っていないものを入っているように思わせる表示は確かに許されない。逆に「入っていない」と表示しながら入っているのはもっとたちが悪いともいえる▼国民生活センターが、電気で煙のようなものが出る「電子たばこ」を調べたら、市販の半分近い銘柄で微量のニコチンが検出されたのだという。しかも、その大半は「ニコチンは含まれない」旨、表示していた▼薬事法にも触れるようだから問題だが、一念発起の禁煙でニコチン依存を断とうと、この商品にすがった人も多いらしいから罪深い。多分、煙(けむ)に巻かれたような心持ちだろう。
(東京新聞/筆洗 2010年8月20日)
本当なのかどうなのか良くわかりませんが、永六輔さんの自著での指摘なので、おそらく実際にそういうことがあったのでしょう。
確かに原材料には「栗」の記載はありません。 ![]()
しかし、栗煎餅はこのようにきちんと原材料表示で明示してありますし、そもそも栗煎餅は栗の形をした煎餅だから栗煎餅なのであって公正取引委員会が目くじらをたてるほどのことではない筈です。
公正取引委員会はこんな指摘もするのですね。それを抗議に当局まで出向いた永さんも凄い。
身近にある様々なものの原材料を改めて見てみました。
| 瓦煎餅 | 小麦粉・砂糖・玉子・サラダ油・膨張剤 |
| 片栗粉 | 馬鈴薯でん粉 |
| 鯛焼き | 【皮】 小麦粉、鶏卵、麦芽水飴、砂糖、脱脂粉乳、重曹 【あん】 砂糖、北海道小豆、水飴 |
| かにパン | 小麦粉、砂糖、マーガリン、果糖ぶどう糖液糖、イースト、ショートニング、脱脂粉乳、米粉、食塩、乳化剤、香料、(原材料の一部に大豆を含む) |
| くずもち | 小麦澱粉、砂糖、黒蜜、糖みつ、水給、カラメル色素、きな粉(遺伝子組換大豆不使用) |
| かっぱえびせん | 小麦でん粉, えび, 小麦粉, 砂糖, 食塩 |
| キリンビール | 麦芽、ポップ、米、コーン、スターチ |
こんな事例はいくらでもありますね。
上に挙げた例は微笑ましい例として、それよりも、悪質な偽装食品をきちんと取り締まって欲しいものです。
公正取引委員会さん、ターゲットはたくさんありますよ(^^
例えば、回転寿司の真相と食品のカラクリ のような事例はいくらでもあります。
知らないでいることは恐ろしいのです。
まあ、最近は僧侶の偽装も多いことですし、美味しければいいのかな?
実に この世においては およそ怨みに報いるに怨みを以ってせば ついに怨みのやむことがない。
堪え忍ぶことによって 怨みはやむ。これは永遠の真理である。
怨みは怨みによっては決して静まらないであろう。怨みの状態は 怨みのないことによって静まるであろう。
怨みにつれて次々と現れることは ためにならぬということが認められる。それ故にことわりを知る人は 怨みをつくらない。『ブッダの真理のことば 感興のことば』(中村元訳・岩波文庫)
釈尊のことばを伝える経典『ダンマパダ(法句経)』にある一句です。
終戦の日を迎え、この釈尊のことばが改めて心に沁みます。
句中の「ウラミ」という言葉には「怨み/恨み」両方の漢字が当てられます。
不平不満への「恨み」と違って、「怨み」には更に強く激しい人に対する感情が籠められています。
もしも戦いによって勝者には驕りが、敗者には怨みがもたらされるとすれば、そこからの離脱はかなり困難です。 戦後65年経った今でも完全なる解決がなされていないことからも判ります。
また、世界の恒久平和が人類共通の願いであっても、その共通であるはずの同じ目的を達することが如何に難しいかは、戦後65年間の間に世界各地でどれ程の戦争、紛争が起こっているかということを見ても明白です。
近代国家の多くは、巨大な軍事力を誇示することによって自らの安全を確保しています。
そして、自らの国・民族・宗教の安全を守り自らの平和を守るという大義名分の下、戦争、紛争が繰り返されてきました。
敵対を生み出す源は、自己中心のエゴイズムに他なりません。
私たちが自己中心的なエゴイズムを他人に押し付けるのと同じように、国家間、民族間でも自国・同胞の都合によって敵と味方という区別を作り出しているともいえます。
それゆえ、自国中心の国家エゴイズムから脱却すること無しに平和の実現は不可能でしょうし、ひいては自らの安全を守ることも出来ないでしょう。
戦後の日本は、確かに様々な問題を孕んいることは否めませんが、65年に亘り戦争、紛争を引き起こすことの無かった数少ない国です。 この事実は大きな意味を持ちます。 誇るべき事実です。
65年目の終戦の日にこそ釈尊の教えを改めて噛み締めたいものです。
日本では終戦の日となる今日は、大韓民国では光復節、朝鮮民主主義人民共和国では解放記念日でもあります。
戦渦により犠牲になったすべての方々に心より哀悼の意を表します。
広島原爆投下の日から65年目の原爆の日を迎えました。
一瞬のうちに人生を奪われてしまった多くの方々に、そして後遺症により亡くなられた多くの方々に心より哀悼の意を表します。
合掌
国連総長「大量破壊兵器ない世界を」広島原爆の日 広島市長「核廃絶の緊急性浸透」
広島は6日、65回目の「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園で開かれた「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)には被爆者や遺族、菅直人首相ら5万5000人が参列した。国連事務総長や駐日米大使が初めて参列するなか、秋葉忠利広島市長は平和宣言で「核兵器廃絶の緊急性は世界に浸透し始めている」と強調した。
式典には昨年より15カ国多い過去最多の74カ国の代表が参列。潘基文(バン・キムン)国連事務総長のほか、ルース駐日米大使、英仏の臨時代理大使が出席した。国連事務総長と、核を保有する3カ国の代表の出席はいずれも初めて。
原爆が投下された午前8時15分には「平和の鐘」が打ち鳴らされ、参列者全員が1分間の黙とうをささげた。慰霊碑にはこの1年間に死亡、または死亡が確認された5501人の名簿が奉納され、広島の原爆死没者は26万9446人となった。
秋葉市長は平和宣言で初めて広島弁を使い、悲劇を繰り返さないようにと願う被爆者の思いを表現。日本政府に対し「非核三原則の法制化と『核の傘』からの離脱を」と求めた。
潘事務総長はあいさつで、「式典に参加でき光栄。深い感動に包まれている」とし、「大量破壊兵器のない世界を目指す以外に、世界をより安全にするための分別ある道はない」と述べた。
(日本経済新聞2010/8/6)
テニアン島のノースフィールド飛行場エイブル滑走路から原爆を搭載したB-29エノラ・ゲイが飛び立ちました。 原爆が搭載された場所は、戦後しばらく土砂で埋められていたそうです。
その後アメリカ合衆国国定歴史的建造物(National Historic Landmark) として公開されるようになりました。
【広島に投下さ入れた原子爆弾・リトルボーイの経緯】
1945年 - 太平洋戦争中にアメリカが立ち上げたマンハッタン計画に基づき、アメリカ国内で製造。
7月16日 - サンフランシスコにて重巡洋艦インディアナポリスに積載され、日本本土への爆撃機の基地であるテニアン島へ向け出港。
7月25日 - トルーマン大統領、日本への原爆投下を決定。
7月26日 - テニアン島到着。
7月31日 - リトルボーイ組み立て完了。
8月5日 - 爆撃機への搭載完了。投下に用いられた爆撃機はB-29であり、機名はエノラ・ゲイと名付けられた。
8月6日午前8時15分(日本時間) - 広島県広島市の上空高度9,600mから投下され、細工町(現:広島市中区大手町)の島病院上空約600mで爆発した。(500mとも言われる)
焼失面積13,200,000m²、死者118,661人、負傷者82,807人、全焼全壊計61,820棟の被害をもたらした。爆心地の近くにあった広島県産業奨励館は、現在原爆ドームとして世界遺産に登録されている。
(ウィキペデキア「リトルボーイ」より)
(アメリカからみた【原子爆弾&天皇統治権(Nuclear weapon)】第二次世界大戦)
65年前の8月6日、広島に投下されたリトルボーイの胴体には "First Message For Hirohito" 、長崎に投下されたファットマンの胴体には "Second Kiss For Hirohito" という文字が刻まれていました。
これこそが当時も現在もアメリカの原子爆弾に対する認識そのものなのでしょう。
テニアン島北部のノースフィールド・エイブル滑走路には50メートルほど離れて東側にリトルボーイ、西側にファットマンが搭載されたピットが当時そのままに残されています。
広島原爆搭載地(テニアン島)にてkameno撮影。
展示されている写真がエノラ・ゲイ。当初ビクターナンバー「12」が割当てられていました、その後特殊作戦機と悟られない様、通常爆撃戦隊「第6爆撃隊」を示す丸Rへと変更、ビクターナンバーも「82」となっています。何もかも極秘で進められたのです。
1990年代にはワシントンDCにあるスミソニアン航空宇宙博物館側にエノラ・ゲイと原爆被害や歴史的な記録を展示する計画が持ち上がりました。しかしアメリカの退役軍人団体を中心に猛烈な抗議があり、原爆被害や歴史的な記録に関する部分を全てカットして展示することで決着しています。
結局、現在も厳重な警備の元に戦争終結の目的で正義のために原子爆弾が使用されたという展示方法がなされています。
65回目の原爆の日に、国連事務総長、原爆を投下したアメリカからルース駐日大使、イギリス、フランスなど核保有国からの代表が初めて参加しての原爆死没者慰霊式・平和祈念式となりました。
First Message、Second Kissがどれほどの惨状をもたらしたのかを国外に広く伝えていく必要があります。
原子爆弾という兵器を世界から無くすためには、被爆国である日本の捉え方と、原子爆弾を投下した国の捉え方のギャップをまず埋めなければならないでしょう。
「未来の世代のために、私たちは核兵器のない世界の実現を目指し、今後も協力していかなければならない」(ルース大使のコメント)
今日の慰霊式、平和記念式典が核兵器廃絶へ向けてのさらなる一歩となりますことを心より願います。
永平寺に向かう道路の途中でこのような看板が新しく建てられていました。
この看板は永平寺大野道路の越坂峠トンネルを抜けて国道364号線との交差点にあります。

この看板を見て、一寸勿体無い感じがしました。
外国の方に向けて多言語で歓迎の言葉が書いてありますが、どれくらい外国の方に意味が伝わるのでしょうか。
先の講演会で、ルメー大岳老師は「アメリカでは『ZEN』という言葉は、あらゆる意味で洗練されたという意味で使われている非常に人気のある言葉と指摘しました。
僧籍を持つ長崎総合科学大学のブライアンバークガフニ教授も「Z」で始まる単語の持つ力強さ、その魅力を解説してくださいました。
![]()
(ロサンゼルス禅宗寺の禅太鼓・SOTO禅インターナショナル会報より)
折角の看板なのですから、外国の方が見てどの方向に導く看板なのか、そしてどこから歓迎しているのかが良くわかるように、漢字の「禅」だけではなく「ZEN」も入れるべきだよね!と話しながら永平寺へと向かいました。
夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは遠ざかるにつれ次第に星の瞬きと区別がつかなくなります
沖縄旅行の帰路、羽田行きの便が悪天候のためかなり遅れました。
そのため、空港で2時間ほどの余裕が出来たため、滑走路を見渡すことの出来る瀬長島に行ってみました。
この島は那覇空港の南にある離島で、多くの旅客機がこの上空をかすめて通過していくことで有名です。
特に晴れた日には夕日と飛行機が行き交う景色を見ることができます。
滑走路への誘導灯をこの角度から見ることができるのは、瀬長島ならではかも知れません。
この誘導灯の直ぐ脇数十メートルの位置に野球場があります。
ホームランを打ったら飛行機に当たる・・・なんてこともありえそう。
冒頭のことばは、以前受験勉強をしながら、また仕事帰りが遅くなったときなどよく聴いていた日本航空提供の番組のナレーションです。
一日の疲れを癒してくれる番組でした。
夜間飛行のお供をいたしましたパイロットは、私 城達也でしたまた明日午前零時にお会いしましょう・・・
今は残念ながら城さんの生の声はもう聞くことが出来ません。
今年の春から初夏にかけて、天気・気温がめまぐるしく変化しました。
桜の季節に日照時間が少なく、気温が低めに推移したためにソメイヨシノの花を長い期間楽しめたりしましたが、生き物たちはちょっと戸惑ったのではないでしょうか。
そんな今年の春から初夏を貞昌院ライブカメラで振り返ってみます。
毎日夕方(3月は17時、4月以降は18時)に撮影された写真を1日あたり2秒でつなぎ合わせました。
同じ時刻でも様々な表情を見せていることがわかりますね。
石畳の脇、石灯籠の周囲に彼岸花が植えられています。
周囲の緑が色濃くなるに従って彼岸花が枯れていく様子にもご注目ください。
それぞれの生物がそれぞれのサイクルで日送りをしています。
貞昌院のライブカメラは10年間運用してきたものから、今年春に2代目のカメラに引き継ぎました。
初代のカメラで撮影した2006年から08年にかけての3年間の記録ムービーは、こちらにございます。
レンズがやや広角ですね。
ここでは「怠け者の日」があるんです
「怠け者の日」には、みんなただ「怠ける」のが決まりです
皆、頑張って「何もしないでいる」ことに全力を注ぎます
多くの人は「何かをする」ということが習慣化してしまって
それが「癖」になってしまっているんです
人々はやる事が無いと死んでしまう、と感じるほどです
みんないつも「行動中」です
いつも走り回っています
「止まる」機会がありません
2003年、フランス・プラムビレッジで行われたThay5日間のリトリート
「イスラエル人/パレスチナ人〜神の内に休む」
ティク・ナット・ハン師の法話より一部抜粋 (中島直人訳)
今日は月齢11。
オレンジ色の月がゆっくりと昇っていきました
最近、電柱と電線がやたらに目に入るようになりました。
かつでは、電力線と電話線だけだったのですが、そこにケーブルテレビ、光ファイバー、光テレビ、PHS、USENなどなど・・・・・
テレビ関連のケーブルは低い位置に太いケーブルがありますので特に目立ちます。
ざっと近所を廻って写真を撮ってきました。
改めて眺めると、酷い景観ですねぇ
欧米の街並みと日本の街並みを比較した時に、一番の違いは何かといえば、電柱と空を横切る電線の有る無しではないでしょうか。
欧米の主要都市では無電柱化が達成されているのに対して、日本における無電柱化率は大きく立ち遅れています。
グラフにしてみると一目瞭然です。
以前、都市計画の仕事に関っていたときには、無電柱化をいかに進めるかという議論をもとにマスタープランを策定したりしていました。
しかし、現状はその計画に逆行し、電線の数は多くなる一方です。
皮肉なことに、ケーブルテレビやインターネットテレビは、各家庭でのアンテナ設置を行なわないために、景観がスッキリとする、というのがメリットの一つとして挙げられています。
しかし、このように道路上にケーブルが増える要因となってしまうのであれば本末転倒です。
しかし、世界にはまだまだ上がありました。
ベトナムの電柱・電線がカオスすぎる件
ここまでくると、潔ささえ感じます。
今日の坐禅会から『修証義』を読みはじめました。
総序(第一章)の出だしは「生を明らめ、死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり…」です。
「生」とはどういうことか、「死」とはどういうことか、その真実をはっきり見極めるのが仏教者としての最も根本的問題であるのです。
このブログでは、何回かこのテーマについて考えてきました。
「死」についての考え方は、大まかに分けると次の三つの考え方があるようです。
(1)「死んだらそれでおしまい」という考え方。人が死んだらそれでお終い。御霊や魂といったものも残らないという世界観です。
(2)私たちのいのちは、大自然から生まれ、大宇宙という海ではねた一滴の水のようなもので、一瞬現れてすぐに大きな海に還っていくという考え方。
(3)身体は無くなっても、御霊(みたま)としてどこかに存在し続ける、という考え方。私たちは前世があり、今の人生があり、死後は、死後の世界に存在し続けて、いつか別の命として生まれ変るというものです。
どれが正解かは、自分自身がいざその場になってみないとわからないものでしょう。
生と死をどのように考えるのか、死とどのように向き合うのか、それは人間独自の行為かといえば、そうともいえないようです。
ニホンザルやチンパンジーでも「弔い」の行為をしているようだということが発表されました。
チンパンジーに弔い文化?西アフリカのギニアで、野生チンパンジーの母親が、死んだ赤ん坊を抱え続けミイラ化させる事例が3例確認されたとする研究結果を、京都大霊長類研究所(愛知県犬山市)などの国際チームがまとめ、27日付の米科学誌カレントバイオロジーに発表した。今回のような行動が群れに一貫して観察されたのは初めて。松沢哲郎所長は「死者を弔う気持ちも進化の産物。弔いの起源解明につながるかもしれない」と話している。
(共同通信 2010年4月27日)
私たちは自分以外の人の死をどう捕らえているのでしょうか。
特に身近な人を失った時の悲しみは筆舌しがたいものがあります。
私たちは一人では生きていくことが出来ない。他の人と何らかの関係性を持って生きています。
死によって、その関係性が断ち切られます。
「弔い」というのは、その関係性の変化を整理する行為といえるかもしれません。
「弔い」というのは「死者が死後の世界で安楽ならんこと」を願うばかりではなく、むしろ残された人のためのシステムなのでしょう。
冒頭の死の考え方のうち(1)「死んだらそれでおしまい」という考え方では、遺された者にとってあまりにも辛いものです。
死者が「死後の世界で安楽に住し、私たちを見守ってくれている」と考えることにより、遺されたものの心は和らぐことでしょう。
宗教や葬儀儀式は、そのようなことから起こったはずですし、「生と死をどのように明らめるか」にその大きな役割があるといえます。
お釈迦さまは、死後の世界について無記答とされました。
死後の世界をあれこれ邪推したり、霊の祟りで脅したりするのは、真の宗教とはいえないし、宗教者の態度ではありません。私たちはしっかりこの人生を生きればいいのです。
そしてしっかりと死ねばいい。そうあきらめるのが仏教の死生観です。
ただし、ここでいう「あきらめ」は「断念」ではなく、「明らめること」です。「生死」は思うがままになるものではないことをしっかりと見極めることが「明らめ」です。
生死のすがたは、そのまま仏の御いのちのすがたなのです。
このことを踏まえてチンパンジーの事例を見ると興味深いことがいくつか見えてきます。
"Chimpanzee mothers at Bossou, Guinea carry the mummified remains of their dead infants"
by Biro, D., Humle, T., Koops, K., Sousa, C., Hayashi, M., and Matsuzawa, T.西アフリカのギニアにあるボッソウ村周辺では、30年以上にわたって野生チンパンジーの調査が継続されている。村に近接した山にすむボッソウのチンパンジーの群れは、世界遺産のニンバ山からサバンナで隔てられ、20人前後という少数のメンバーで構成されてきた。本論文は、ボッソウの小さな群れで観察された、子どもの死に対するチンパンジーの母親の行動について、3つの事例を報告している。
1992年、2歳半の子ども(ジョクロ)が呼吸器系の病気で死亡した。数週間で死体は完全にミイラ化し、母親のジレは27日以上も子どもの死体を持ち運んだ。
2003年末の乾季には、ボッソウで呼吸器系の伝染病が流行した。5人のチンパンジーが死亡して、群れのメンバーは19人から14人に激減した。死亡したチンパンジーの中には、1歳のジマトと、2歳半のベベという2人の子どもが含まれていた。母親のジレとブアブアは、それぞれ68日と19日にわたって死んだ子どもの体を運びつづけた。3例とも母親は、つねに子どもの体を持ち運び、子どもの毛づくろいをし、体にたかるハエを追い払った。ハエを追うのに道具を使った例も2回観察された。このような母親の行動は、地面の上に放置した場合では数日内におこるであろう死体の腐乱を防ぎ、ミイラ化を促進した可能性がある。
群れの他のメンバーは年齢や性別に関係なく全員が、子どもの死体に触ったり、手足を持ち上げたり、においをかいだりという行動をみせた。日数がたつと、母親から離れた場所まで、子どもや若いチンパンジーが遊びの中で死体を持ち運ぶようにもなった(下記動画)。動画内の1例をのぞいて、死体への忌避的な行動は観察されなかった。特に死亡後数日は強い腐敗臭がただよい、見かけも生きているときとはまったく違ってしまうにもかかわらず、群れの他のメンバーは攻撃的な行動もせず、非常に寛容だった。
<中略>母親のジレやブアブアは、どこまで子どもが死んだことを「理解」していたのだろう。特に死亡直後では、死体がまだ生きた子どもであるかのように毛づくろいをする行動がみられた。だが、体がもう動かないということも母親は十分にわかっていたようだ。子どもの手足をつかんで引きずるように運んだり、肩と首の間に子どもの手足をはさんで背中にのせて運んだりという、子どもが生きているときには観察されなかった行動がみられた。ボッソウで子どもが死亡した3事例すべてで、母親が子どもの死体を運びつづけたということは、この行動がボッソウの群れの中では稀なものではなく、観察学習などで受け継がれている可能性もある。
(論文より一部抜粋。下線はkameno付記)
チンパンジーの母親が、子どもが生きているか、死んでいるのか、それを理解できていないということは無いようです。
人間に最も近いとされるチンパンジーが死についてどのように理解しているのか(本当のところは当のチンパンジーのみぞ知るといったところでしょうが)を解明することは、私たちの生死観、弔いの成り立ちを考察する上で重要な基礎資料となることでしょう。
最近は、都市部を中心に「葬儀を行なわずに死後直接火葬をしておしまい」とする直葬が増えているようです。さらには、遺骨を引き取ることなく産業廃棄物として処理されてしまう事例も少なくないそうです。
けれども「弔い」の儀式、葬儀だけはきちんと営んだほうはよい、いや、営むべきであるとつくづく思うのです。
昨日の朝日新聞一面トップ記事に次のようなものがありました
博物館?閉館の波 財政難 戦後初の減少
戦後増え続けてきた日本の博物館の数は自治体が設置を争った結果実に4千以上を数え、満足に展示すらできない館も出てきています。
このような日本の文化政策の貧困さ、そしてこの領域で起きている変化・きしみを追った記事です。
例えば熊本県天草市の市立「新和歴史民俗史料館」は、入り口はシャッターが下りたまま。
昨年度の入館者はなんとゼロだったそうです。
館内にはカビ臭さが漂い、市民から寄託された古文書や民俗史料など約3千点が無造作に置かれている状態です。
青森では、博物館の閉館で収蔵品が行き場を失っています。
旧清掃工場の管理棟の倉庫に「地蔵」「馬のくら」「絵馬」「柱時計」「石みたいなやつ」などと書かれた段ポールが放置されているのです。
今年度予算で廃校となった旧小学校を改築して「史料館」とするための設計費は計上できるかもしれない、けれども、管理運営の面から目処が立たないのです。
地方財政の悪化も博物館運営に影響を及ぼしています。
滋賀県では「絹本著色六道絵」などの国宝18点、重要文化財197点を収蔵・保管する琵琶湖文化館ですら廃止が決まりました。
地域に眠る「草の根」の文化財も7695点収容されており、国宝も含め収蔵品の行く先は決まっていないとのことです。
さらに追い討ちをかけたのが10年以上かけて行われた平成の大合併です。
合併した市町村のそれぞれが歴史系の博物館や史料館を持っていたるため、同様の博物館を複数抱えることとなります。
隣接地域であるがゆえに展示内容が似ており、統合や閉館の対象となりやすいのです。
同様のことは、横浜市でも起こっています。
先のブログ記事で、中学校の歴史史料が棄てられてしまった事例をご紹介いたしました。
地区ごとに保存展示されてきた史料は、横浜市に集約され、そこに1点ありさえすれば良い。市としては2点以上は収蔵しなくて良い、という考えがあるのであれば、地区毎の史料は蔑ろにされてしまうということになります。
これとは逆の好事例として新潟県上越市の「上越市総合博物館」が紹介されています。
上越市は05年に、旧上越市と13町村が合併して生まれた市です。
結果、4つの歴史民俗史料館が市総合博物館の所管となりました。
特に農具などのは似たようなものが大量に収蔵されています。「唐箕(とうみ)」だけで22台。民具だけで総数1万点以上。
そこで同博物館では07年から8年計画でこれらを再整理、データベース化を行ないました。
上越市総合博物館で07年に開催された企画展「頚城のくらし・米づくりの道具たち」
市内各地区の唐箕がずらりと並んだ。(朝日新聞2010/4/18より引用)
その成果の一つとして、「唐箕」を使われた地区ごとの共通性や細かな作りの違いなどから地区ごとの様々な生活文化を浮き彫りにできるようになり、企画展まで行なわれるようになりました。
「民俗史料について『どこにでもあるものだ』という人がいるが、捨てれば、昔の暮らしを語る史料は失われてしまう」
(同博物館・主任学芸員のことば)
まさにそのとおりだと思います。
元々、「史料を集め,建物を用意して展示すればそれでいい」という安易考えで造られた博物館であれば、その継続は難しくなります。
必要なことは、設置の際にどこまで館の社会的機能を吟味できるかということです。
一番の問題点は「資料館の学芸員育成を強化しなかったことによる資料館の形骸化」でしょう。
史料を集めただけでは資料館として機能しません。
学校設置の資料館であれば、授業の中で積極的に使っていったり地元住民と協働で行わなければ史料を生かすことはできません。
「立派なハコなんかなくても,熱心で優秀な学芸員が一人いるだけで博物館は大きく変わる」
(文化庁美術学芸課長のことば)
このことばが全てを結論付けているといえるでしょう。
熱心で優秀な学芸員、教員、担当者が、「一時的」ではなく「継続的」に配置される、そのような施策を取る必要がありそうです。
■関連ブログ記事
最終校正校了でご紹介した2つの本が発行されました。
どちらの本も、「街の歴史の再発見と次代への継承」を実践して、学校や寺社、市民が持っている写真を収集し、デジタルアーカイブ化して共有財産とすることの価値や、それを元に地域の人たちのつながりを広げる取組みの一貫となっています。
デジタルアーカイブの持つ価値とそれを活用した取組みについては こちらもご参照ください。
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『こうなんの歴史アルバム』
港南区誕生に至る歴史秘話 (明治・大正・昭和・平成)
変形A4版 96ペ?ジ 定価¥1000(予約価格 ¥900)
3月末発行予定
編集・発行 港南歴史協議会
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『未来につなぐ子どもの遊びヒアリング集』
?ここで遊んだ,笑った,おこられた?
A4版 36ペ?ジ 無償配布
3月末発行予定
編集・発行
港南の絵本をつくろう会/横浜市港南区区政推進課
この2冊の本が、一昨日、昨日と丁度同じ時期にそれぞれメディアで取り上げられました。
港南区の歴史たどる写真集発刊、郷土史愛好家らが1枚ずつデジタル化/横浜
(神奈川新聞・カナロコ 2010/4/16)

昔遊びのヒアリング集が完成・区民16人が取材に協力
(タウンニュース港南区版 2010/4/15)

また、来月はそれぞれの本を元にした「座談会」「お披露目会」が開催されます。
活字、写真をもとに、直接その場面に直面した方々と、世代、時代を越えた交流を行なえるような会合となると思います。
どちらも人数に限りがありますし、すぐに定員枠いっぱいになってしまうことが予想されます。
ご希望の方はお早めにお申込みください。
■「こうなんの昔を語る」座談会
5月29日午後2時より港南図書館にて
※どなたでも参加いただけます
○ 定員:50名( 往復はがきによる申し込み抽選制 :4月30日〆切)
宛先:港南図書館(〒234-0056 港南区野庭町125)
■「未来につなぐ子どもの遊びお披露目会と紙芝居会」
5月23日午後1時30分より 金井幼稚園ホールにて
※昔の遊びをお話を頂いた方、取材メンバー、関連団体、幼稚園児童、保護者を対象とします
○問合せ先・港南の絵本をつくろう会
(横浜市港南区港南台4-17-22港南台タウンカフェ内)
TEL 045-832-3855 FAX 045-832-3864
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む
原文: 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見
(大伯皇女 巻2-165)
これは大伯皇女が、亡き弟、大津皇子に思いを馳せて詠んだ歌です。
明日からは、あの二上山を弟と思って眺ることにしよう・・・・大伯皇女の思いがひしひしと伝わってきます。
古来から、お彼岸の真西に沈む夕日の向こうはに西方浄土があるという信仰が生じたことも自然のことであったのでしょう。
舞台となった二上山に沈む本日の夕日をカシミールで作成してみました。
お彼岸の中日には、大和高田市から見ると、ちょうど二上山雄岳、雌岳の間に落日します。
この美しい光景は、万葉の時代から現代まで変わることなく「うつそみ」(此の世)と彼岸の世界を結ぶ光景として捉えられてきました。
五木寛之さんは、二上山を「生の世界と死の世界をわける結界」と表現しました。
「二上山のかなたに沈む夕日をながめれば、きっと理屈でない浄土がわかるだろう」『親鸞』(五木寛之著)
信仰は理屈ではありません。
彼岸(ひがん)は、、現世=比岸(しがん)に対し、向こう岸という意味です。
苦悩と煩悩から離れ、寂静の世界である彼岸は、西方浄土(西方のはるか彼方)にあると考えられました。
このことから、太陽が真西に沈む春分と秋分の日には、現世と極楽浄土が最も近くなるとされたと考えられます。
お彼岸はご先祖様のいらっしゃる世界と交流ができる期間とされ、先祖供養する習わしとして定着しました。
曹洞宗では極楽浄土という考えは用いませんが、お彼岸にお墓参りをする習慣は、この思想に基づいているといえます。
今日はお彼岸の中日。
お墓参りをされるかたも多いと思います。
日本に伝わるお彼岸の伝統を感じながら、ご先祖様、亡き方に思いを馳せながらお参りいただければと存じます。
春分の日の今日、教区2か寺の彼岸会法要に随喜させていただきました。
その帰路、舞岡公園でダイヤモンド富士を眺めることができました。(ジャストタイミング!)
昼間は吹き荒れた強風のため黄砂で空が霞んでおりましたが、夕方には嘘のように晴れ上がり、富士山のシルエットがクッキリと写しだされました。
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2010/3/21 17:41 横浜薬科大図書館棟(旧ドリームランド・エンパイアホテル)が見えます
死亡:8万3793人 、負傷者:4万918人、被災者:100万8005人、被災家屋:26万8358という膨大な被害をもたらしたアメリカ軍B-29による無差別空襲、東京大空襲の日を迎えます。
東京大空襲は9日の夜から10日にかけて継続的に行なわれました。

3月10日(水)の11時、13時、15時からそれぞれ20分づつ、戦災資料センター2階会議室で八木健一・ゆみ子夫妻によるハープとシンセサイザーによる演奏があります。
今年もまたあの日が巡ってきました。
私の父は東京下町が一夜にして焦土と化した昭和20年3月9日の夜、家族四人と東京深川区で東京大空襲を罹災し、四人の肉親を失いました。
父は生前空襲については、黙して何も語りませんでしたが、毎年3月10日には決って東京大空襲戦災資料センターを訪れていました。
今から思うと、肉親の命日にこの地を訪れるのが父にとっての墓参りだったのでしょう。
・・・・(中略)・・・
かねてより準備しておりましたCDもやっと完成しましたが、鎮魂と平和を願って3月10日に北砂の戦災資料センター2階の会議室で演奏させていただくことになりました。当日は、その場に集われた皆さんが、少しでも安らかな気持ちになれるように、心を込めて演奏したいと思っています。
(八木健一・ゆみ子)
犠牲となった多くの方々に対し心より哀悼の意を表します。
■追記
讀賣新聞で演奏会の様子が報道されました。
東京大空襲、肉親失った父への思いハープに東京大空襲から65年となる10日、約10万人に上るとされる犠牲者の追悼行事が都内各地で開かれ、江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」では、4人の肉親を失った父の思いを継ごうと、ハープ奏者の八木健一さん(53)(神奈川県藤沢市)が、鎮魂と平和への願いを込めたオリジナル曲を演奏した。
八木さんの父、康二さんは江東区内で大空襲に遭い、逃げる途中で、はぐれた母と弟2人は行方不明になり、5歳の弟も康二さんの背中で息絶えた。康二さんは、この時のことを多くを語らないまま2006年3月に死去したが、遺品からは大空襲の様子を記した便せんが見つかった。
八木さんは、「修羅地獄」「恐怖のどん底」などと書かれた言葉に父の無念さを感じ、妻とともに大空襲をテーマにした「寒い夜に」「祈り・光へ(鎮魂)」の2曲を作曲。この日は、「被災者が少なくなる中、空襲の悲惨さを音楽で次世代に伝えたい」という思いで演奏した。
2人の姉の追悼に訪れた和歌山市の家崎満大さん(82)は「一番上の姉の遺体が見つからず、ずっと心につかえていた。演奏を聴いて少し気が楽になりました」と涙を流していた。
(2010年3月10日 読売新聞)
■関連ブログ記事
観音様胎内での演奏会
東京大空襲の日に
大施餓鬼法要・演奏会報告
檀家のOさんより永谷川氾濫の写真をいただきました。
場所は中永谷交差点。
撮影日時は1982(昭和57)年9月12日、昼前。
台風18号のもたらした集中豪雨により、丸山方面から流れ込んだ雨水が馬洗橋付近の護岸を崩し、永谷川が堰止められた形となり溢れた水が県道を覆いました。
上永谷駅の開業は昭和51年、これに前後して丸山の山々が造成され降雨はそのまま流出するようになり、丸山台の各所に遊水地が造られたものの、このような出水は毎年のように起こっていた記憶があります。
この後、環状2号線が整備され、永谷川は道路上下線の真中に拡張移設されたため、このような洪水ほとんど起こらなくなりました。
永谷川は戦前からも度々氾濫を起こしていました。
川沿いにお住まいの駄菓子屋さんから永谷川にまつわる聞き取りをした際に、下記のようなお話をいただきました。
私が子どものころ(昭和10年代)、永野小学校にはプールが無かったので、永谷川で泳いだ。
柳橋に堰があったため、貞昌院から柳橋に掛けて泳げるほどの幅と深さがあって、魚もかなりいた。
今の永野幼稚園のあたりには水車もあった。
下流の堰は、一年に一度、川底の泥を流すため開けたので、その時は特に魚を捕るチャンス。
川にはハヤ、フナ、カニ、ヤツメウナギ、ドジョウなどがいて、とにかくたくさん捕れた。
みんな網なんか持って居なかったので、ざるを持っていって夢中で捕った。
川の周囲には蓮池もあったりして、蛍もたくさんいた。昔は家にサッシもクーラーもないので夜は開けっ放し。家の中に蛍がよく舞い込んできた。
カブトムシとかクワガタは、何処にでもいるので、わざわざ捕りにいった覚えは無い。木を見ればいっぱい居たから。
その永谷川は大雨が降るたびに溢れたので、そのたびに畳を上げて水害に備えた。
このころから、昭和50年代にかけて永谷川は毎年のように溢れていたのです。
以前、ブログ記事で昭和初期上永谷の絵地図(『天神さまと上永谷』・発行・永谷天満宮氏子会・平成元年3月17日発行に掲載)を御紹介したことがあります。